ママ
親は必要か?みたいな話を前話でしておいてママのタイトルは頭おかしい、のだけどそれでも自分は理想的な「ママ」を求めているのだと思う、多分。実母ではないよ。
さて日本は未だに女性蔑視、男性社会と言われておりますがネットを見ても、現実に目を向けても拠り所となる「ママ」を求めてる。
それはネットに触れる若者ばかりではない。
いい大人が、大人というか高齢者という棺桶に片足を突っ込んだ奴でもね。
仕事熱心な昭和気質な爺さんが仕事を引退したらパートナーの婆さんがいなければ何もできない、幼児のような状態になるなんてのも婆さんに母親を投影しているからと見れば納得できる。
それを本人が自覚してるかどうかはともかく。
なぜ男女問わずマザコンか、それは日本は女性の考え方の社会だからだ。
女性優遇ではない。考え方が女性なのだ。
それは男性優遇だからこそ、男と女の性質を手に入れるための成長が社会の方向性となる。
という事はつまり男性から女性になるための方向性のみが優遇されてきた、という事になる。
そしてそれは「我慢」する事を美徳としている社会性につながる。
女性の本質とも言うべき物事をシンプルに考える、選択肢を減らしたいという方向にずっと日本は向かい続けている。
その抑圧からのカウンターで趣味、性癖、仕事に文化、様々な物が多方面に放出されている。
それが男性が女性の性質を手に入れて成長する上でバランスを取るための男性の性質である。
ここで言う男性の性質、つまり性癖とは謂わば綱渡りのために長い棒を持ってバランスを取るが、そんな棒みたいな物だね。
さて、性癖といえばNTRの話を以前、チョロっとだけした。
その時はネットで自分が見た考察の一部を紹介した形になったがではそのNTRの性癖が解消されたとしたらどうなるのか。
考察通りとするならばNTRとは弱者男性の歪んだ女性蔑視の思想なんだから解消されれば女性蔑視が軽減される。
NTRとは女性の性的欲求とは汚く、そして女性とは快楽に弱い生物という偏見と妄想を拗らせた物、として考察では扱っていたが解消されればそんな女性の性に対する奔放さをもNTR物というフィルターを通したものではなく、真正面から受け入れられるようになる。
女性も男性と同じように人間であり、欲求もあるし、快楽に溺れたくもなる。しかしそれは男性と同じだと受けいれられる。受けられればそこから先が考えられるようになる。
そして解消されればNTRというものへの拘りも薄れる。
完全に解消されるかどうかは言い切れないけど、少なくとも納得は出来るようになる。
実際はこんな単純な物ではないのは重々承知ではあるが少なくともNTRという性癖を「気持ち悪い」とさらに蓋をして我慢を強いればパンクして無気力になる。
あるいは溢れたエネルギーがそれが趣味や仕事に向かうかもしれないが少なくともそれで得た報酬が我慢させた相手の手に渡る事はないだろう。
あるいは憎悪が煮詰められた性癖が新たに生まれるだけ。
結果的に「女性」の本来の性質であるシンプル化、我慢を強いれば強いるほどバランスを取るための「男性」としての拘りが増殖する。
そしてその「我慢を強いる」という行動自体、それそのものが既に強力な「男性」的な拘りである。
一人でその拘りを慰めているうちは「マゾヒズム」として単なる個性の内だが、それを他人に向ける以上はそれがどういう結果を生み出すかを考えるべきだ。
そして何も考えずに「我慢」を重ねて来たからこそ皆が「ママ」を求めている。
綱渡りの先で腕を広げて抱きしめようと待っている「報酬」という名のママ。
綱渡りの棒が例えどんな物であっても受け入れてくれる「肯定」というママ。
例え綱渡りに失敗しても責めずに何度でも拾い上げてくれる「応援」というママ。
日本人が求めてるママという上位存在は突き詰めればシンプルだ。
そしてそれは人が他人に何かを望む時に必要な事ともなる。
自身が未来に夢を見るとき、ソレをシンプルにしてしまえばそれはつまらなくなる。
それは夢というより予定であり、そこに至る道筋は努力から義務に変わる。
義務感を感じれば何故そんな事を思ったのか、と過去に不満を探してそれが怒りと悲しみに代わり、不幸になる。
では他人に対して何かを願うとき、シンプルならどうなるか。
「こうしてほしい」という願いがシンプルで明瞭ならばその他人が行う事もシンプルになる。
それに対して自分が協力できる事もシンプルになり、労力が抑えられる。
そしてそれらの願いとは自分の過去の経験から来る物である以上、明確でなければならない。
逆に他人への願いが曖昧なら。
願いが曖昧であるならその願いを実行する人間も何をすれば良いのか曖昧で、結局それが自分が協力できる事も見えず、「大きなお世話」「 ありがた迷惑」となり、確執が生まれる原因となる。
それらの原因は過去の経験が不明確だから。
なぜならそれは自分の立場からみた側面でしかないから。
それは全てを自己責任とする事が正義としている日本とそれを是としている多数派の勝者からくる教育によるもの。
自分の行動は自己責任であり、それは確かに間違いない。
だが他人の行動した物や周囲の環境の問題すらも自己責任にしてしまう。
それは強い立場の人間が楽をするために弱い立場の人間にするからだ。
そしてそれを強い立場の人間は「成長の糧」 として正当化もする。
実際はそうした強い立場の人間の曖昧さによって金、時間、労力、いずれも追い詰められた弱い立場の人間が成果を出すために不要な物と一緒に時間をかけて吟味しなければならない曖昧な物を切り捨てたからだ。
それを格好良く「洗練」と言ったりするが、だからこそ気付けば先細りになる。
そして全てが終わった後で「あの時ああしていれば」と後悔が心を占める。
それが一つの経験、教訓となるかもしれないがそのためには答えを出す行為、つまり区切りが必要となる。
だがその区切りをつけるのは時間もかかる。
そして区切りをつける前に次の課題、次の問題と降りかかる。
だから何時までも区切りがつかず、やがて記憶が薄れ、何を後悔しているのかさえ曖昧になり、ただ不満が募ってゆく。
だから性癖が生まれ、欲求不満を解消しなければやっていけない。
だからママという上位存在、全てをシンプルにしてくれる、悩まずに済む存在が必要とされる。
外国ではそれが宗教だったりするわけだが日本は基本的に無宗教だしね。
だから宗教にハマるような人は頭が悪いかどうか、は知らんけども頭の中がゴチャゴチャしてて整理がつかないまま成長してしまい。何をどう手を付けたらいいか分からない状態になっていて、それを宗教というシンプルな物に統一してしまいたいんだと思う。