説得力
前話で老化、老人の役割について自分なりの答えを述べた。
老人の役割は教訓。
それまでの人生で得た経験から答えを出してそれを伝える事。
では何故それが老人でなければならないか。
説得力がないからだ。
単純に見た目の問題。
仮に一言一句、同じ事を10代の子供、20代30代の若者と80代90代の老人が語るのとでは教訓を受け取る側の感じ方が違う。
伝わりやすいように軽い言葉を使ったら若者の言葉は言葉通りに軽く感じるが、仮に老人が同じ言葉を使って伝えたら受け手の方が勝手に「軽い言葉に見せて実は重みのある言葉かもしれない」と言葉の意味を探る。
逆に老人が難解な言葉を使っても何とも思わないが若者が使えば受け手の方は「自分達とは違う世界の住人、天才はやっぱり違う」とか思ってしまう。
2番目に役割の問題。
老人に教訓を伝えたる役割があるように子供は子供の、大人には大人の役割がある。
だから子供が教訓を伝えても「大人になったら自分でやってみてね」と軽く流される。
大人が伝えても「まず自分でやってみろよ」と責められる。
けど老人は残りの人生も長くないから受け手の方は「自分達が意思を受け継ぎます」となる。
3つ目は上下関係の発生。
教訓は経験から導き出された答え。
つまり成果物。
それを大人、あるいは子供の側から言われたらどう感じるか。
前前話で語ったように人は3種類に分ける。
賢者と勝者と敗者。
賢者は相手が大人だろうと子供だろうと聞き入れる。
敗者は自分より更に弱者の子供の言葉は聞き入れないかもしれないが同じ大人の言葉でも聞き入れる可能性はある。
しかし勝者は自分の道が正しいと思っているので自分と同等以下の立場の人間の意見を聞かない。
自分が教訓を伝えてきた相手より下につきたくないから。
勝者という人種が同じ大人という立場で教訓、を聞くとしたら上司や先輩といった立場が上の人間。
もっとも本当に話を受け止めているか、聞いているフリをしているかは分からんけどね。
ここであえて2分割で人の成長段階を考えると
子供→弱者、大人→強者、老人→弱者。
老人は弱者で大人は強者。
老人は意見は出来ても強制力はない。
教訓を人にするなら弱者でなくてはならない。
説得力とは老いて醜く、弱く、そして悔しい思いを全面に出す事で聞いて貰える。
教訓は命令ではないし、指導でもない。
責任が取れない。無責任な言葉でもある。自分のエッセイもそうだ。
数ある答えのうち、たった一つの答えを提案するだけ。
他人からの教訓を使う時は自分の考え方でどうしても上手く行かなかった時。
他人の経験から導いた教訓という言葉はサブウェポン。
自身のメインウェポンで戦い、もしもピンチになってどうしようもない時にサブウェポン。
だからといって本当にピンチの時しか使わない、練習しない、理解せず使って失敗してこちらを悪者扱いはご勘弁。
他人からの教訓は用法・容量正しくお使い下さい。
さてドンドン話がとっ散らかって参りました。
とりあえずまとめると結論としては弱さこそが説得力。
教訓自体の内容の説得力、というよりその前の段階の聞いてもらうという事になってしまったかな。
タイトルとはズレたかも。そこは反省。
それから教訓とは上の立場の人間からの指導や命令じゃないよ。
選択権は教訓を与えた人ではなく自身にある事を忘れずに。