懐かしさ
エッセイ書くリハビリ。
あと、とりあえず若くても腰には気をつけよう。
「大人は懐かしさに勝てない」
数カ月前にSNSで流れてきたとあるミュージシャンの呟きだ。
そのミュージシャン曰く、高齢化社会などの社会的問題が音楽分野にも影響しており、古くさい音楽も「流行り」の中に入り込んでいる。
そのため「懐かしさ」を求めるニーズにも対応しなければ生き残れない。
ここで問題なのは客が求めているのは「懐かしさ」であり、「 古い曲」ではない。
自分は「懐かしさ」を音楽に求める事はそうそうないが、聴こうと思って聴く曲というのは年代的に「古い曲」になってしまう。
それは単純で「好きな曲」だからだ。
10年経とうが20年経とうが30年経とうが関係ない。
「好き」なんだから。
そしてそんな「古い曲」を頻繁に聴いていれば「 懐かしさ」なんて感じるわけもない。
つまるところ「懐かしさを欲している」というのは「好きを優先する事」に対する「流行りを追う事を優先する事」に似ている。
つまり「懐かしさを欲する」という事は「懐かしさを感じなくなるほど頻繁に聴く」というほど「古い曲」の事は実はあまり好きではない。
あくまでも「当時の記憶」を呼び戻すために「懐かしさ」を求めている。
「流行りを追う事を優先する者」を自分はエッセイにて「自分自身の事が好きな者」。
自分自身のために「イージーモードを得ようとするための手段」として「流行り」を追っている。
そんな「流行りを追う事を優先させる者」が年齢を重ねて大人になった事により「懐かしさ」を求める。
「流行りを追っていた若かったあの頃の自分」。
即ちそれは「イージーモードを求めていた弱かった自分」である。
「流行り」とは「女」や「陽キャラ」が中心だ。
そして流行りに乗る事によってイージーモードを得られる。
「大人」になり「年」を重ねた。
その状態で何故「懐かしさ」を求めるのか、といえば「自分の選択は正しかった」と思いたいわけだ。
成功と成長を積み重ねて強くなる。
そのためには完璧主義者になって何も出来ず、何も成し得る事なく負け組になるくらいなら失敗したり、多少雑でも挑戦する必要がある。
馬鹿の一つ覚えにSNSの意識高い系のアカウント達が発信しているメッセージだ。
そうやって挑戦できるのは完璧に近い精度で整えられた環境があって安心して挑戦できる環境で育ってきたからだ。
完璧主義者になりたくてなっている人間など殆どいない。
特に「完璧主義者は悪、挑戦しろ」と言われるような今の日本なら尚更だ。
いくら世間で完璧主義が悪だとされたとしても失敗が許されなかった。
完璧主義者にならざるを得ない環境で育った。
だから完璧主義者が多い。
イージーモードの人間のすぐ横にそうしたハードモードの人間はいたわけだ。
子どもにイージーモードを提供するために親がハードモードを背負う。
女にイージーモードを提供するために男がハードモードを進む。
陽キャラがイージーモードを提供せざるを得ないから陰キャラがハードモードを選ばざるを得ない。
誰かの「犠牲」があるからこそ誰かのイージーモードが成り立つ。
当たり前の事だ。
だからこそ「持ちつ持たれつ」。
「 弱者」を奴隷のようにするならば「強者」は弱者を外敵から守る責任がある。
だからこそ「弱者」は「忠義」を尽くす「家臣」となる。
「男」から自由や愛を奪うなら、「女」は「母」となり、「子ども」にその愛を注ぐ責任がある。
その時、「男」は「父親」となる。
「陽キャラ」が「社会の総意」であり、それに削ぐわない「陰キャラ」を切り捨てるならば「今の社会の問題」の責任は陽キャラが解決すべき問題であり、責任だ。
その責任を陽キャラが背負って「大人」となれば「陰キャラ」は次世代のために「犠牲者」となる事を受け入れる。
「 弱肉強食」の自然に対して動物のような「鋭い爪や牙」「屈強な筋肉」や「分厚い毛皮」などを持たない人間が生態系の頂点に立てた理由こそが「社会」という名の自然に対抗する人類史上最強の兵器であり、その社会を支える「法」や「人間性」、「弱者を守り育てるシステム」だ。
「弱肉強食」を語る「自称強者」の人間がもっとも「弱者の恩恵」を受け入れる。
それを「自分の努力」の「正当な対価」だとのたまう。
「化粧」や「自己投資」という「努力」の成果だという。
それは違うだろう。
努力に対する対価は「イージーモード」などという他者から与えられるようなものではなく「身についた能力」こそが対価だ。
「イージーモード」を与えられたのは「媚びを売ったから」に他ならない。
「情け」をかけてもらったに過ぎない。
まぁ、「イージーモード」については何度も語っているしこんな所で良いだろう。
問題はそんな恩恵を受けてきたであろう「流行りを追う事を優先してきた人間」が年齢を重ねて「大人」になった時に「懐かしさ」を求めるのか。
自分は「流行り」よりも「好き」を優先させてきた人間だ。
だからあくまでも考察に過ぎないが「道」を作りたいだけだ。
「道」というのは単体では価値はない。
「目的地」に着くから価値がある。
「安全」だからその道を選ぶ。
「移動しやすい」からそこを歩む。
「自分」の歩んできた「道」こそが「正道」である。
何故なら「自分が成功者だから」。
「イージーモード」で成功体験をたくさん積んで、それなりの責任のある立場になった。
「大人」になった。
結果として今度は「人を育てる立場」になった。
では「過ごしてきた時代」も「育ってきた環境」も「個人の資質」も異なる様々な部下、若者をどう育てるのか。
自分がやってきた「イージーモードを手に入れるためのやり方」を部下の全員におしえた所でそのイージーモードを与えるのは上司である自分なのだ。
自分の負担が増えるだけ。
さらに言えば能力も環境も時代も異なる他人に自分の真似をさせてもそんな上手くいくわけがない。
「自分が成功した理由」が「自分の努力の結果」としか考えない自意識過剰な人間。
他者から「価値のある人間」と思われたくて努力してきた。
「流行り」に乗ってきた。
いずれも「他人」の作った価値観や流行り、土台の上で生きてきた事になる。
だから「責任」を背負う時に今度はその土台を支える側の「大人」になる時に価値観が変わる。
というより変わらなければならない。
「喜怒哀楽」の「怒り」 から「哀しみ」に変わる時。
「自分の怒り」を経験として「他者の怒りに哀しむ」という事ができるようになる時期。
そのためには「自分の過去」を振り返り「本当に自分は正しかったのか」と自問自答する事になる。
「価値」を得るために「技術の習得」のために試行錯誤して反省したりする事はあっても
「自分の生き方」自体に後悔したり反省した事は多分この手の人間はない。
「自己肯定感」という言葉がここ数年で認知され、「高い方が良い」というようなものになっている。
実際、「自己肯定感が高い」とポジティブになり、挑戦心や向上心も高くなりやすい。
だがどんなものでもただ高ければいいってもんじゃない。
挑戦や向上心は「同格の相手」がいて「競争」する場合には必要な事だ。
しかし「大人」となり、「他人」であり、「若者」という「下位存在」を教えるとなった時に「自分より経験や知識で劣る若者」を相手に「競争」という名の「出来レース」をしかければ若者が育つわけがない。
それはただの「老害」だ。
「指導」や「教育」の価値は「優劣」を競い合って勝ち負けを決める行為ではない。
むしろ「劣っている若者」を「優秀な大人」に変える事が「指導者としての優秀さ」を示す事になる。
教育や指導は「他人の価値」を高める事が「自分の価値」を高める事になる。
それは陰キャラが好きな事、あるいは得意な事だ。
「ゲームをやり込む」
「考察をする」
「芸術を楽しむ」
そうした楽しむ行為そのものは動物的に生きていく手段としての「自分の成長」のためには「無駄」な事だ。
「異性にモテる」
「自分磨き」
「挑戦」
自分の価値を明確に高める事ができるそれらと比べると極めて無駄だ。
「無駄な事をする」という事は「弱肉強食の動物的ではない」という事であり、「人間的という事」でもある。
田舎の高齢者の農家は大抵腰や背中が曲がっている。
仕事において痛みを感じずに済む動作をしてきた。
だから高齢になっても若者と同等以上に仕事はこなせる。
一方で日常に弊害が出る。
偏れば一方は楽になるが、逆側は苦痛だ。
「生きる為の能力」として「仕事」にのめり込めば「仕事」は楽になる。
しかし「日常」で何も出来なくなる。
「暇」を持て余し、さらに仕事をする。
結局それで身体を壊して絶対安静などを強いられる。
農家に限った話ではない。
仕事に一生懸命になり、家庭を蔑ろにしてパートナーや子供に嫌われる。
綺麗になりたくて化粧をして、整形をして、過度なダイエットに取り組み、身体がガタガタになる。
甲子園のために野球を練習して怪我をした。
それでも甲子園で投げれるなら肘がぶっ壊れてもいい。
実際に医者の言葉を無視して肘を壊した元球児が「 どうにかならないか」と言葉を無視した医者の元に懇願に来る。
そうした犠牲となった物を受け入れなければならない。
離婚を突きつけられ、孤独な老後も自分が成功者となるべく選んだ道。
綺麗になるために人間として生きるための能力や機能を失ってもそれは自分が選んだ道。
それは「強い大人」だ。
だが大抵の成功者は「成功」を理由にして実際に「痛い思いをした犠牲者」の声を封じようとする。
「俺が稼いでやってるんだ」
将来的に身体に問題が発生するのが分かりきっているのに今チヤホヤされたいがために無茶なファッションを行う。
「こんな事になるなんて聞いていない」
自分で決めたし、調べれば過去の事例なんて出てくる。
そもそも少なくとも日本では「整形」だとか「入れ墨」などもそうだが好まれない価値観だ。
にも関わらず「自由」を口にしてそうした価値観を無視しておきながら被害者ヅラをする。
「やらない後悔よりやる後悔」
この言葉を言う者は責任は取らない。
他人だから。
だからこそその言葉を口にして一緒になって責任をとってくれる存在は凄い。
にも関わらずアニメや漫画、映画やドラマのセリフをそのまま受け取り、他人に対して平気にその言葉を告げる。
無論、そうやって挑戦して責任を取って成長していくものだとは思う。
だからこそ上記のような「家庭を犠牲にして仕事にのめり込む奴」や「身体を壊す事が分かっていながら今チヤホヤされるためにファッションを優先させる」という連中は「やる後悔」を受け止めなきゃいけない。
でなければ「やる後悔」が「やらない後悔」に勝る事はない。
話を戻そう。
「懐かしさを求める」とはつまり「過去の自分」を思い出す事により「過去の選択」を「受け入れる」という事だ。
それ自体はいい。
問題は「今の若者」に対して「懐かしさ」を求める行為だ。
ミュージシャンの話から始まった今回のエッセイだから音楽で例えるが「古いけれど好きな曲」に浸り、「懐かしさ」を感じながら「過去の自分」を振り返る。
そして「あの時の選択は間違っていた」とか、「あの時は辛かったけど、おかげで今がある」とか、そうやって反省する事で新しい技術の習得や工夫の創造、あるいは若者に対して寛容になれる。
だがそれを「今を生きる若者」に対して「懐かしい曲」を求めるというのはつまり「過去の自分の選択」を「他人に肯定させる」という行為だ。
それも「自分より若い者」、「自分より弱い立場の者」にそれをさせるというのは「ハラスメント」に近い。
「若いミュージシャン」が食いつなぐために「売れる曲」として「懐かしさのある曲」を作る。
「商売」としては正解だが「ミュージシャン」としては不正解だ。
「売れるから客が求めている物を作る」
というのは需要がある反面、取り繕ったものを作るのであれば誰でも出来る事だ。
だから「懐かしさを感じさせるのが流行り」という時点で既に2番手3番手の焼き増しだ。
よほどそのミュージシャンが有名だと言うなら後追いでも売れるだろうが有名なミュージシャンならそもそも「売れるため」の曲作りはする必要もないだろう。
「やりたくない事」をやる事でスキルアップに繋がる、というのはあくまでもミュージシャンの方の理屈であり、客側が「客は神様だから客の求める物を作れ」というのは横暴だ。
そしてそれは「一時的に気持ちよくなれる」が何も変わらない。
リフレッシュが目的ならそれで構わない。
だがそれこそわざわざ「今の若者」にそれを求めず「昔の曲」で良い。
だけど手元に昔のCD等はない。
かといってサブスクやダウンロードしてまで古い曲を今更買う気もしない。
そこまで「古い曲」が好きではないから。
あくまで「流行り」に乗っていただけ。
当時は熱を入れていたが流行りが廃れるとともに自分の熱も引いていく。
CDは処分し、そして処分した事で発生した空白に新しい流行りのもので埋め、その流行りが過ぎ去ればまた処分して新しいものを。
結局何も残らない。
だけど成功者になっている。
モテたし、稼いでもいる。
大人になっている。
本当の大人なら「大切な物」だけ残る。
何でもかんでも残す「コレクター」になる必要はないが、結局「自分」が大好きだから「大切な物」は「自分以外」は何もない。
自分の事が好きな「自分オタク」。
他人から価値を与えられ、その価値を手に入れるために努力してきた。
「 自分が歩んできた道は正しかった」
と言いきりたい。
言いきるためには自分が選んだ選択肢のせいで発生した「犠牲」を受け止める必要がある。
「罪悪感」を受け止める必要がある。
「責任」を受け止める必要がある。
それは全て「陰キャラ」や「男」のせいにしてこれた。
だけどもう罪や責任をなすりつけられるような存在はいない。
「大人は懐かしさに勝てない」
それは「過去の自分の弱さ」に「強くなった今の自分」が自問自答する事。
犠牲になった者や罪悪感、といった過去の自分の弱さが生み出したものを受け入れるのか。
それとも弱さを正当化して弱さを無いものにするのか。
「陽キャラ」から「大人」になれるか。
それとも「陽キャラ」から「年老いた陽キャラ」として「老害」となるか。
「懐かしさ」とはその問いかけをしてくる身体の持つ本能だと思う。




