親切とは
前回、「女はイージーモード」というものに対して「女は母親となって子どもに人生のチュートリアルを教える役割があるからイージーモードでも仕方ない」という結論を出した。
それを理屈をこねくり回して自分に納得させなければいけないのは「自分の子ども時代」において母親から「チュートリアル」を教えてくれたと感じられないからだ。
教えてくれた事として身についている物は「我慢」だけだ。
「仕事」において「過程」より「結果」が大事というのであれば「我慢」をする事しか子どもに伝わっていない以上、「母親」の「仕事」として失敗だ。
しかし「母親」ではなく「女」として見れば「我慢」しか教える事が出来なかったのだろうと推測できる。
「我慢」すれば助けてくれて解決する。
誰が助けるのか。
「男」が助ける。
男が助けてくれるから女は我慢して従う。
その「女」としての「問題解決方法」を「母親」として教えたに過ぎない。
結局のところ自分が「勇気、正直、親切」が身につかないまま大人になったように「母親」も身についていない。
まぁ、母親が「女」として生きた時代というのは現代と違って何十年も前の昭和の時代だ。
「理想の女」の在り方も現代と違うし、「女の扱われ方」も現代と違う。
仕方がない、とはいえやはり「母親」としてはいつの時代も変わらない。
「子どもを守り、育てる」という仕事がある以上、「母親」ではなく「女」としての生き方を教えたのは間違いだ。
無論、そんな母親を思考停止で信じた自分も馬鹿だった。
自分の気持ちを溝に捨てていたのだから。
「勇気、正直、親切」
コレが人生の「喜」の季節に子どもが「認めて貰う」事で自分の中で「喜び」とするもの。
だが「子ども」の力、単独では難しい。
失敗して叱られたり、嫌われたり、あるいは怪我をしたりと「損」をするかもしれない。
「子どもの成長」に関して3分割して考えれば「子ども」とは「勇気、正直、親切」のそれぞれの行動をする「役割」をこなすという事になる。
一方で「親」は「2つ」の「役割」がある。
一つは子どもが「勇気、正直、親切」であるための状況や環境を与える事。
特に10歳前後までの間は親が積極的にその状況や環境を与えなければ子ども自身の行動範囲だけでは興味関心は狭いものとなる。
そして狭ければ狭いほど交友関係も狭く、強くなる。
やがて比較や競い合う事を優先させ「勇気、正直、親切」よりも「友情、努力、勝利」へ傾倒する。
「友情、努力、勝利」そのものは悪い事ではないが「狭い交友関係」の中では「井の中の蛙」状態になりやすいという事だ。
「子ども」がやるべき事はあくまでも「行動」。
「親」のやるべき事は子どもに行動させるための「環境作り」
そしてもう一つの「親」がやるべき行動は「親切」である事だ。
話は変わるがとある動画で気になったコメントがある。
その動画は何かのテレビ番組で「芸人がニートの一般人に説教する」という部分の切り抜きだ。
その芸人の行動に「正しいことをちゃんとを言ってくれるこの芸人は優しい」とか「 丁寧に理屈を言って諭しており、言い方はキツイが良い人」というコメントだ。
正直個人的には芸人の語り口は「厳しい」を装いながらも言っている事は至極「正論」である。
自分のエッセイで度々語っている事だが「正論」とは
「多数の人間のデータの蓄積」であり、「多数派」の「言葉」である。
それゆえ知識さえあれば経験がなくても誰でも言えるから「正論」であり、そしてそれを言う事で相手を言い負かすのであればそれは「相手」に言っているように見えて実際は観客、あるいは視聴者に向けた物である。
ましてや「芸人」と「一般人」という構図から自分としては「 素人イジリ」の延長線の「パフォーマンス」としか見ていなかった。
だがパフォーマンスをして番組を盛り上げるのは「芸人」である以上、それが「仕事」だ。
そして「ニート」も本物かどうかわからない。
テレビ局が雇った演者かもしれない。
疑えばキリがない。
また他の動画でも似たような「正論」を並べて論破する動画に「厳しいから優しい」だとか「コイツみたいなクズに時間をかけてあげているからこの人は良い人」といった「思考停止」でも判断できるような理屈で「動画の中の情報だけ」を判断材料にして「優しい人」「良い人」の判定を下すコメントをたまに見かける。
以前の「褒める」について語ったエッセイでも似たような話をしたが「褒める」あるいは「叱る」というのはあくまで「手段」であり、本質的なものは「相手の成長」を促すためのものだ。
それと同様に「厳しい言葉」も「優しい言葉」、あるいは「淡々とした言葉」も全て「手段」である。
そのため「相手のため」ではなく「自分のため」の正当化を行う手段としても機能する。
「苛々している」から「厳しい言葉」を「お前のためを思って」と正当化が可能だ。
「下心」や「損得勘定」から「優しい言葉」をかける事もある。
「興味がない」から「淡々とした言葉」にもなる。
必ずしも「本心」から「相手の事」を思ってそうした言葉遣いになるわけではない。
世間一般に「優しい」というニュアンスで「親切」という言葉を使いがちだ。
実際、自分もエッセイを書く前まではそこの違いを認識していなかった。
だがエッセイで最初から使ってきた陰陽道や漫画の考察で使用してきた五行説、五神を使う中でこの「優しい」という事と「親切」の違いが自分なりに見えてきた。
「親切」とはその字の通り「親」を「切る」という事。
無論、「親を斬り殺す」という意味ではない。
「親」というのは「その人」にとっての「過去」を示す比喩表現だ。
「子ども」の頃、成長過程において一般的な人間なら最も人格形成に影響を与えた大人、それが「親」。
動物的な本能から、そして立場の強弱関係からも「子ども」は「親」を信頼するしか生き延びる方法がないに等しい。
だから「親」のいう事を信じるしかないし、命じられればその命令をこなすしかない。
だがそれはあくまで「動物的な本能」「立場の強弱」から「生きる手段」としての「信じる」であって「人間的な信頼関係」ではない。
「一人の人間、大人として尊敬できる相手」だろうが、
「人間として、大人として信じる事が出来ない相手」であっても生きるためには「親」のいう事を信じるしかない。
SNSなどを見ていると「表面的には従いながらも心では一度も親を信じたことはなかった」という人間もいるが、どんな人間であっても「子どもの頃の親との関係」がその後の「人間関係」に対して「影響」を受ける。
「人間関係」に限らず、「過去の出来事」によって「現在の選択肢」、特に「心理的な選択肢」が減ってしまう。
他人、第三者から見た時、ルールやマナー的に何の問題もないのに「その人自身の心」が過去の経験で選択肢を減らしてしまう。
苦手意識、嫌悪感、罪悪感。
「親切」とはそうした「相手」の「過去」を切り捨てるものだ。
だから「親切」であろうとすれば「正論」をぶつける事にはならない。
「正論」を用いた「論破」は「相手」の「現状」に対してであり、「相手の話」を聞かなくても「相手の現状」の情報さえあれば可能だからだ。
「無職」という情報だけあれば「 正論」で「論破」できる。
「現在の相手」と「現在の自分」との戦いであり、相手の弱みを誰の目からも正統な攻撃をすればリアクションが大きくなり、盛り上がる。
それを見た視聴者は爽快で楽しめる。
しかし「親切」であろうとすれば「相手の過去の話」を尋ねる事から始まり、その時の「相手の気持ち」を聞き、そして今どう思うのかという「相手の考え」、そして「相手の目指す所」まで聞いてようやく「自分」のターンとなり、そこでようやく「親切な言葉」「親切な行動」を発揮できる。
そして「自分のターン」となっても「相手の理解」と擦り合せが必要なため、逐一「相手」に意見や相互の認識を確認し合う必要がある。
結果として「論破」のような「正論」を言っておしまい、になるわけがない。
そして「親切」が相手にとって「厳しい」ものになる場合というのは
「過去」を切り捨てようとしない、引きずったまま「未来」を変えようとするからだ。
「過去の自分」が悪かった事を認めたくない。
けれど「未来の自分」を変えたい。
それは「過去に親から受けた言葉や行動」によって「現在の自分」が「被害者である」と言っているに過ぎないからだ。
「被害者」なのは良い、というか「事実」だから「被害者」でしかない。
だが「被害者」のままでは「受け身」であり、「加害者」の出方を見て「 許す」かどうかを決める事になる。
それではその加害者の方から歩み寄っ待て来ない限り「未来」は変わらない。
そして色んな状況があるとはいえ、大抵の加害者は「 自分の行動が悪かった」と思っていないから「加害」をするわけで正直な所、被害者から訴えかけない限り加害者の方が頭を下げて許しを請う事は起こる可能性は極めて低い。
「未来の自分」を変えるためには「行動」が必要となる。
だから「被害者であった事」を「過去の自分」としてしまわなければ「現在の自分」は「行動」できない。
「加害者」に対して報復なり賠償請求をするなら「被害者」から「訴える者」として「行動」しなければならない。
その「行動」するための助言を与える事は可能だが「被害者」を慰めるのは「親切」とは「別物」の概念だ。
そして「親切」が「優しい」ものになる場合は「過去」を切り捨てる覚悟、「被害者」である事を止め、「行動」しようとした時に「それが本当に正しいのかどうか」と迷った時に「優しい」ものに「親切」は変わる。
「親切」とは「相手の過去」を「切り捨てる」という事。
それは何のためかと言えば「現在の相手」のため。
「現在の相手」の決断、意思を「尊重」しているからこそ、「過去」として「もう終わった事」「もう罪の意識を感じなくてもいい」という事を伝えて「味方」になる。
「味方」として「相手の責任感」を背負い、そして相手の負担を減らす。
「相手」を「無責任」にさせて「行動」へ向かわせる。
「過去の相手」の話を聞き入れながら「未来の相手」の幸せを願って「現在の相手」の「決断」の味方である事を伝えるために「優しい」という手段を使う。
「親切」であるという事は相手の選択肢を狭める枷を取り払う事。
物理的に親切であろうとすれば例えば身体的にハンデのある障がい者が我慢をしなくて済むようにバリアフリーの建物を作るであるとかが分かりやすいものになる。
精神的な親切も同じである。
そのため「我慢」を常態化させる時点で「親切」の「失敗」であり、身体的な障がい者なら我慢が重なれば外出しようとする気持ちもなくなるのと同じように精神的にも行動意欲がなくなる。
子ども、生徒、部下、そうした「下位存在」はそうでなくても大人や教師、上司といった「上位存在」より責任が少ない代わりに取れる選択肢が少ない。
責任の大きさは選択肢の多さでもあり、責任感のある者を育てたいなら我慢させて選択肢を狭めるより、選択肢を増やして責任を背負わせていく必要がある。
そして増やした選択肢の中から子どもが処理しきれない責任を親が肩代わりしながら一緒に成長する。
「女」が「我慢」していれば「男」が助けてくれるから「成功」させて貰えた。
それによって女は自分の能力では出来ないと「自覚」できる筈だ。
その前に大前提として「行動」した事によって「我慢」せざるを得ない状況に追い込まれた。
「行動」した結果、実力不足でどうにもならなくなって助けを求めて「我慢」をした。
これは仕方のない「我慢」だ。
そして自分の実力を自覚するための必要な「我慢」でもある。
そして助けて貰ったから「感謝」する、迷惑をかけたから「謝罪」する。
「行動」から「助けて貰う」という流れで「自分の実力」を知るための「我慢」と助けて貰った「感謝」、迷惑をかけた「謝罪」の3つの経験を学べる。
無論、「行動」からそのまま「成功」すれば「自信」と「意欲」、「理解」の3つが身につく。
最初から「行動」ではなく「我慢」をさせてしまえばコレラの機会を失う事になる。
ただし「助けて貰った」にしても「成功」にしても「自覚」する事が重要であり、そのためには「躾」として教える必要がある。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
とは言うが子どもは全てが始めてで「自分の経験」もないし、行動範囲の狭さから狭い社会で生きるために「他人の歴史」も親を見る事でしか知り得ない。
「子ども」が「愚者」でも「賢者」でも「親」が「親切」でなければ学ぶべき「歴史」も体験するべき「経験」もない。
この話自体は2日、3日くらいで書いたわけだが、本当は違う話を書いていた。
しかし脱線して長くなったからいっそのこと脱線した話を書こう→また脱線してきたからそっちを書こう→また…の繰り返し。




