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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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「女はイージーモード」は果たして悪なのか?

多分前も似たような事書いた記憶があるようなないような。

タイトルの通りで男の立場からすれば勿論気に入らない。

同じ仕事をこなしてるのに女は褒められてチヤホヤされ、男は当たり前のように何もない。下手をすれば文句をつけられかねない。

失敗しても愛嬌を振りまけば軽い注意で終わる女に対して男は前もって媚びておいて心象を良くしておいた上でさらにゴマをすってようやくそれに達する。

そうした目線で見れば勿論女がイージーモードなのは気に入らないのは確かだ。

だが「イージーモードは悪か」と言われると悪ではない。

悪いのは以前からエッセイで書いているように「女」から「母」になれないままの女、そして「女にモテたい陽キャラ男」がいるからだ。


前回の話の感想への返信でも書いたのだが何故「勇気、正直、親切」が「友情、努力、勝利」よりも先に子どもに身につけさせなければならないのか。

それは「勇気、正直、親切」というものは「結果」、つまり「報酬」を求めるものではない。

一方で「友情、努力、勝利」というのは「結果」ありき、あるいは「報酬」ありきのものだという事。


「勇気」を出して物事、「クエスト」に挑戦する。

その時、その勇気を基準に考えれば「クエスト」の成功か失敗かは関係ない。

勇気の成功とは「一歩を踏み出した」であり、勇気の失敗とは「一歩を踏み出せなかった」である。

「クエストを成功させる」というのは「結果を求める」という「努力」の範疇である。


同じように「正直」である事はあくまで自分の心や行動に対してである。

「正直」にした結果どうなるかは別問題である。

「親切」も他人に寄り添うという事であり、それによって結果がどうなるか、他人に感謝されるかもしれないし、重荷を抱えてしまうかもしれないし、それはわからない。


逆に「友情」とは一緒に遊んだり、意見を言い合ったりした「結果」として育まれるものだ。

また「勝利」なんてものはまさに「結果」そのものである。


「結果を意識しない」という「勇気、正直、親切」の3つの美徳。

「結果を意識する」という「友情、努力、勝利」の3つの美徳。

つまるところ「結果」とは「責任」の有無だ。

そして子どもというのは如何に大人びて居ようが、あるいは神童と呼ばれようが子どもは子ども。

責任は取れない。

責任を取れないのに「責任を取る美徳」を積ませるのは不可能、とまでは言わずともかなり厳しい。

一方で大人は子どもの頃にあった制限は無くなる反面、自分の事は責任を取らなきゃいけない。

だから「責任を無視した美徳」を積むのは不可能ではないだろうが非常に難しい。

だから「行動の制限がある」代わりに「責任を親に背負ってもらえる子ども時代」にこそ「勇気、正直、親切」をまず教え込む。

コレは遊びなどの経験を通じて「実践可能な備え」である。

その後に大人になるため、責任を取るための備えとして「友情、努力、勝利」も教え込む。

コチラはあくまでも親や教師などの大人による指導での「知識としての備え」である。

この順序が逆転すれば「結果」を気にしすぎて勇気も正直も親切も出来ない。

「無責任」である状態でこそ磨かれる美徳もある。


ここでタイトルに戻るが「女はイージーモード」というのは男よりも「無責任」である時期が長いという事だ。

子どもの頃は「父親」が甘やかす。

年頃〜20代の間、若く綺麗な内は「男」がチヤホヤする。

そして30代。

仕事なら若手が入ってきて自分はそれなりに仕事に慣れ、それなりの地位になる。

結婚しているなら子どもを望むなら限界が近い年齢だ。

ここでチヤホヤされる「女」から責任を取る「母」になるかどうか。


30年という長い間男に助けられ、チヤホヤされ、それが当たり前だ。

女の行動力、物怖じしない発言や他者を寄り添う精神は男には中々ない。

それだけ「子どもの期間」というのが長く、責任の軽さ故に培われた「勇気、正直、親切」の美徳のおかげだ。


結局のところそれは「男と結婚して子供を授かり育てる為」という「パートナーとなる男」のためであり、「女はイージーモード」が許されるのは「 生まれてくる子供」のためでもある。

男という存在の価値の根源が「女と子供を守る為」という所にあるように「女はイージーモード」というのは女の価値もまた「男と子供のため」という所にその価値の根源があるからで「女はイージーモード」はそのための社会が望み生み出した「術」でもある。


しかし「女はイージーモード」という「術」の効果というのは「イージーモード」という事を自覚をしているからこそだ。 

優秀な女なら男と競い、力の差を感じる事で気づく。

心根が優しい女は他者に寄り添う事で気づく。

また、普通の女であっても両親が子供のために様々な経験をさせれば気づく。


R-18な話にはなるがジャンルの一つに「分からせ」というものがある。

気が強い女、能力の優秀な女、生意気な女。

そうした女を何らかの方法で屈服させる。

その手段は大抵の場合、性的、あるいは暴力的なものになる。

それで「男女の力の差」を強制的に自覚する。


ただこうした方法だと大抵は「壊れる」。

身体が壊れれば女としての役割、「母親」としての役目は果たせないし、精神が壊れればもはや「人」としてもダメだ。

男が手加減無しに「分からせ」を行えば本来の「母親」としての役割を果たせなくなる。

だからこそ昔は「花嫁修業」という名目で「目上の女」が「若い女」に対して「 壊さず」に「分からせ」を行っていたわけだ。

しかし、現在では優秀な家電があるため花嫁修業などはまずやらないし、裁縫なども今や必須というような技能でもない。

あくまで「趣味」の領域だ。


男がやれば壊しかねない。

女同士でも現代では「分からせ」をする事ができない。

だから現代は「女はイージーモード」を自覚するのが困難。

そしてそのまま「自分のため」に「術」を用いて「志が低い状態」で男を求め、結婚し、子供を生む。

それで「安泰」だと思う。

しかしそこからが男達が歩んできた、あるいは「陰キャラ」達が歩んできた「責任」を果たすために「我慢」の続く「ハードモード」。


早くから自覚している者は「イージーモード」でありながら「罪悪感」という枷があり、実質「ノーマルモード」くらいを生きてきた。

だから難易度の差が幾分緩やかで、そしてハードモードに備えているからハードモードにも動じない。

「思っていた以上に辛い」と思う事はあっても「覚悟を決めた」以上、ハードモードを続行しようとする。

自分をハードモードに適応させようとするからだ。


だが自覚しないが故に何も備えないままイージーから一気にハードに予告無しに変更された人間は「母親」としてイージーモードを続けようと今度はそれまでの甘やかしてくれた「父親」、「男」の次の対象として「子供」にそれを求める。

それによって子供の人生は最初からハードモードになり、生まれ持った能力がない限り潰れる。


男が女に「手加減無し」で分からせをすれば「壊れる」のと同じように「大人」が「子ども」にたいして「手加減無し」で分からせをする。

最初から結果と責任を求められ、「友情、努力、勝利」を磨く事を要求される。

そして夢や美学を持たず、「勇気、正直、親切」が未熟なままに社会に出されて詰む。


「女」は確かに「イージーモード」だが、「子ども」もまた「イージーモード」でなければ生きられない。

だからその「イージーモード」には価値がある。

だがその価値を考え、「イージーモード」である事をどう活かすかに注目しなければ意味がない。

「女はイージーモード」の「価値」とは「最低限」を固める事。

上を目指すなら「イージーモード」で満足してはいけない。

だが「最低限」、ソレさえ出来れば良い。


以前のエッセイで少し語ったが「筋トレ」は別に高重量を上げたり、コンテストにでるようなマッチョになるためにやる必要はない。

それはあくまで「趣味」の領域だ。

だが生きる上で最低限、「しゃがんで立つ」くらいの筋力はないと話にならない。

そうした最低限ができない高齢者が介護を必要とする。

だが筋トレをすればそのくらいの最低限の機能を持つくらいには90代でも筋力は着く。

そのためのやり方は筋トレに限らず色んな専門家が方法を示している。

「安全で簡単に、楽しみながらできる方法」。

専門家は最終的な目標としては「普通」の方々のために研究を重ねている。


ならば男よりも長い期間「イージーモード」に居た経験のある「イージーモードの専門家」である「女」は「子ども」に対して「安全で簡単に、楽しみながら生きるために最低限必要な経験」を伝えなければならない。

「安全」を示すのは「正直」であっても良いと伝えるため。

「簡単」を示すのは「勇気」の一歩を踏み出して貰うため。

「楽しみ」を示すのは不安定な子どもの気持ちに「親切」に寄り添うため。

「最低限」を越えた先は子どもの自由である。


「安全に簡単に、楽しみながら生きるために最低限必要な経験を教える」

ゲームで言えばチュートリアルだ。

女が「イージーモード」で手に入れるべきもので「母親」として子どもに伝えるべきは「人生のチュートリアル」。

生きるために必要な基本的な知識、経験。

「普通」や「常識」は目まぐるしく変わる。

10年前の常識と今の常識は違う。

だが生きるための「根底」にあるものはそこまで変わっていない筈だ。

でなければ人は80年、あるいは100年も生きていけない。


「弱い自分」「若かった自分」がどうやって生きてこれたのか。

分からない事を男に聞けば教えてくれた。

出来ない事を告げれば助けてくれた。

一つ出来れば褒めて貰えた、そして次の目標を教えてくれた。

それを今度は自分がかつて自分を助けてくれた男役になればいい。


「外面」も「内面」もその全容を知るのは「自分」しかいない。

「申し訳ない」と思いながら男に助けを求めたか?

なら人の邪魔をする事を申し訳ないと思えるような躾をすればいい。

何も考えず、聞けば助けてくれるから求めたか?

なら子どもの質問は全部答えろ。助けを求められれば全部助けろ。

「当時は分からなかった」という事もあるかもしれない。

だが「振り返る事」によって「今の自分」なら分かる事もある。

それが「チュートリアル」の基盤になる。



そうやって「自覚」してくれれば嬉しいが、「女嫌い」となった今となっては正直な所、別にどうでも良いといえばどうでも良い。

あくまでも「女はイージーモード」の光景を見る度に怒りを覚えていては疲弊する。

コレは処世術、「心を鎮める」という目的を成功させるための「術」に過ぎないと言えばその通り。

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