喜とは何か。
五行説の五神の魄である「子ども」が結びつくべき魂、「美学」や「道」とはすなわち、自身のエッセイで語るところの「喜怒哀楽」の内、「喜」にあたるもの。
「喜び」を通して「道」や「美学」に触れる。
お手伝いをしてくれたから子どもが欲しがる物を与えたり、あるいはテストやスポーツで良い成績を残して褒めたりするのは「嬉しい」ではあるが「道」や「美学」に繋がるものではない。
無論、欲しがる物を与えるのも褒めるのも「報酬」というものは「仕事」や「努力」の対価である事を伝えるために重要である。
それを「生きるための術」として教える分には良いがそこで「苦労しなければ成長しない」なんていう話と結びつけて「道の真似事」を行えば「手伝いをした事自体が報酬」や「勉強するのは当たり前」のように親の仕事であるべき「対価を払うこと」や「褒める事」についてやらない理由付け、正当化がされてしまう。
「手伝っても文句ばかり言われる」「頑張っても認めて貰えない」では子どもは余計に手伝いや勉強などに嫌悪感を持つし、親はそんな子どもを見て苛立つ。
それでは「術」としての最低限すら子どもには身につかないし、親は親で「自分は頑張って躾した」と責任感を感じずにいつまで経っても毒親のままだ。
「術」を教える場合はあくまで「術」として教え、「道」を教える事と分けなければならない。
脱線したが子どもが「道」を学ぶには「喜び」か必要であり、それは上記の「対価」を貰って感じる「嬉しい」と思うものと「喜び」に感じる物は似て非なるものだと自分は考える。
先に結論から言えば子どもが「喜び」として学ぶべき「道」、「美学」とは3つ。
「勇気を持つこと」「正直である事」「人に親切である事」
この三つ。
正直な話をすればコレは自分の考えたものではない。
ラジオで1年ほど前にたまたま聴いた話である。
この「勇気、正直、親切」が子どもに身につくよりも前に「週刊少年ジャンプ」の「友情、努力、勝利」の要素が子どもの中に入り込む。
それ故に昨今の「闇バイト」をする若者などが生まれるのだと。
そのラジオの話を聞いて、そして自分なりに考えて確かにそうだと同意した。
その上で五行説の五神、「魄」が結びつくための「魂」であり、子どもが得るべき「喜び」とはこの三つだと考えている。
この3つの「勇気、正直、親切」とはあくまで精神的なものだ。
実際の行動としては
勇気=未知に挑戦する、危険に飛び込む。
つまり「覚悟を決める」という事。
正直=嘘をつかない、卑怯な真似をしない。
つまり「自分のした事に責任を持つ」という事。
親切=人に優しくする、弱者に寄り添う、
つまり「他人の立場になって考える」という事。
ハッキリ言えばコレら全て「損」でしかない。
あくまで「損得勘定で考えれば」という注釈は付く。
わざわざ「勇気」を出そうとする時点で「リスク」があるわけだ。
「正直」に生きようとすればトラブルが発生した時に「罰」を受ける可能性が高くなる。
「親切」にして他人に気を取られて生きていればもう自分の時間や労力を取られてしまう。
こうした「勇気、正直、親切」がない人間達が週刊少年ジャンプの三原則、「友情」で結びつき協力し合い、「努力」として犯罪を犯し、「勝利」という大金を掴む、というのが極端ではあるが件のラジオで語られた考え方だ。
結局のところ「術」は「報酬を得られる」という絶対的な魅力がある。
だからこそ「子ども」の段階、「反抗期」より前の10歳前後の段階までに「友情、努力、勝利」よりまず先に「勇気、正直、親切」に対して「損」ではなく「価値」がある事だと伝える必要がある。
そもそもとして週刊少年ジャンプの有名なキャラクター達に「勇気、正直、親切」がないかと言えばそんな事はない。
と言うよりドラゴンボールの孫悟空にしても、ワンピースのルフィにしても、鬼滅の刃の竈門炭治郎にしてもそもそもとして「大前提」としてある。
そしてそれらを描くエピソードもある。
しかし、それらはどうしても魅力が劣る。
どうしてもそれは「サブクエスト」的な扱いとなり、一つ一つの掘り下げが短い。
2、3話で退場するようなモブキャラから助けを求められ、メインストーリーには関係のない、必要のない人助けをさせられていらない苦労をする。
それよりも「しっかりと描かれた魅力的な仲間たちやライバル」との「派手なバトル」の方が分かりやすくて人気がある。
だか大人になる上で「友情、努力、勝利」も必要なのだ。
それでも先に「勇気、正直、親切」が結びつかなければならない。
「他人」と「友情」を結ぶには「勇気」を持ったなければそのきっかけさえつかめない。
「努力」にしても自分の弱さを「正直」に認める事から始まる。
「勝利」を盤石にするには相手や審査する者、あるいは観客に対して「親切」に振る舞い、互いに尊重し合わなければいらない恨みやトラブルを抱え込む可能性がある。
去年、旧ドラえもんの声優をしていた大山のぶ代氏が亡くなられた。
自分はその世代だ。
だからある種追悼の意味もあって旧ドラえもんの映画を順に見ていった。
ドラえもんの「のび太」はドジで間抜けでノロマ。
頭も悪ければ運動神経もない。
だけど映画で描かれたのび太はどんな敵や困難が待ち受けていても飛び込む「勇気」がある。
「正直」でいようとする。
「親切」であろうとする。
そうやって映画に登場するキャラと友情を得て、そして別れる。
そしてのび太の側にはドラえもんがいる。
ジャイアンやスネ夫、しずかちゃんがいる。
のび太一人では、子ども一人ではいくら勇気があっても無意味でそれを成功へ導くには助けがいる。
時にのび太自身、あるいは仲間のキャラが原因でトラブルに巻き込まれる事もある。
それを自分の事のように考え、自分の身を捨ててでも解決しようとする。
そうやってのび太の側でのび太の事を見ていたからこそ、しずかちゃんはのび太に惹かれた。
そしてそんなのび太だからジャイアンもスネ夫も、そして映画への登場回数は少ないが出木杉も「グズでノロマののび太」が「クラスのマドンナのしずかちゃん」と結ばれる事を少し嫉妬しながらも「のび太だからこそしずかちゃんを任せられる」と心から祝福している。
そうやって改めて考えてみると「週刊少年ジャンプ」 が「少年が憧れるべき大人」の姿として「友情、努力、勝利」をテーマに掲げているのであれば
「ドラえもん」は「子どもに現在必要な事と大人がするべき事としてはいけない事」が描かれているように感じる。
ドラえもんで育った子どもが、ジャンプの主人公にあこがれて成長する。
この流れがある日本というのは本当に凄いと思う。
勿論、ドラえもんだけではなく、子どもが見るアニメの代表格「アンパンマン」などもそうしたメッセージがあるのだろう。勿論、ジャンプだけではなく、マガジンやサンデー、チャンピオンなどの少年漫画全般にも言える。
「友情、努力、勝利」という悟空やルフィ、炭治郎のようにカッコよくになるためにはしっかりと「勇気、正直、親切」というドラえもんののび太にならなければならない。
得にならない、あるいは損をするかもしれない。
失敗して悔しい思いもするだろう。
ただ行動するだけではダメなのだと思い知らされるだろう。
だからこそ「勇気、正直、親切」をこのまま持ち続けて良いのか、と悩む。
「隠した」方が良いのではないか。
「嘘」をついた方が良いのではないか。
「逃げ出す」方がマシなのではないか。
子どもだからこそ親を信じ、親の言う事に従い、それに応えようとするが成長の過程で様々な人、様々な経験を経て様々な葛藤をする。
「勇気、正直、親切」を貫くためには「成功」しなければならない。
そのために「術」を考えたり、あるいは人から学ぶ。
だが「勇気、正直、親切」を教わっていなければ多くの術を身につけようとは思わない。
「成功した人間」は「カッコいい」。
逆にいえば「成功しかしていない人間」というのは「カッコいいだけ」とも言い換える事ができる。
努力するのは基本的に「カッコ悪い」。
何故なら努力するという事は「自分の能力では目標に届かない」と告げているようなものだからだ。
カッコいい努力はない。
ただ目標に向かってひたむきに努力する「カッコいい魂」は存在する。
その魂がない限り積極的に術を得ようとは思わない。
「その場凌ぎ」「付け焼き刃」で充分だ。
そんな風に思ってしまう。
勇気を出すフリ、正直なフリ、親切なフリ。
そうやって「フリ」ばかりが上手くなり、やがて「本当に自分がしたい事」すら「したい事があるフリ」となる。
「失敗」したらどうしよう。
「馬鹿」にされたらどうしよう。
「否定」されたらどうしよう。
「普通」の人、「行動力」のある人はこの手の心配を不要と言うのは恵まれた環境だったからだ。
これを気にしないと親から家を追い出されるかもしれない、罰を受けるかもしれない。
「死活問題」なんだ。
周りの人間や漫画やゲームの主人公のように挑戦と失敗を繰り返して成長したい。
だけどさせてもらえない。
チャンスは一度切り。失敗はできない。
仮に二度目のチャンスがあったとしても、それに成功したとしても認めて貰えない。
「最初からそうしろ」「何時までやっているんだ」と怒鳴られる。
「最初で最後のチャンス」を成功させるために「完璧主義者」にならないと「今」を生きる事が難しい。
そしていつしか「完璧主義者のフリ」が身についてフリではなく「完璧主義者」となり、何も出来なくなる。
いつ来るか分からないチャンスに備えるのは重要だが、その全てを成功させるために備えていれば疲弊してしまう。
自分以外は失敗しても何度も挑戦し、時には助けられているのに、自分だけが一発で成功を、それも100点満点を取らなければならない。
成功したところで何が楽しいんだ?
何を喜べばいいんだ?
この怒りを何処にぶつければいい?
この哀しみは誰が共有してくれる?
我慢を続ける事で我慢強さは鍛えられない。
摩耗して気にしなくなるだけ。
「気持ち」が無くなるだけ。
この流れはドラえもんののび太がよく陥っている状態でもある。
のび太のママから叱られたり、ジャイアンやスネ夫にいじめられたりする。
それでものび太にはドラえもんがいる。
愚痴を言ったり、励まされたり、時に喧嘩もするし、時に一緒にママに怒られたりする。
だが現実の子どもにはドラえもんはいない。
のび太にとってのママの役割も当然しなければならないが同時にドラえもんの役割も親には求められる。
全てを自己責任と受け入れるには「子ども」には不可能であり、実際半分以上は「親」の責任だ。
「親」が「勇気、正直、親切」をしっかり示さなければならない。
それが「正しい事」、それが「善い事」、それが「尊い事」に繋がっていく「スタート」だと。
そのためには親は子どものした事に責任を負い、愛情を与えなければならない。
それが親として、子どもとして「普通」の姿であり、「幸せ」の形なのだと。
「口先だけ」ではなく、行動で示さなければ通じない。
親として子どもの責任を取る覚悟は決まっているのか。
パートナーに対して、子どもに対して嘘をついていないか。
パートナーや子どもに寄り添っているか。
言葉や行動で伝える事で子どもは自分の勇気を、正直を、親切を「喜び」に変えられる。
報酬を与えられて感じる「嬉しい」ではない。
自ら感じるから「喜」の字には「嬉」の字にある「女」はない。
子ども自身の中の「勇気、正直、親切」から生まれた言葉、あるいは在り方、「意志」が「喜」となる。
そして「勇気、正直、親切」の魂から行動し、「友情、努力、勝利」を目指す者に名前があるならばそれはきっと「勇者」と言う。
話の中にも書いたが「勇気、正直、親切」は自分なりに考えてエッセイとして書いたものの、きっかけはラジオだから正直投稿するかどうか迷った。
投稿するか迷ったけど、実際子どもは「勇者」であるべきなんだと思う。




