浅く広く、深く狭くの両立は可能か。
ドヤ顔で前話で「知識」を披露したわけだ。
だかあんなのは偉い学者さんか何者かが研究した物を聞きかじったもの。
知らない人には「へぇ〜」と思われるかもしれない。
ソレはソレで気持ち良いよね。自分も浅い人間だからよくわかる。
アレが承認欲求。だから知識を披露していれば次に次に、と知識は浅いまま分かったつもりのものを「自分の知恵」だと承認欲求が満たされて考えが浅くなる。
そして自分の知識をひけらかしてもう一つの欲求、「問題解決」したいという欲求を有耶無耶にしてしまう。
自分は浅い人間だから2分割の良い悪い、強い弱いで判断してきた。
けどそれは自分が特別浅いわけではない。
でなければ毒親なんて言葉も世の中に生まれていない。
浅い人間が自分も含めて多い筈だ。
浅くても成功したかどうか、勝ったかどうか。
例えば、天才的なスポーツ選手がいたとして、その人が引退しても名コーチになるとは必ずしも限らない。
感覚タイプで選手時代は何でもやれた人間が指導者になれば自分の感覚を伝える事を学んでいないし、何でも出来たからと言って一つ一つの技術の練度が高いわけでもない。
だからといって職人タイプが名コーチになるかというとそういうわけでもない。
あくまで「自分」用の経験はあるがそれを他人に向けて伝えること、言語化を練習していなければ結局はコーチとしては☓。
そういった人達が教えを乞われたら言う事は一つ「とりあえずやらなきゃ分からない」。
確かにそれは正しいんだけど、それはその人がちゃんと見守り教える事が前提だ。
「人から聞くより身体で覚えろ」は正論パンチ、マニュアルと同じ。誰にでも言える。
正論パンチだけじゃ人は変わらない。
なのにその通理を無理矢理通そうとするからドンドン言葉が強くなる。
その代表的なのが「死ぬ気でやれ」と言う言葉。
それは自分に向けて鼓舞する言葉であって他人に向ければ無責任。
さてドンドンとタイトルからズレていくから一旦戻そう。
浅く広くに対して深く狭く、はたまに使われる。
知識だったり、あるいは人間関係だったり。
けど理想は「深く広く」だよね。
多分一つの言葉、事柄に限れば無理だとは思うけどそれぞれ分けて「深度」と「領域」に分けるべきなんだよ。
深度を深くするのは「自分」、領域は「他所」から持ってくれば良い。
その領域の選択を「吟味」して使えば「深く広く」が再現できるのかな。
投稿した段階では自分で何を語りたいか理解しているがコレが時間が経っても自分で解るのか、そもそも読んでくれてる人は理解してくれるのか、イマイチ確信が持てないから浅いんだよなぁ。