趣味
暑い。頭回らん。
「化粧」は「イージーモード」を手に入れるための「術」だ。
「成功」のための手段だ。
だが別にこれは化粧に限った話ではなく、「術」全てに言える。
「術」とは突き詰めれば「如何にして楽に仕事や作業を楽にこなせるか」という考えを元に生まれる。
だからこそ「術」を身につければ「楽」にこなせる。
強い相手にも弱い人間が「術」で勝つ事が可能だ。
だから「術」とは「成功」が求められている。
そして何故「成長」というものは「術」ではなく「道」なのか。
強い相手に弱い相手が「術」で打ち勝つ。
困難な仕事を「術」で楽に終わらせる。
見方を変えれば「弱いままで勝つ手段」だからだ。
その術さえ身につければ「中身」に対して理解せずとも「成功」させられる。
今こうして自分が操作しているスマホ。
自分はスマホを使えるが、スマホの根本的なものはほぼ何も理解してはいない。
ただ使える。
極端な話それで問題はない。
「中身」に対して「無理解」でも手段として使えればいい。
それが結局「志」という「士」の「心」だ。
「優秀」と「優しさ」を周りから求められるがそこにその人本人の意思はない。
「無」だ。
如何にして「自分の心」を消すか。
自分の心の「好き嫌い」を無くす。
選り好みをせずに仕事を取り、その仕事をこなして優秀になる。
相手がどんな相手でも笑顔を崩さず、柔らかく対応する。
AIにどんなに強い言葉で罵倒しても攻撃してこないように「危険性」や「加害性」を表さない。
それが「志」の理想であり、同時にいずれ「母親」となる事を想定した「女」の理想の姿。
だが実際には不可能だ。
「心」が無くなれば意欲的にはならない。
「心」が無くなれば笑顔は作れない。
骨と筋肉と関節、脳から神経を伝わる電気信号。
それさえあれば確かに人は動くだろうし、笑顔も作れるがそれでは優秀な機械やAIと変わらない、というより頑強さ、耐久力、精密さなどを考えれば機械やAI以下の存在だ。
「綺麗になりたい」
それによって「イージーモード」を得たい。
「良い男に選ばれたい」
選ばれた事によってイージーモードで「楽に暮らしたい」
そうした「欲」を自覚しない。
「心」ではなく「欲」で動くから「志」が低いまま。
「魂」が宿らない。
だから簡単に「身体」を売る。
簡単に「媚び」を売る。
そうした行為を「浅ましい」「恥ずかしい」と自分の行為を止め、後悔する「美学」がない。
そうした行為を「生きるための仕事」、「生きるために必要な事」と言い訳をする「低い志」が正当化する。
だから自分達がスマホの内側のプログラムに理解をしようと意識を向けないように「相手の中身」を気にしない。
「相手の中身」を気にしないから「相手の努力」「相手の葛藤」「相手の配慮」に対して理解を示さない。
「相手」に対して理解を示すのは「相手の価値」であり、「相手の持っている力」「相手の持っている財産」。
相手の「中身」を理解せずとも「自分が楽に生きるため」の「手段」として使えれば問題ない。
「男」に対して「自分の手段」になる事を求める。
だから「母親」として自分自身が「子どもが楽に生きるための手段」となる事を理解出来ない。
「子ども」 もまた「自分が楽に生きるための手段」としてしか考えない。
「無理解」のまま、「最低限」の手段として使えればいい。
そこから「理解しよう」と思うのは「理由」が必要になる。
「必要に迫られて」というのも「理由」の一つだ。
問題は助けを求めれば助けてくれる男がいる「女」に果たして「必要に迫られる時」はいつやってくるのか。
イージーモードを得るために「必要最低限の身だしなみ」を超えた「流行りの化粧」という「無駄」。
それを周りから「 許容されている」という「自覚」を
しない。
「楽に生きたい」という欲から来る「身体」や「媚び」
を売る事に対してもハードルが低い「志」。
「志」の性別でもある「女」。
生きるために必要な「仕事」ではどうやっても「身体」や「媚び」を売る対象となる「男」がいる。
「 下心」や「配慮」や「効率」、様々な理由はあるが「男」は「女」を助けてしまう。
だから「仕事」をしても「女」は「相手に理解を示す」という「必要」に迫られる事がまずない。
そうやっている内に「老化」が始まり「女」として相手にされなくなる。
ここまで前置きみたいなものだが、では「女」がその「必要に迫られる」という状態になるためにはどうするべきか。
結論を言えばタイトル通り「趣味」だ。
「快楽」を得るための「 手段」ではない。
「化粧をしてイージーモードを得る」というのは「取引」であり、「仕事」だ。
「趣味」とはそれをする行為そのものが「報酬」であり、「喜び」を得るため、「勇気、正直、親切」の美徳を得る行為が「趣味」だ。
自分の趣味の一つに「考察」がある。
漫画の考察をしている。
勿論、「生きるための手段」ではない。
他人から見れば「無駄な行為」でしかない。
だがそれによって「五行説」や「五神」、そして「喜怒哀楽」についても自分なりに理解を深めた。
それ以外にも考察のために「花言葉」や「漢字の成り立ち」、「文字の意味」なども調べた。
それは考察しようとした時に自分の中に「知識」や「経験」がなかったからだ。
「今の自分の力」では「謎」が「謎」のまま。
納得のいく「考察」に届かない。
だからもっと深い考察をするための「工夫」として、「手段」として「五行説」や「花言葉」などの知識を手に入れた。
あくまで「工夫」とは「手段」だから「五行説が生まれた経緯」や「花言葉を考えた人物」などは「今のところ」は興味がない。
自分が好きなもの、趣味に対して「狭く深く」の理解を得るために他の分野の「浅く広く」の知識や経験が必要になる。
「漫画の事を知りたい」というのが目的ならば「考察」よりも情報を提供してくれる「公式ファンクラブ会員」への入会や「設定資料集」の購入などが確実だ。
自分は違う。
「考察がしたい」から「漫画」を読み、それに対して陰陽道や五行説など様々な見方をしてアレコレ考える。
自分の知識だけでは分からない事はネット等で調べる。
自分にとっての「考察」という趣味のために「工夫」の一環で「五行説」などを取り入れた。
「考察」だけではない。
「筋トレ」にしても同じだ。
「筋トレ」と一口に言うが自分は「ボディメイク」よりも「重い物を持ち上げたい」という目的が強い。
「重い物を持ち上げる」という目的のため、その工夫の一環として「高重量低回数」や「低回数高回数」を使い分ける。
「ボディメイク」をしている人の筋トレを取り入れたり、「筋肉をつける食事」についての情報を取り入れる。
結局のところ「趣味」をしていればその趣味をより深く楽しむために「他の分野」に挑戦する「理由」が容易に見つかる。
アニメが好きなインドア派が「聖地巡礼」で外に出る。
逆にスポーツが好きな人が「 スポーツのアニメ」を家で見る。
それぞれ「好きな物」のために「それほど好きではない事」を行う。
「趣味」という「 自分の喜び」のために「行動する」。
「 行動」には「責任」 が伴う。
マニュアル化されたいつも通りの行動をして「小さな喜び」を得るよりも「大きな喜び」を得るためには普段とは異なる行動をして「工夫」するしかない。
しかし「 失敗」した時に「仕事」で助けてくれる「男の同僚」や「遊び」でヨイショしてくれる「男友達」や「彼氏」は助けてくれない。
自分で「責任」をとらないといけない。
「失敗を恐れるな、とにかく行動しろ」
という主張をSNSで発信している人は多いが「失敗を恐れるな」と言っても無理な話だ。
「失敗」を意識してしまった時点で「備え」をしようとする。
その「報酬」と「備えにかかる時間や労力」を天秤にかけて面倒だと思えば備えを辞め、行動しなくなる。
だが「好きなこと」のためには「備え」よりも「行動」を優先させる。
天秤の受け皿に乗せる「報酬」 に「好きなこと」が加えられ、重くなるからだ。
「行動」はあくまで手段であり、目的は別にある。
「行動しろ」と主張している人にとって「他人に行動させる」という事が目的であり、さらに言えばその目的の根っこにあるのは「自分の言葉で他人の行動を支配する」という欲求だ。
だから響かない。
そうした言葉は言外に「行動しなければ失敗するぞ」という「脅し」であって「恐怖心」を煽るだけの行為だ。
「勉強しなければ落ちこぼれてニートやホームレスになるぞ」
というような言葉と同じであってそれでは「勉強」は苦痛にしかならないのと同様に「行動」も苦痛でしかない。
「子ども」ではないのだから「行動」をするためには「責任」を取る必要がある。
「責任」を自らの進んで取るためには「覚悟」がいる。
その「覚悟」を形成するために「好きな物」、「趣味」が重要になる。
「目的」、「夢」が必要になる。
あくまで「行動」は手段であり、他人はその「選択肢」を提案するだけ。
増えていく選択肢にどう優先順位をつければいいか、となった時に「 その目的のためにはまずこの行動をしなければならない」という指針が生まれる。
その際に「備え」のために「必要なもの」と「不必要なもの」を分けて整理する。
「必要なもの」を持ち、ようやく「行動」に移す。
そしてその後に「反省」がある。
そしていざ行動した後に「必要なもの」と判断して用意したものは使わなかったし、現地で購入する事ができた。
わざわざ自前で持っていく必要はなかった。
一方で行動によって無くて困ったもの、次の機会に持っていくべきものが見えてくる。
そんな風に「行動」の前に「備え」を考えたから「反省」ができる。
「反省」が出来るから「次」の「行動」に意欲的になる。
この一連の「目的の設定」→「備え」→「行動」→「反省」→「 次の目的設定」…と続くものは「子ども」の内に責任を肩代わりしてくれる「親」と一緒に学ぶ事だ。
だが「子どもに無関心な親」や「責任から逃げる親」に当たると「出たとこ勝負」の「一発勝負」になる。
「目的の設定」もままならない状態では「備え」も出来ない。
その状態で「行動」して成功しても何故成功したのか分からないし、失敗しても反省のしようがない。
だから「次」につながらない。
そうした人間にとって「趣味」とは「最後に残された学びの理由付け」でもある。
「趣味」という「失敗してもいい事」に対して「思うように備え」をして「好きなように行動」をして「反省」する。
「趣味」だから他人に迷惑をかけないのであれば好きなように工夫して行動していい。
ただし「自己責任」だ。
親から命令されたわけでも上司から強要されたわけでもない。
「自分が好きな事だから」
その「自分の心」に従った。
上司は「自分の心」、部下は「自分の肉体」。
それは言い逃れできない。
例え「女」であっても「趣味」のための行動は「女自身」が責任を取る必要がある。
男からのイージーモードは期待しない。
期待しないからこそ、もしも失敗した時に助けてもらったら「感謝」を忘れない。
自分の行動で迷惑をかけてしまったらそれを理由に「好きな物」を攻撃されかねない。
だから守るためにも「謝罪」を忘れない。
「自分自身」とは別に「好きなもの」を作る。
「好きなもの」だから「大切」にする。
「好きなもの」だから様々な視点から「工夫」を凝らす。
「好きなもの」だから「失敗」も「経験」にする。
「趣味」を通じて「子ども」や「若者」の教育に必要な事を学ぶ。
「子ども」や「若者」の意志を支配し「自分のコピー」を作るのではなく、「大人」に成長させる。
「女」にこそ「趣味」という「無駄」が必要だと思うのは「無駄を大切にする」という事を通して「他人を大切にする」という事を学ばせる。
そしてその考え方によって自分も大切にしてもらっていると自覚させるために必要なのだと自分は思う。




