流行り
色んなものに「流行り」がある。
それはその文字の通り、「流れ」、そして「 行く」。
流動的で定着しない。
爆発的な勢いはあるが定着しないから「流行り」。
そんな「流行り」を作るのは「陰キャラ」や「男」の性質ではなく「陽キャラ」や「女」の性質。
そのため「流行り」の本質とは「志」であり、「優秀」である事。
即ち、「無」と言う事。
流行りに乗じてグッズを買ったり、イベントに行っても流行りが過ぎればそれは社会的には「無駄」になる。
そこに「自分」が「価値」を見出さない限り、「流行り」を「きっかけ」として「好き」にならない限り、いくら金や時間をかけようが「無駄」にしかならない。
「流行りに乗る」と言うのは「流行りに乗る事でイージーモードを得る」と言う事と同じだ。
定番のシンプルな服を着るよりも流行りの服を着る事で「お洒落」と評価を受ける。
そうする事で「陽キャラ」として、「女」としての地位を保つ事ができる。
つまり「流行り」とは「イージーモードを得る手段」であり、「流行りを追う者」にとって「流行り」そのものには極端な話だが価値がない。
だからそれを提供してくれる人に対して敬意を払えない。
「流行り」と言うものが「イージーモードを得る手段」である以上、「イージーモードを与える者」が必要になる。
それが「陰キャラ」であったり「男」だ。
アイドルに男や陰キャラのオタクが金を落とす。
それと同じで「流行り」に便乗する事によって自身の「商品価値」を高め、金、時間や労力をかけてもらいやすくなる。
「いつでも食べれる物」ではなく「今だけ食べれる物」だから割高でも金を出す。
「いつでも見られる物」ではなく「今だからこそ見る価値のある物」を見るために遠出をしてでも見に行く。
それと同じで「今だからこそ見れる姿」で挑発し、価値を見いだしてもらう。
だから「陽キャラ」や「女」からすると自分達の生み出した「流行り」に価値を見いだしてくれなければ都合が悪い。
陰キャラや男がイージーモードを与えてくれなければ少ない席を取り合って争う。
そしてその席か゚埋まってしまえば新しく流行りを生み出して新しい席を生む。その繰り返し。
そしてイージーモードの席を手に入るには「若さ」がある内だ。
老いる事でどんどんイージーモードの席を奪い合う側からイージーモードを提供する側の人間にならなければならないのだから。
それが「大人」として「普通」だ。
だからこそ
「オッサンが流行りの言葉を使いだしたらそれはもう廃れている、あるい廃れ始めたサイン」
と言うのは
「イージーモードを提供する側の人間が提供される側になだれ込み始めた」
と言うものである。
「流行り」に乗る事でイージーモードを与えられる「お客様」である筈の若者が「スタッフ」として「饗す側」になるのは耐え難い。
結局のところ「流行り」とは「イージーモード」を得るために「 社会」 の話題に乗り遅れないための基準となる「術」なのだ。
「流行り」に乗れる人間とは古代中国で葬儀で雇われた「優しさ」という「演技」ができる者とは違う方向性の「優秀さ」を示している。
それは「柔軟さ」であるが「柔軟」であればあれほど「芯」となる「魂」がない事の証明でもある。
「優秀」とは「無」になるという事だ。
「私情」を挟まない。
「感情」を出さない。
「弱さ」を見せない。
だが人間である以上、「私情」も「感情」も「弱さ」もある。
完璧な人間などいない。
人間には生きる上で「魂」がある。
親や教師等から教わった「道」がある。
美しく強くあろうとするために守るべき「美学」がある。
好き嫌いの「拘り」がある。
その「魂」があるおかげで社会的に枷となる。
「美学」があるおかげで与えられた選択肢で取りたくない選択肢が生まれる。
「拘り」があるおかげで固執する。
その上で「優秀」である、「無」になるというのは無駄な魂や美学、拘りを削ぎ落とす事。
それならば「最初から美学や拘りを持たなければ楽だ」となるのが「女」であり「陽キャラ」だ。
既に「魂」と刻まれたものから彫刻のように削り取っていくよりも最初から「無」であれば変な美学や拘りに引っ張られる事なく自由に選択肢を選ぶ事ができる。
「価値」のある事、「価値を与えてくれる事」にだけ集中できる。
最初から「価値のあるもの」を集めていれば「無駄」を省ける。
そうやって生きる事により「価値があるかどうか」、「損得勘定」で動く「魂」が形成される。
「魂」から「無駄」を削ぎ落として「洗練」するのではなく、
「無」の状態の心に「イージーモード」の取得に「成功」するために辿ってきた「流行り」や「演技」、「化粧」などで作り上げた「価値を得るためなら何でもしてやる」という「獣の道」を正当化した「魂モドキ」。
このエッセイの最初に「色んな物に流行りがある」と告げたが「精神性」もまた「流行り」がある。
「昭和気質の親父」だとかたまに聴く話だ。
何故「精神性」に「流行り」が生まれるのか。
それも「イージーモード」を得るため。
具体的には「モテるため」だ。
人間も動物である以上、どんな人種、どんな思想をもった人間でも基本的には自分の「種」を残す事が本能的な目的として存在する。
「昭和気質の親父」というのはそれが「当時の流行り」であり、「モテた」からだ。
でなければ「昭和気質」と括られる事はない。
「時代」で括らずに他の表現か゚ある。
さて話は変わるが今の「若い女性」というのは「真面目」らしい。
自分のエッセイでは「女叩き」と解釈されかねない文章もある。
自分以外にもネットではそうした話がある。
例えば「ツイフェミ」の類の話だ。
「男叩き」を呟いて結果それが「ミラーリング」によってブーメランが刺さっていたり、「AED問題」や「性加害問題」などでも度々炎上していたりする。
他にも「高齢婚活女子」の話もある。
30代後半、あるいは40代、50代で子どもを産むのは厳しいにも関わらず結婚したら仕事を辞めて「専業主婦」を希望していたり、そもそも無職で養ってもらうために婚活していたり。
こうした「ツイフェミ」や「高齢婚活女子」などの「批判されても仕方ない女性」を反面教師にしてきた事で今の「若い女性」の多くは「真面目」だから大丈夫だという主張を度々目にする事がある。
では例にした「高齢婚活女子」が若かった頃、10〜15年くらい前に流行った「◯◯女子」は何だったのか。
それは「天然系」だ。
かつて「天然」と言われた「 独特な感性」をもった女性が芸能人などを通じて流行った。
それに伴いそれを真似る「天然系」が増えた。
所謂「養殖」だ。
「流行った」という事は当時はそれで「イージーモード」を得られたからだ。
他にも遡れば「清純派」が流行った時期や「強い女」が流行った時期もある。
それをそれぞれの時代の「 若い女性」は真似をした。
それで一体どうなったか。
「現在に至る」である。
一体何が「大丈夫」なのか。
「真面目」だから、というのにしてもそれに近いものは「田舎」の人間だ。
「時代」ではなく「土地」になってしまうが同じように「流行り」だ。
その「田舎」の現状は改めて言うまでもない。
「人材流出」によって「過疎化」と「高齢化」が一気に進んでいる。
何故かといえば「文化」を大切にしているからだ。
「文化」とはその土地で人々が暮らすために工夫を重ねてきた「弱者の経験」と「弱者の知恵」と「弱者の弱音」を組み合わせた「弱者」の集大成だ。
その「文化」があるからその土地で「弱者」でも楽に暮らせる。
豪雪地帯には豪雪地帯の、南国には南国の、山岳には山岳の、海岸沿いには海岸沿いの「文化」がある。
そしてそれは「イージーモード」と同じであり、「流行り」と同じだ。
「コレをやれば優秀である」、「コレをやれば楽に暮らせる」
だからそれに「文化」に従ってきた。
その根本にあるのは「交通手段」がなかった事にある。
隣町に行くことすら難しい時代があった。
生まれた場所で生きていくしかなかった時代があった。
だから「従う」しかない。
だが現在は違う。
「世界」が強制的に広がった。
「普通」の定義が「田舎」単位ではなく「国」になった。
だから「普通」を満たさない「田舎の文化」を守っても「普通」になれない。
「田舎の文化」を守っても「田舎のイージーモード」しか得られない。
それならば「国の流行り」を追いかけ、より大きな「イージーモード」を得たい。
そうやって「 若者」は「田舎」を出ていった。
だが「男」はある程度の年齢になれば「田舎」に戻ってきたりする。
結局戻らないのは他でもない「女」である。
「田舎の女」は「真面目」だが結局それは「イージーモード」を得るための「真面目さ」である。
勿論、「美学」や「夢」をもった「田舎の真面目な女性」もいる。
だがそれは「全ての女性」ではない。
そしてその「女性」を許容して「イージーモード」を与えている「田舎の男」も同じだ。
個人で職業や立場は異なる。
だが「田舎の文化」が「国」や「世界」の「普通」と相容れない物と分かった上で「田舎の文化」を優先し、そしてそれを若者に押し付けた結果が「田舎」の今だ。
こうしてみると「田舎」を「ブラック企業」に変えても成り立つ理屈だ。
結局何を言いたいかと言えば「真面目」な「若い女性」の真価とは「今」ではない。
「未来」の彼女達がどうなっているかで判断されるべきで「ツイフェミみたいな連中を反面教師にして真面目だから大丈夫」なんて評価を下すのは「時期尚早」という話である。
そして「若い」と判断したという事は「老いた人間」という事になる。
そんな人間に「真面目」であり、それが「良い子」に映るのであればそれは「老いた世代」に「迎合」している。
つまり「若者」が「老いた存在」に「媚びている」という事だ。
「何でもやる」という気概は「何も持たない若者」には重要であり、必要な事だ。
だが本当に「どんな事でもしていい」わけではない。
「何も持たない」からこそ、「魂」を秘めていなきゃいけない。
自分が生き延びるために他人を踏みにじっていいわけがない。
それを正当化するために「弱肉強食」や「自然淘汰」などの言葉を軽々しく並べていい理由にならない。
だけど現状それがなっている。
「正論」を並べて「流行り」に乗って、「金」さえあればそれが通用してしまう。
そして「裏の顔」が明るみに出れば一斉に叩かれ、退場する。
一緒になって「流行り」に便乗した人間は素知らぬフリ。
「哀しい」が自分は「喜怒哀楽」の順序の人間ではない。
「怒楽喜哀」の順序の人間だ。
自分のような人間の「哀しい」は最後。
即ち「どうしようもない」という事でしかない。
「どうしようもない」からそれはつまり「どうでもいい」という事だ。
「流行り」に乗っても「優秀さ」の証明、「無」の証明」にしかならない。
だから「流行り」を「きっかけ」に「好き」になって欲しい。
だけど「好き」になるのは他人じゃなく、「本人」次第だ。
「流行り」が終われば見向きもしなくなるのは「好きになる努力」をしなかったからだ。
「苦労」をして「思い出」を残さなかったから「イージーモードを得る手段」以上の価値をそこに見出せない。
「流行りに乗る事」ができる「若さ」と「優秀さ」を誇るのはいいが、その裏には「好きになる努力を怠った事実」と「イージーモードを望む無責任さ」が混在している。
「自分の事が好き」で「自分のためにならない事」はしたくない。
だから「自分の価値」を高めてくれる「流行りに乗る努力」をしても「ソレを好きになる事」のために「ソレを好きになる努力」をする気になれない。
無論それは裏返せは「ソレを好きになる」という事は「努力をした事実」と「思い出を残した事実」であり、同時に「 弱さ」と「老い」の証明にもなる。
「良い面」だけではない。「 悪い面」もある。
「誇る」と同時に「恥ずべき」事だ。
だから「流行り」など「どうでもいい」。
ただ「流行り」が過ぎ去る度に人は老いていく。
イージーモードを望もうが好きなる努力をしようが自分の選択。
10年後か、20年後か。
「流行り」の真価は「若さ」を失った頃に問われる。




