T氏に対して思うこと その1
前回の「若い頃に悪い事をしておけ」の話を書いたきっかけは最近、某T塚ヨットスクールの経営者だったT塚氏の動画を何件か見たのがきっかけだ。
ネットに出回っている情報を見聞きした程度だが「厳しい教育」によって「生徒を死なせた」とかそうした話は知っている。
とはいえ、古い話だし、T氏も古い人間だ。
今とは価値観も違う。
だから自分としては特に思うことはなかった。
しかし最近ではT氏はネットで活動し、彼の教育方針や思想に共感した若い人間が生まれつつあり、その思想を広める活動をしている人達がいると聞いてカルト宗教のような空気を感じた。
そこでT氏の主張をいくつか動画で見て矛盾を感じた。
それはつまり前回でいうところの「若い頃に悪い事をしてしまった事実を受け入れて罪悪感を身につけるタイプ」ではなく、「自分の若い頃の悪い事を正当化するタイプ」の人間だと感じたわけだ。
何件か見た中で最初に目に入ったのは「イジメには2種類、ハードのイジメとソフトのイジメがある」と主張しているものだ。
ハードなイジメとはその人の出身地や親の経済状況、肌の色、病気や障害の有無といった本人ではどうにもならない事をネタにしてイジメる事。
一方でソフトなイジメとは本人の能力、行動、言動など、努力次第で改善出来る事をイジメという方法をとって本人に「何クソ!」と奮起させる事。
ハードなイジメはダメだがソフトなイジメをする事によって集団から逸れた人間に圧力をかけて行動を正す効果を見込める。
だから「ハードのイジメは否定するがソフトのイジメを自分達は肯定、推奨している」というのだ。
確かに「一理」はある。
だがあまりにも「理想論」だ。
特に現代においては昔と比べて色々な事が解析、解明されている。
「皆が出来ているのにソイツだけが出来ない」=「ソイツの根性が足りない」などといった安直な根性論でゴリ押ししてもどうにもならない事が、他ならぬ「根性論者」のゴリ押しによってトラウマを抱えた被害者のおかけでたくさんのデータが生まれ、解析された。
マニュアルを見て仕事を理解できる者もいれば、実体験を通さなければ理解できない者もいるし、全体像を把握しなければ理解できない者もいる。
勿論、他にも理解の仕方に個人差がある。
外部からの「イジメ」という圧力だけではその場を取り繕う事は可能でも理解するのは難しい事が多々ある。
結局取り繕っただけで本質を理解できない状態というのを積み重ねた結果、応用が効かない人間が生まれる。
イジメによって結果を焦り、基礎が固まらない内に結果を求めて小手先の技術を身につけ、それで成功したからそれが本人にとって基礎となってしまう。
運動にしてもそうだ。
運動音痴な人間がスポーツなどで技術の習得をしようとしてもかなり難しい話であるし、仮に技術を身に着けられたとしても基本的な自分の身体の操作もチグハグな人間がスポーツの技術を身につけるとなればかなり癖がある動作となり、それはその後の怪我に繋がる。
そもそもとして「大人」ですら「ハードのイジメ」と「ソフトのイジメ」に区切りをつけられていない。
何故なら「 イジメをする」という場合は感情的になっているわけで、それに対して区切りをつけるためには「自分の行動はハードなイジメか、ソフトなイジメか」と自分の行動を立ち止まって考えるフェーズが発生するからだ。
考えるためには「冷静」になる必要があるが、「冷静」になれば「ハードかソフトか」よりも「イジメ」という行動をしようとしている自分の行動を改める筈だ。
「ハードかソフトか」を考えるのはT塚氏の教育論で言えば「相手のため」であり、その「相手の様子」を見れば「本人に奮起させるため」には必ずしも「イジメ」という行動である必要はなく、むしろ相手によっては逆効果にもなる。
それでは教育として本末転倒だ。
仮に冷静になってもまだ「相手をイジメる」という事に固執し、「ハードかソフトか」という点を判断する場合というのは「後になって責任を問われないようにするため」「被害者のスタンスを取り続けるため」だけだ。
それは「 陽キャラ」や「女」にありがちな「他者にマウントを取りたい」という欲求を満たしつつも責任逃れをする口実探しでしかない。
責任を取らないイジメなら仮にハードであろうがソフトであろうがそれはただの悪意でしかない。
「子ども」、あるいはT塚ヨットスクールに預けられた「 若者」という未成熟な世代の人間に指導者側の自分達ですら死亡者という犠牲者を出した事実がある以上、「ハードとソフトのイジメの区別」というT氏の主張は自分自身ですら制御が効いていないことの証明だ。
自分でも制御できない事を他人、ましてや子どもや若者に期待するのは指導者としてそれこそあまりにも「無責任」だ。
例えば「低能」が集団からはみ出さないように努力している様子を周りの者が見た時に「無駄な努力」と馬鹿にしたらそれは罰するべき「ハードのイジメ」か?推奨している「ソフトのイジメ」か?
自分は努力を馬鹿にする事を通して間接的に生まれ持ったどうしようもない部分を馬鹿にしていると思う。
だから自分の感覚で言えば「ハードのイジメ」の判定だ。
しかし見る人によっては「結果で見返せ」など言う人もいるだろうから「ソフトのイジメ」として判定する場合もあるだろう。
そして恐らくT塚氏は後者寄りだ。
一方でスクールの指導者の人間の中には前者寄りの人間もいるかもしれない。
個人によって判定が曖昧な事をすれば「迷い」が生まれる。
だけどスクールの経営も「ビジネス」である以上、スピードが求められる。
一々迷って判断できず結局「ハード」も「ソフト」も境界がなくなり全てのイジメが経営のトップのT塚氏に都合のいい「ソフトのイジメ」でしかなくなる。
「ハードのイジメはダメだが、ソフトのイジメはOK」
そのソフトのイジメを肯定する理由は「集団から逸れたはみ出し者」を奮起させ、集団に戻そうとしているから。
確かに一応の「理屈」は通っているように感じるし、「正論」かもしれない。
手段として他にも選択肢があるにも関わらず「イジメの肯定」に拘り、彼の主張に賛同する若者が生まれているのははみ出し者を救おうという意図、「目的」があるからだ。
だが言ってしまえば「目的」という名の「口実」、「大義名分」に過ぎない。
いくら大義名分が良いものであったとしても実情として「子どもを大人にするために弱い子どもを殺し、優れた子どもだけを大人にする生贄にする」としているからだ。
それは動物の弱肉強食の育て方と変わらない。
「集団行動」という事は「皆と同じ事」をするという事。
であれば最終的に「生まれ持った才能」で決まる。
才能がある奴は成功を重ねて余裕が生まれ、結果として他の分野や次のステージにも挑戦できる
しかし才能がない奴は焦り、怒り、失敗を重ねる。
それでも「集団にいる事」という事自体に「 価値」があればそれでも弱者は努力する。
努力すれば「集団」の中にいる事が可能なら。
「価値」を与えられるのであれば。
だが現実としてはリソースの取り合い。
「集団」に価値があれば結局、その集団の中で「上」が独占するのが簡単に想像がつく。
かつて昭和の時代に掲げられた「総中流社会」が夢に消えて「格差社会」が生まれた。
にも関わらず「順位をつけない教育」を学校に求め、それが結局「社会に通用しない」 とされる。
昭和の社会で失敗した事を現代の学校教育に落とし込む。
失敗して当たり前。
結果として社会に格差が強まったように子ども達も優等生と劣等生の差が強まっている。
にも関わらず古い人間、昭和の人間であり、価値観を変えていないT氏の主張に賛同する若者が表れる。
ギャグでやってんのか?と思わなくもない。
「皆同じ」という事に固執すれば「イジメられる側」が潰れ、今度は「イジメていた仲間」の中でまた優劣をつけ合う。
結果として格差が広がる。
それでも「余るほどたくさん子どもがいる」のであれば母数が多く、ある程度優等生が確保できる。
だから劣等生を犠牲にするその教育方針は目を瞑って貰えるかもしれないが現状は毎年出生率が減っている。
農作物も豊作なら芽や花、結実した時点で他と比べて出来の悪いものを捨てて良いものに養分を集中させる。
だが数が足りないなら出来の悪いものでも大事にする。
「豊作」でも「凶作」て同じやり方で良いわけがない。
「イジメをしよう」という感情に囚われた段階から冷静になって自分がしようとしている「イジメ」に対してハードかソフトかを考えるのは大人にも実質不可能であるし、そもそも踏みとどまる事ができるまともな人間な、「イジメ」は止める。
感情的でありながら思考能力は冷静である、というのはスポーツやバトル物のフィクションで「心は熱く、頭は冷たく」というような表現で描かれたりする。
しかしそのヒーローのような心と頭で行う行動が「責任逃れのソフトのイジメ」って言うのはあまりにも情けない。
けれどそれを人間が大人になる上で必要なものだと主張してその行動を取る人間は「ソフトのイジメなら推奨」という環境で育ち、それを成功体験として身につけた人間だ。
その価値観で成功し生きてきた以上、「イジメを正当化」し、「正当化するための技術」を使いながら生きていくだろう。
それこそ「自殺者」や「心神喪失」の生徒を生み出しても「自分に落ち度はない」というスタンスを取り続けて自分の「イジメを肯定する教育」を肯定するT塚氏。
単純にそれに賛同する若者は「類は友を呼ぶ」という「イジメの肯定」をしたいだけ。
「集団から逸れた者」を「自己責任」としてイジメる事を「相手を奮起させる救済」として正当化したい「才能と環境に恵まれた人間」というだけだ。
そしてそうした人が自分の行動や思考、価値観を肯定して取り込むのが「カルト宗教」のやり口でかつての「オウム真理教」なども末端の信者は一般人だが、幹部クラスの人間は社会的強者、「エリート」だったという話もある。
しかしエリートではあるが「トップ」ではない。
「優れた社員」ではあるが「社長」ではない。
「エリート」だからこそ、「今の社会」に順応できる。
その一方でこうした思想を持っていたと思われる。
「今の社会のトップがボンクラだから社会に役に立たない人間が生まれ、そいつらを生かすためにエリートの自分が苦労している。自分達エリートが今の社会を支配すれば上手くいく」
教育者として現役ではないT塚氏を「カルト宗教」とは言わない。
勝手に賛同した若者がいる、というだけだから。
カルト宗教とは言わないがコレがT塚氏の「教育」と重なる部分がある。
「今の教育はダメ。昔の自分達が受けた体罰や厳しい競争、激しい叱責ありきの教育を取り戻せば自分のような強くたくましい成功者が増える筈」
あくまで自分が見た感じの印象ではあるが人を死なせても尚も自分は正しいと主張するT塚氏の堂々とした物言いは「強烈な成功体験」に基づく「信仰」のようなものがあるからではないか。
そしてその成功体験をより強固なものにする裏付けとしてT塚ヨットスクールに預けられる者達は問題を抱えた若者達。
「引きこもり」や「ニート」といった主に「 甘やかされた」と言われるような存在が多い。
「子どもを甘やかしたからこうなった」
「自分の経験」からくる「成功体験」と「他者の失敗」を合わせて内外から「自分の主張の正当性」が確立され、より一層「自分は正しい」と思い込んだ。
しかしそれは「一理」を「拡大解釈」して「世界の真理」だと思い込む事に繋がる。
「集団」に価値があるからこそ、能力の低い者は努力する。
それならば能力の高い者はその力を「価値があるから」と集団のために使うのか。
勿論、能力が高い者が集団のためにその力を使えば理想的だ。
だが現実としては能力が高い者はより自分を評価してくれる場所へ向かう。
「価値の低い集団」ではなく「価値の高い集団」に移動する。
転職するのが当たり前の価値観となりつつある現代において能力が高い者ほどその傾向が強い。
「能力が高い者は集団のために力を捧げろ」なんて都合の良すぎるのだ。
ましてや「実力に見合ったまともな報酬」を与えていなければ尚更。
「集団」に価値の重きを置くがために「低能」には「無理」をさせ、「有能」には「犠牲」になる事を求める。
結局「集団内」においては「普通」の人間が一番得をする。
「無理」をする事なく、「犠牲」になる事もない。
本来ならば「犠牲」にならなければならない、「無理」をしなければならないのは集団の「中」にいる者ではなく「指導者側」、つまり「T塚氏」自身なのだ。
自分自身も無理をして強くなり、その強さを集団の中に還元した経験がT塚氏にもあるのは間違いないとおもう。
しかしそれはあくまで「指導者としての経験」としてではなく、「過去の自分が生き抜いてきた経験」の中だ。
「指導者」には「指導者」としての「無理」や「犠牲」が求められる。
少なくとも「生徒」達が「死」を選んだりするくらい過酷な指導をするのであれば死なさずに済むように指導者が無理をして犠牲になる必要がある。
無理をして犠牲となる事で「価値観」が変化する、という事でもある。
若い頃にそうした無理や犠牲を払って「自分の思想」が固まった以上、価値観を変化させるには同じくらいの無理をし、犠牲を払わなければ自分の価値観は変わらない。
そして価値観が変わらない、という事はそれをしていない、という事。
つまり「楽」をしている、という事。
本人からすると「生涯をかけて生み出された絶対的価値観」かもしれないが、生徒達からすればそんな個人の生涯など知る由もない。
だから目に映る「指導者」としての姿だけであり、それは結局のところ「口先だけ」でしかない。
信頼関係がない。
信頼関係がない相手の理想論に振り回されても成長なんてするはずも無い。
「ソフトのイジメ」というものを「能力不足、努力不足を戒める」という意味合いで肯定するのであればT塚氏自身が「指導者」としての未熟さに対して自分で自分を「ソフトのイジメ」で戒めなければならなかった、と堂々とイジメを肯定するT塚氏を見て自分は思う。




