結局、普通の答えになるけど、だから普通じゃない。
一応このエッセイは自分が聞き齧った情報をそのまま書き出してる場合もあるがでもエッセイのつもりなので考えてはいる。
とはいえ考えが浅い人間の考えた事なので答えが「どこにでもある答え」になっている事が多い、と言うか殆どだと思う。
多分見ている人も結論が結局普通過ぎて面倒臭い、結局堂々巡りじゃないか、と言われても仕方ない。
所詮は自分は失敗ばかりの敗者でどう頑張っても「普通」になるのがやっと。
もしかしたら普通の人達が10代や20代の頃に達した答えに今ようやくたどり着いているだけなのかもしれない。
単純に努力不足、情報収集が足りないとかなのかもしれない。
じゃあ「死ぬ気」でやればいいのか、と言われれば…分からない。どうなんだろ?
努力至上主義の大前提は「生きるか死ぬか」の二択だ。
死ぬ気でやれば仮に成功しても大事なことを見落とす可能性は高い。
「金」がない「時間」がないから「力」に頼る。
そして皆終わったあとにこう言う。
「あのとき死ぬ気で頑張ったから今の自分がある」
それって憎しみの感情で全て他人のせいにした自分と何が違うんだろう。
自分は時間の限り、そして憎しみにとりあえず納得つくまで他人の所為にしつづけて、結果的に残ったものを自己責任と受け入れる事ができた。
けど、頑張った過去を持つ人達って結局何を得たの?金?技術?そんなの生きて暮らせる分あれば良いじゃん。
その人達に言わせれば怠惰かもしれんけど、もう自分は他人から指図されて頑張るつもりはない。
頑張れないから死ぬ。失敗したが選んだ事のある選択肢だ。いつも心の中にある。
じゃあ頑張ったと言う人達って何が心の中に残ったのか。
結局、自分と同じように「正当化」してるだけじゃない?
努力の正当化。
「努力」 と言うポジティブな言葉のおかげで誰からも咎められない。
だけどちゃんと他の事に目を向けられているのか?
自分の見てきた「努力至上主義者」はどうもそんな感じがする。
努力してれば人を見下しても良いのか?
他人に強要しても良いのか?
それ以外は何も考えなくて良いのか。
それが「普通」なのか?
結局そんな疑問すらも堂々巡りでどこかに答えがあるのかもしれないがそれもいつかエッセイにしてもいいのかもしれない。
結局、何言いたいか自分でも分からなくなっちゃった。
ただ、普通ってよくわからない以上、普通じゃないよね。
もう支離滅裂。こんなものエッセイにしていいのか?
笑うしかない。