「悪い事」
「 若い頃に悪い事をしておけ」
そんな話がある。
昭和の人間に多い価値観と主張だ。
「悪い事」の部分が「無茶な事」だったりあるいは「無謀なこと」だったりするが本質的には同じ事だ。
だが今の世の中においてネットやSNSがあり、例え一般人であっても「悪い事」をすれば叩かれるし、炎上する。
当たり前だ。
「悪い事」は「 悪い事」でしかない。
この「 若い頃に悪い事をしておけ」という事の本質は「悪い事」や「無茶な事」、あるいは「無謀な事」をするのが目的ではない。
この主張の本質は「術」の在り方というものを示している。
「術」と「道」
この2つを比較して
「術」とは「成功」のためのもの。
「道」とは「成長」のためのもの。
と自分は定義している。
その上で割と「術」については非難するような文章で書いている。
何故なら「術」とは突き詰めると「卑怯」なものになるからだ。
罠に嵌める。
弱点を突く。
隙を突く。
嘘をつく。
本質的に「術」とは「卑怯」な行為である。
「自分が強くならずに楽をして勝つ」
だからこそ否定的な文体にならざるを得ない。
あくまで術というのは「弱者」が「強者」に勝つために必要なものであるから肯定される。
逆に言えば少なくても「対等な相手」以上にしかその術は使ってはいけない。
もしも自分より「弱者」に対して術を使えばそれは単なる弱い者イジメだ。
だからこそ「 若い頃に悪い事をしておけ」というのは「格上」に対して「挑め」という事に他ならない。
「格上」に対して「弱者」である自分が打ち勝つには相手を観察し、弱みを見つけ、自分が出来る範囲でルールギリギリの全てを出し尽くす。
それでも勝てるかどうか分からない。
負ける可能性のほうがむしろ高い。
それでもそれによって「目標」が生まれる。
スポーツや格闘技のような例えをしたが、別にどんなものでもいい。
つまるところ「子ども」の時代に学んだ「基礎」を用いてそれを実際に活かし、応用するために「観察」と「思考」と「創意工夫」をやれ、という話だ。
それが結果的に「ルール違反」「マナー違反」になるかもしれない。
だから「悪い事をしろ」というのは正確には「犯罪行為をする」のではなく、「自分の創意工夫がルールの枠からはみ出ていた」という事。
意図して悪い事をするのではなく、
「結果的に自分がやっていた事がルールの外側にあった」という事。
それくらい何かに「熱中」しろ、という話だ。
そして更に言えば「若い頃」という年齢にも言及している部分。
これは「罪」を感じろ、という事だ。
「子ども」の頃は誰かに迷惑をかけた所で余程の事でない限り、「大人」は怒れない。
善悪の判断や知識や経験が未熟な子どもに怒ればそれこそ「大人げない」からだ。
しかし「若い」と評される10代後半〜20代の内は殆ど「大人」でもある。
だから迷惑をかければいかに未熟でも責任をとらなければならない。
大人と同じように怒られる。
しかし「若い頃」ならば「悪い事」をした時に大きな問題に発展した時に「責任」など取れない。
「誰か」が一緒に責任を被ってくれなければ破滅するしかない。
だからこそ自分の所為で他人に迷惑をかけた時に「 親」や「教師」「上司」が一緒に頭を下げてくれる。
自分の行動で「被害者」が生まれ、責任を取るために「上位存在」にも迷惑をかける。
「若者」が責任を問われ、被害者から責められると「言い訳」をしたり、「被害者」の責任を考えたりする。
自分一人で責任が取れないから、どうにか責任を減らす工夫をしなければならないからだ。
しかしそこに親や上司などの「上位存在」 が入り、一緒に責任を被ってくれるともはや「 罪」を受け入れるしかない。
加えて被害者と加害者以外の第三者が横から入る事で被害者からの過剰な被害請求なども減らせる。
被害者と加害者という1対1で明確に「強弱」 の立場がはっきりしているとその立場を利用する被害者もいる。
ましてや「若者」という知識や未熟さに付け込む輩は一定数存在する。
そこに冷静な「他人の目」 が入る事で虚偽の申告は難しくなる。
それで「上位存在」によって助けられれば「普通」の奴なら「感謝」をして「謝罪」をして「罪」を認識する。
これで「助けられた」と感じずに「弱みを握られた」と感じるどうしようもない奴もいるがそいつはもうどうしようもない。
生まれ持った性質か、「助けられるのは悪い事」という環境で育った価値観か。
どちらにしろ「救えない人間」はどうしようもない。
「若い頃に悪い事をしておけ」
という言葉にはこうした意図が「本来」は含まれているのだと自分は考えている。
だがしかし、実際には「中年の若い頃の悪さ自慢」 といったように「悪い事をした経験」を「勲章」のようにしてしまっている。
あくまでも「悪い事」というのは「限界まで工夫をした結果、ルールの枠をはみ出してしまっていた」というものでなければならない。
そして「悪い事」は自慢にもならない。
「恥ずべき行為」でしかない。
「失敗」なのだ。
だからこそ「反省」する。
「罪」に対して向き合うためには「どうすれば責任から逃れられる」と「後悔」しつづけないために「許し」が必要であり、そのためには自分より上の「成熟した大人」による支えが必要だ。
「許された状態」、つまり「安心して次に進む事ができる状態」にあってようやく「罪」を受け入れられる。
そこからようやく
「何処が問題だったのか」
「どうすれば解決できるのか」
「今度はこういう方法を取ってみよう」
「そのためには何が必要なのか」
と過去を振り返り、そこから未来に向けて今できる事を考える事ができるようになる。
だからそれを知っている人間は「若い頃にした悪い事」を「自慢」しない。
しかし、反省した時点で言語化しているため「教訓」として備えている。
だから伝える事は容易だ。
後は相手の理解度に合わせて言葉を選ぶだけだ。
しかし現実としては「悪い事」を恥じるどころか自慢している。
ある種の「度胸試し」的な感覚で「自分はこんな事だって出来る」という感覚で自慢しているわけだが「度胸試し」と「悪い事」は違う。
その2つは違うが、混同している。
だから「自慢」する。
何故自慢するのか。
それは「モテる」からだ。
自分はエッセイで陰陽道を用いて「陽キャラの男」と「女」は同じ性質である、という事を何度も語っている。
「悪い事」をしてそれを「自慢」して「モテる」というのは「女」が「罪悪感」を持たない故だ。
あくまで極端な例ではあるが家庭では父親に甘やかされる。
学校で男と争いになれば教師から注意されるのは男だけ。
成長して恋愛をするようになれば男から甘やかされる。
「挑戦」というのは「無責任」でなければならない。
罪悪感に心が囚われていれば挑戦はできない。
だから「悪い事」に挑戦している男は女にとって自分と同じ「同類」だ。
女と「同類」だと思われているからモテる。
自然の摂理としては「弱肉強食」であり、獣の本能としては「ツガイを得て遺伝子を残すこと」が最重要だ。
だから「子どもを残す」という結果さえ残せばその過程で「悪い事」をしても、「無責任」であっても大した問題ではない。
「動物」として「自分の遺伝子を残す」という責任は果たした。
だから「自分は正しい」。
結局のところ、現代的価値観の恋愛結婚ではそうした「陽キャラの男」と「女」が圧倒的に結びつきやすい以上、「若い頃に悪い事をする」という事を「正当化」させやすい。
改めて「若い頃に悪い事をしておけ」というのは
・どうやっても勝てない格上の相手や困難な課題に挑戦すること。
・その時点でどうやっても勝てない相手に勝つためにはルールを超えた反則を犯す必要があり、そこでしっかり裁かれて結果的に周りの信頼できる成熟した大人に頼る事。
・ルールを破った事で相手に迷惑をかけた事に対する謝罪は勿論、大人に助けてもらったという感謝をする。
この一連の流れを簡単に表した結果「若い頃に悪い事をしておけ」という言葉になる。
これによって「身につけた全ての術も通用せず、反則さはても勝てなかった存在、課題の攻略」という「目標」が明確になる。
反則を含めた「術」の全てが通用しないという事で根本的な「成長」に繋がる事で「道」となり、「目標」が定まる事で新しい「術」の習得の足がかりとなる。
だが「悪い事」を「モテる」というただそれだけのために「多数」の人間が正当化してしまえばもはや「若い頃に悪い事をしておけ」という言葉は「成長のため」の含みを持たせたものではなく、「若い頃に悪い事をしておけば得」という「打算的なもの」に成り下がる。
そして、実際「闇バイト」や「パパ活」など若者を中心に行っており、さらに罪の意識も薄い。
闇バイトで人を殺して捕まっても5年で出てこれる、という根拠のない自信を持ってヘラヘラしている若者もいた。
勿論、若いから人を殺しても軽く済むわけもなく、裁判で告げられた罰を聞いて寝耳に水状態だったりと「悪い事ができるのは若い頃の特権」と勘違いしている節がある。
責任は3分割だ、と前々からエッセイで自分は主張している。
勿論闇バイトなどで犯罪を犯した人間は悪い。
しかしそもそもとして「悪い事」を「悪い事」としてちゃんと認識していなかったという事実がある。
結局のところ「悪い事は悪い事でしかない」という倫理観を教える存在がおらず、加えてそれが当たり前の環境で価値観が形成された。
つまり「指導者」、「環境提供」という残り2つの責任が最低限を満たさない教育をしていた「親」が約70%の責任がある。
親が最低限、「金に困っても犯罪はするな」という事を教えていれば。
すくなくとも「悪い事をすれば裁かれる」という当たり前の社会の仕組みを教えていれば。
「最低限の事だから教えてるに決まっている」と思うかもしれないがそれは「口先」だけだ。
何故なら「陽キャラ男」と「女」の組み合わせの状態のまま、子どものために「父親と母親」になるという覚悟を決めなければ「無責任」なままだ。
「無責任な男女」が「親のフリ」をして見様見まねで「責任」について語っても、その行動で答え合わせがでる。
「挨拶」についてもそうだが、最近の若者、所謂Z世代は「挨拶が出来ない」と嘲笑される。
昔何処かのエッセイで取り上げた記憶があるが野球少年が元プロ野球選手に「何故挨拶はしなければならないのか」と尋ねた事があった。
それに対してその元プロ野球選手は「当たり前過ぎて考えた事もなかった」としながらもその場で考えて経験と照らし合わせながら丁寧に答えていた。
一方でその動画のコメントにはその挨拶について尋ねた野球少年に対して「育ちが悪い」とか「一々考えるとかおかしい」といったかなり否定的なコメントが目立った。
確かに当たり前と言えば当たり前かもしれない。
それは何故か。
本質的には「相手を敬う」からであり、「相手を大切」だと思うから「挨拶するのは当たり前」だ。
しかしながらビジネス系の動画で「挨拶」についての考えを見ると「元気よく挨拶すれば相手に気に入られやすい。金もかからないし、時間も労力も対したものではないからヤリ得」だと言うコメントで溢れている。
確かにそれもある。
「挨拶しない若者」の中で「挨拶する若者」がいれば挨拶された側からすると注目するし、気分がいい。
「自分が相手を大切にだと考えるから行う挨拶」というのが基本だが、その一方で「相手から自分を大切にしてもらう手段としての挨拶」も存在する。
「配慮」と「媚び」。
では挨拶の必要性を尋ねた野球少年は元プロ野球選手に挨拶の必要性を尋ねたのか。
結局のところ、「親からまともに挨拶された事がない」という事から「挨拶をされて気持ちがいい」という感覚を知らなかったのではないか、と思う。
というか、自分としてもそれは実体験として思う。
親からまともに挨拶されなかったし、コチラからしても無視されるのが当たり前。
時々挨拶を返されても気のない返事で「挨拶」によって気持ちがよくなった事などない。
自分自身が気持ちがよくなった経験がないのに、社会から「 挨拶すると気持ちがいい」などと言われても理解できない。
結局、「挨拶」に対して価値を見出すためには「ただて媚びを売る手段」としてしか挨拶の価値がない。
そしてそれを裏付けるように「挨拶しない若者」という類の若者を非難する動画のコメントには「子どもの頃にスポーツやらせておけば良い。礼儀と体力もついて一石二鳥」というものがほぼ必ずと言っていいほどある。
一方で「まず親がするべきでは?」というコメントは見た事がない。
「挨拶するのが当たり前」というのが社会の常識なら、何故一番最初に「親」が「子ども」に挨拶しない?
何故「子どもに挨拶を習慣づける」という躾の手段として真っ先に「スポーツの監督」などの「外の人間」に躾を委託しようとするのか。
仮に「挨拶の習慣化」が成されないまま、「 スポーツの監督」などから「礼儀」を学べばどうなるか。
「監督」や「先輩」といった人には挨拶をする。
しなければ怒られるし、場合によっては気に入られる。
「得をする」、あるいは「損をしない」ために「媚びを売る」という目的で挨拶するようになる。
逆に「同期」や「後輩」などの「しなくても問題ない」と判断した相手には挨拶はしない。
何故なら「楽」だから。
「得を得るための術」「損をしないための術」として「挨拶」を身につける。
「挨拶」を例えにして少し脱線したが、「悪い事」についても結局同じだ。
「若い頃の悪い事」を「自慢」するような連中が親になって「悪い事はするな」と口にしたとしても親自身は平気で言葉を破り、「 悪い事」をして「得」を得る。
毒親にありがちなダブルスタンダード。
子どもの成績などは他所と比較して子どもを責めながら、逆に子どもから他所の家と比較されて責められた時に「 ウチはウチ、他所は他所」とする。
結局のところ「私は良いけど、お前はダメ」という事をする。
勿論子どもは「それは何故?」と尋ねる。
「私は大人で偉い。お前は子どもだから」
子どもはその答えを「偉かったら何をしてもいい」「力があったら何してもいい」と解釈してしまうのはそこまでおかしな話じゃない。
「無責任」な連中が「責任」を語ってもそれは「インターネットやマニュアルから拾ってきた情報を読み上げているだけ」と同じ。
「若い頃に悪い事をしておけ」
そこに自分はエッセイを書くに当たって考えていった結果として「格上への挑戦」「工夫」「助けてもらった事への感謝や罪の意識の認識」と言ったものが詰められている、そう感じた。
しかし世の中の「偉大な成功者」は経験則で自分の子どもやあるいは生徒や従業員などに向けて「美学」や「教訓」として、あるいは会社などのコミュニティなら「◯◯魂」として同じような事を訴えている。
300何話とエッセイを書いてきた自分が考えに考えていった結論の多くは既に一流の人間達は当たり前にこなしている「普通」の事なのだ。
だがその「一流」が当たり前にこなしている「普通」と「多数派」 が「普通」が一致しない。
「流行り」に乗り、自分達の行動を正当化させようとしている。
「挑戦」して「工夫」して「感謝と罪の意識」を持つには大前提として「助けてくれる大人」が必要だ。
それの白羽の矢が立つ存在は「親」なのだ。
「悪い事」をした時に若者が縋る相手が親。
つまり「子どもの責任」を取る羽目になる。
「自分がやっていない事で頭を下げて恥をかかされる」
「恥をかくのはダサい」
「モテる」かどうか、「弱肉強食」の価値観でやってきた人間からすれば「子どもの責任」を取ることほど嫌なことはない。
それが分かっているからこそ過剰に「良い子」である事を求める。
子どもに挑戦させて失敗すれば自分が恥をかくから挑戦させない。
子どもが勝手に行動して責任を負えない問題が発生したら困るから行動を縛る。
子どもから舐められないように上下関係を徹底的に刷り込むために子どもが喜ぶような事はしない。
努力、我慢、支配、否定。
だけど「恩」は着せる。
そのための「子ども」だ。
「若い頃の悪い事」を自慢して正当化しようとする奴は「今」と「未来」の「悪い事」も正当化しようとする。
「若い頃の悪い事」を恥じ、その教訓を伝えようとする者は未来に向けて「新しい道」を作る。




