何故毒親の事を不満を語るのか。
ここ数話、エッセイというより自分語り傾向なので。
子供の代わり、といっては傲慢かもしれないし、そんな使命感があるわけでもない。
だけど「なんのため?」と言われればそういう事だ。
女の問題はフェミニストが声を上げる。
地方の問題は地方の人間が声を上げる。
様々な問題において当事者が声を上げるべきだ。
なら子供の問題は誰が声を上げるのか。
高校生くらいなら声を上げる事が出来るかもしれない。
自分の場合、もし仮にネットやスマホなどのある現代でどうだっただろう、と考えてみたけど、やっぱり難しいかもしれない。
何処まで行っても恥は恥だ。特にそれが現在進行形の場合は特に。
また、自分が成功していた部類の人間でも難しかったかもしれない。
そんな人間が言えるのは「あんな時があったけど、今幸せだからOK」
それじゃあ駄目なんだよ。
結果オーライで曖昧にしたら何も変わらない。
もうすぐ2年になるが北海道のイジメを苦にして凍死自殺を図ったとされる少女。
会ったこともないし、細かい事もよくわからない自分とは接点がない人間だ。
だけどあの子の笑顔の画像が何故か胸に残っている。
自分に何か出来たんじゃないか。
勿論そんなのはできるわけがない。けど何か責められているような気がしてならない。
コロナ禍で自殺した芸能人も何人かいて大きく報道されたのに、それは特に何も浮かばない。
だけどあの子には何か罪の意識が浮かぶ。
また親殺しの話も最近耳にする。
某教会関係を含めた無敵の人の話も。
自分も弱者の側だからそう思うのかもしれない。
単なる気の迷いなのかもしれない。
だから自分の情けない話を書いている。
誰かがこの情けない人間の情けない話を見て「親」というのは「子供」を生かすも殺すも、その影響を与える存在だと感じてほしい。
そして毒親は毒だろうがなんだろうが親は親だ。
毒親の吐く言葉の中から毒と愛情を分別して愛情を子供は気づかなければならない。
自分も今選り分けている最中だが毒と一緒に飲み込んだら駄目なんだ。
逆に毒ならいっそ、と全てを切り捨てる事自体、それが毒親への道になる。
言葉は言葉、毒は毒、愛情は愛情。その取り分ける作業をして愛情を理解しなければそのうち怒りで目が眩み感謝出来なくなる。
人にも物にも、そして感謝出来なきゃ話の背景も思い描けなくなる。
0か1か、白か黒か。
その世界は味気ないぞ。
偉そうな事を語ったけど、誰かのため、ってのは1/3程度。
1/3が自分の欲求不満解消、残りが選り分ける作業のため。
大部分は自分のため。
だけどそれなら恥晒しなんてしなくていい。
誰かのためってのは比率は少ないけど嘘じゃないのよ。