五気と五神と意
五行説に人間の精神的なものをを当てはめたものを「五神」というが五行説を「陰陽」に分けた考え方がある。
それが「五気」だ。
陰陽、つまり陰陽道である。
陰=女、陽=男。
五行説で陰に当てはまるのは「金」と「水」。
陽に当てはまるのは「木」と「火」。
そして残った「土」は中性である。
そしてコレはそのまま「五神」にも当てはまる。
陰、つまり女性的なものは「魄」と「志」。
陽、つまり男性的なものは「魂」と「神」。
中性的なものが「意」。
陰陽道においては「男女」のバランスが重要である。
五行説でもそれは同様である。
五行説の相生に当てはめて「金生水」の通りに五神の順番で「魄」→「志」と進むより前にまず先に女性的な「魄」と男性的な「魂」で結びつき、「魂魄」となった後に「志」へ進む事が重要となる。
魄というのは女性的、と五気が示しているが実態としては「女」という性別よりも「子ども」を指していると考える事が可能だ。
昔から言われる「女子供」と一括りにされるように「下位の立場」である。
女児でも男児でも「弱い立場」である事に大した差はない。
だからこそ、「魂」という美学や道に触れる事が重要だ。
一方で志もまた女性的である。
こちらは子どもが成長して働けるようになった大人だ。
志とはプロフェッショナルではある。
プロフェッショナルというといかにも専門家というイメージがある。
しかし見方を変えると「被雇用者」、つまり「誰かの下で雇われている」という事になる。
五行説が確立された古代において「成人した女」の仕事は何か。
スマホもパソコンもない古代、力仕事は男にかなわない。
そもそも男尊女卑で社会で女がまともに働けるとすれば性的なもの以外となると結局「家事」が基本的な仕事である。
その専門家と言えばつまり「嫁」という仕事だ。
今では男女平等の考えからなくなったがかつては看護師は「看護婦」と呼ばれていた。
一方で保育士は「保母」と呼ばれていた。
「看護母」とは言われない。逆に「保嫁」とも言われない。
そこには明確に「嫁」と「母」の仕事に違いがあるからだ。
嫁と母の違いとは「自分より弱い存在が相手」かどうかだ。
「相手が自分より弱いかどうか、だとしても仕事であるのだからやる事は変わらない。」
ではダメなのだ。
それでは人は育たない。
いかに能力が高いとしても人を育てられない人間、人を育てるつもりのない人間に人の上に立つ資格はない。
魄から志になるのは女児から嫁になる事に等しい。
嫁いだ先で家事をする。
確かにそれはそれで立派だ。
しかし仕事のミスをしても結局のところ「下位の存在」である。
「上位存在」が許せば何の問題もない。
だか「母」はそうはいかない。
母親とは「上位存在」なのだ。
「母親」という職業はその上に上位となる存在はいない。
全ての責任は母親が取らなければならない。
ミスをするな、という話ではない。
人間である以上ミスはする。
その時には隠したり、誤魔化したりせずにその責任を取れという話。
そのためには「美学」や「道」、男性的な「魂」がなければならない。
「子どもの事は自分が責任を取る」
と言い切れる女だと思うからこそ男は「責任」をとってそんな女性と結婚する。
それが本来あるべき「男の責任」だと思うがすっかり「妊娠させてしまったから」というある種の罰ゲーム的なものに「男の責任」という言葉は成り果てている。
それは結局の所「女遊び」が好きな「無責任な陽キャラ」というのは「女」と同様、誰かが責任を取ってくれるという思想の「下位存在」であるからとしか言いようがない。
「陽キャラが女にモテる」というのは表面的に見れば「カッコいい」「男らしい」「能力が高い」と様々な形容がされるがつまるところ「女と同類だから」という事に尽きる。
「無責任」だから「行動力」が高い。
「無責任」だから女の仕草を「褒めちぎる」
「無責任」だから「危険」を冒す事に躊躇いがない。
何のためか、といえば全ては「自分」のため。
つまり「子ども」という事だ。
「大人」になるには「相手」の事を考える必要がある。
「相手の成長のため」
「相手の癒やしとなるため」
「相手の安全のため」
そのために行動を我慢する必要がある。
嫌われる覚悟で叱る必要がある。
相手を守るために立ち止まって考える必要がある。
「自分一人」のためなら我慢する必要はない。
嫌われる必要もない。
立ち止まる必要もない。
「相手」のために「自分」のそうした欲求を捨てる。
「自分」を「犠牲」にする事で「相手」を守る。
それが「男」であり、「大人」であり、「上位存在」である。
それが「志」が行き着く先であり、「志」より先に「魄」が結びつかなければならない「魂」である。
そうやって「魂魄」を備えた者が「志」を完成させた時に「神」となる。
「神」には「畏怖」と「尊敬」がある。
その「神」から発せられる「意」。
この「意」というのは中性である。
音や言葉、全てに意味があるが中性。
男女両方の性別がある、もしくは性別がない。
だからその言葉を男女どちらがいっても意味は変わらず、そしてその言葉の中に性別に関連したものがあれば男女を入れ替えても意味は同じ。
「意」は性別ではなくあくまで「立場の強弱」で意味が変わる。
「責任の有無」で意味が変わる。
その「立場」や「責任」は「言葉遣い」に表れる。
例えば「止めてください」と「止めろ」。
前者が丁寧、後者が乱暴?
あるいは前者が「女言葉」で後者が「男言葉」?
意味は「相手にその行動を止めさせるための言葉」であり、変わらない。
その相手が「上の立場」だと自分から発する言葉は「止めてください」になり、「下の立場」だと「止めろ」になる。
「懇願」か「命令」でありそこに性別はない。
「仏の顔も三度まで」という言葉がある。
コレは「止めてください」という「懇願」から始まり、「止めなさい」という「警告」に変わり、「止めろ」という「命令」に変わる。
最初は「志」の立場から相手に懇願する。
1度目は自分が我慢すればいいだけだからだ。
「仕事の効率」を考えた時、それが最善である。
次は「魂」の立場から相手に警告する。
2度目が行われるという事実は自分だけではなく周りに悪影響が出る、もしくは周りに対して同じように既に迷惑をかけている可能性があるからだ。
「仕事の環境」を律する事を考えるとそれが最善。
最後は「神」の立場から相手に命令する。
3度目は最後の慈悲だ。
「自分が我慢すれば丸く収まる」という「志」を無視し、
「周りの人間への悪影響へのフォロー」という「魂」を裏切った。
だから「神罰」が下る。
「仕事」そのものを守るため、ルールに沿って厳罰を与える。
悪い事をしたなら「懇願」や「警告」をスキップして「命令」すれば確かに楽だ。
しかしそれをすると周囲からの印象が「神」から「鬼」へ変わる。
トラブルを起こして一発アウトで「上位存在」が「命令」を行えば「周囲」は「恐怖」を感じ、萎縮する。
それでは周囲はミスをしないように行動力が低下して作業効率か低下する。
懇願から警告の段階を通らずに命令に変わるのも同じ事で「警告」というのは相手に対してであると同時に「周囲」に向けたものでもある。
「警告」の言葉遣いを行う事で「感情的ではなく、冷静に理屈で告げている」という事をアピールする。
「どちらが悪いのか」という審判を周りに無意識に行わせる。
この「警告」という周囲への冷静さのアピールがあると「命令」をした際に「厳しい罰だけど、仕方ない」という印象に変わる。
「感情」ではなく、「ルール」を守っただけ、ひいては「仕事」を守っただけ。
「警告」という冷静な「理屈」の言葉を受け止めるには受け手も冷静でなければならない。
それを受け取らず3度目の過ちを犯すという事はその罰を受けた人間は「感情的で理屈で考えられない人間であった」という事になる。
「懇願」「警告」「命令」と段階が「意」にはあり、それは結局そのまま「志」「魂」「神」の精神、そして責任がそれぞれ備わっているかどうかになる。
相手に対して「懇願」をできない人間は「志」がない。
相手に対して「警告」をできない人間は「魂」がない。
相手に対して「命令」をできない人間は「神」がない。
その3つの精神が何れもない人間、あるいは全ての段階を経て最後に到達する「魄」は何をするのか。
それが「暴力」などによる「言葉のない訴え」である。
最近の「婚活市場」について「女余り」が発生している。
身分不相応な要求をする「わがままな女」の大量発生とそれを肯定して男に負担させる婚活という業界に対して愛想を尽かした男が身を引いた結果そうなっている。
また今年の3月頃に「配信者」に対する路上襲撃を行った「殺人事件」があった。
最初こそ配信者のファンによる暴走と言われていたが深掘りされていくとその事件を起こしたファンから配信者が金を借金しており、ファンはお金を工面して協力したが結局それは裏切られた。
そのLINEのやり取りが既に曝け出されている。
あまつさえ裁判でも支払い命令がその配信者に対して下されていたのに対して配信者はそれを踏み倒した。
婚活市場にしても「まともな恋愛していれば婚活市場になんてそもそもお世話にならない」という話があるし、配信者襲撃事件にしても事件を起こしたファンがそもそも配信者に金を渡すために消費者金融会社から借金をしていたという身分不相応な借金をしていた。
殺人を擁護するつもりはない。
だが「原因」を考えれば誰が悪いのか、となると婚活市場の女余りも配信者襲撃事件も「女」が悪い。
そしてその「女」が「わがまま」になったのは甘やかした「男」が、「陽キャラ男」が悪い。
「女」と「陽キャラ男」、両方に通じるのは「魂」がない事。
「志」という「懇願」と「魄」の「暴力による訴え」しかない。
「女が優位となった国は古今東西廃れる」という話は
最近たまに聞く話だがそれは「優位」になりながらも「懇願」と「暴力」という「下位存在」的な行動しかできないからだと自分は考える。
そうした「意」と「志」が結びつく。
「言動」と「仕事」が結びつく
。
AIによって無くなる仕事が10年くらい前から予想されていたがその予想は殆ど外れた。
AIによって便利になるから無くなる、という考え方は合理的な考え方から来るが「何のために仕事があるのか」というのは「男」と「女」で変わる。
「魂」と「志」で変わる。
「道」と「術」で変わる。
「AIで便利になるから無くなる」というのはあくまでも「魂」、「道」に沿った考え方だ。
しかし「魂」がない、「術」しかない人間にとって「居場所」が無くなるという事と同義だ。
「魂」からは「神」が生まれ、「神」から「意」が生まれる。
「志」から「意」までは「魂」からの距離よりも遠い。
だが「志」と「意」が結びつく。
何故なら「仕事」があるから「道」が生まれ「信仰」が生まれる。
一人で道を歩むのは険しいが数が増えればそこに道が生まれるための訴えを起こせる。
その訴えのために「志」が生まれる。
水を運搬するための器が生まれ、運搬しやすい道が生まれ、運搬せずとも自動で水がやってくる水路がある。
だが「水を運搬して生計を立てる人間」 が多ければ「運搬しやすい道」で止まり、無数の道が生まれる。
「水を求める者の声」と「水を運搬し生計を立てる者の声」の数の戦いの末にそこに「水路」が生まれるかどうかが委ねられる。
「志」にとって「数」は絶対的武器である。
同時に自らを縛る「枷」でもある。
「志」から抜ければ「裏切り者」扱いされる。
女のコミュニティ、ヤンキー、排他的な田舎、老害。
何れも「術」を優先した人間達だ。
「懇願」か「暴力」。
「警告」と「命令」を省く事で「上位」と「下位」という関係を省き、「責任」を取らない。
それでもそこの社会が回るのは「噂」が出回るからだ。
「警告」で周囲に冷静さと理屈を認識させなくても「噂」で誰が何をしたという真偽不明の情報が出回る。
勿論その情報も「無責任」だ。
全て「 神のみぞ知る」であり、「志」という名の「数の力」だけによって生まれた「神」は無責任な神であり、その「意」もまた無責任。
それが「普通」という「 神」であり、「自己責任」という「意」。
「志」、「仕事」を継続するための神であり、人間を救う事はない。
土に水を与え過ぎればそこにある植物は根腐れを起こし、緩んだ地盤は土砂崩れ等を起こす。
逆に水が無さ過ぎれば乾燥した土地は不毛の地に変わる。
有りすぎても無さ過ぎてもそこに生き物は根付かず土が持つ豊かな力は発揮されない。
「意志」とは「女」が「男」の要素を手に入れて「母」となり、「懇願」「警告」「命令」の3種の言葉遣いと責任を手に入れた時に「対等」なバランスの取れた「意」として発揮され、そこに正統な「志」が誕生する。
男と女、両方が納得できる言葉こそが「意」の最大の力。
スリーオブパーフェクトペア




