表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何か書きたい。  作者: 冬の老人
341/354

五神「神」「意志」「魂魄」についての解釈

五神における「 志」と「魂」についてそれぞれ自分の解釈を書きつつも流れで他の「意」と「魄」についてもあらかた掘り下げて書いてしまった。

なので「意」と「魄」については個別で掘り下げない。



五神の志、魂、神、意、魄。

それらの性質毎に役割がある。

それは基本となる五行説の水、木、火、土、金と似ている。


水は流れる。

志は水を届けるための術とその術の効率化、工夫を指す仕事の役割。


木は実を結ぶ。

魂は実を結ぶために成長し、天に向かって成長する木のように日の当たる場所、夢を叶えるための美学の役割。


土は踏みかためられる。

意は上位存在から下位存在への言葉、命令。

その本質はその上位存在の魂と同じ。

ただし美学というフィクションにすぎない魂が職業というリアルな環境の志によって神となり、削られ、凝縮され、形成された言葉。


金は発掘する。

魄とは夢である。

その夢は上位存在から提示されたものに憧れる所から始まり、その憧れを掘り続ける事ができる興味と憧れに対して思考し続け、行動し続けられる能力を持って確固たるものとして夢として刻まれる。


これらの事から「意志」とは「上位存在」がこなすべき「役割」であり持っている「権限」だ。

一方で「魂魄」とは「下位存在」が持つべき「美学」であり、「目標」だ。


では五神のリーダー格となる「神」が所属している五行説の「火」は何か。

火は燃える。

他の要素が「物質」としてそこに存在しているのに対して、唯一「火」だけが可燃物と酸素が反応して熱と光を発する「燃焼」という「現象」だ。


世界各地に神話や宗教があり、「神」がいる。

その「神」そのものは人間に「上位」でも「下位」でもない。

「人間」からすると「超常的存在」だ。

「神」とは「自然」や「概念」の擬人化、キャラクター化した存在だ。

人間の考えや行動とは無関係に働く超常的な力。


人間は古来より神に対して「祈り」を捧げ、「生贄」を捧げてきた。

それらの恩恵として山や川、海などの自然の恵みを享受したり、あるいは幸運を神からの贈り物として感謝し、不幸を神からの試練と捉えて乗り越えてきた。

つまり「神」とは「システム」であり、入力された物から出力を行う「処理」の役割。

その「処理システム」である「神」は「魂」から生まれ、その「魂」とは「 志」から生まれる。

そして「意」を排出し、その「意」を元に「魄」 が生まれる。


例えばゲームのプレイヤーキャラ。

まず「志」を決める。

つまり職業だ。

仮にファンタジーなゲームだとしよう。

そのキャラに求めるのは物理か魔法か、あるいは支援か。

様々な役割から「戦士」を選ぶ。

しかし一口に「戦士」といっても様々な戦士がいる。

攻撃と防御を両立させたオーソドックスな戦士か。

攻撃に全振りした狂戦士か。

それともパーティを守るパラディンか。

はたまた身軽な軽装戦士か。

この「どんなタイプの戦士なのか」というものが「美学」であり、「魂」。


そこでゲームにおいてプレイヤーという「超常的存在」、つまりゲームという世界の外側にいる「神」が処理を行い、キャラを生み出す。


そして生み出されたキャラは「神」に成り代わり神の考えや行動を世界に伝える「意」となる。

そしてその「意」は「神」に従って目標を決め、行動し、決められた役割をこなす「魄」となる。


神が魂から生まれる理由はこの例えで理解できただろうか。

「戦士」という大きな枠の中でさらに例に上げた5つのタイプがあるように明確な分類を指示しないと神の意を反映させる事が難しい。

だからこそ「魂魄」で先に「どんなタイプ」を求めるのかを決める。

「魄」に求めるのは「攻撃」なのか「防御」なのか「支援」なのか。

それを先に決めた上で「意志」を定める。

「物理タイプ」の職業なのか「魔法タイプ」の職業なのかを決める。


先に「目標」と「美学」を明確にした上でそれに必要な「命令」を出して「仕事」を選ぶ。

だからこそ「神」の役割は非常に重要となる。

「美学」や「目標」が曖昧な「命令」は曖昧になる。

「曖昧」な命令では「仕事」に無駄や支障が生まれる。


攻撃力が必要なら「戦士」の中の「狂戦士」を選ばなければならない。

その代わり、狂戦士はその戦闘スタイルから防御力が低い。

だから防御、あるいはダメージを想定して回復等のサポートをしなければならない。

そうすれば「次」に求める「志」や「魂」が見えてくる。

しかし「攻撃力が必要」と分かっていながら明確に「狂戦士」を選ぶのではなく、曖昧に「戦士」が欲しいと望む場合、排出されるのは「オーソドックスな戦士」だ。

適正ではない「オーソドックスな戦士」を選んだ以上、狂戦士に匹敵するほどの攻撃力にするために高級装備を買い与えるか、もしくは徹底的にレベルアップさせてステータスを高めるしかない。

「何が必要で何を捨てるか考える」という「労働」をを省いたツケは「金」か「時間」で補填する。

自分のエッセイで言うところの「愛」であり、「魄」を愛さなければ魄には捨て駒になって死んでもらうより他ない。

つまり「魄を犠牲にして死なせてでも自分の労働を抑える事を選んだ」という事。


「美学」のない者、「志」のない者でも「成功者」には成れる。

「行動」すれば能力相応の「成功」には辿りつける。

昨今の「成功するため」に「行動あるのみ」「挑戦し続けろ」という成功者のメッセージは「成功」という物に関して言えば正しい。

だが何故「挑戦し続けなければならないか」という事に注目した場合、彼ら「成功者」は美学がない、魂がないから成功していながら「夢」を叶えていない。

だから「満足」出来ないし、その道の「深み」に入る事が出来ない。


魂のない成功者は「金」や「力」というものは手に入るが「本当に自分が求めるもの」というのが手に入らないし、それを見つけてもいないし、見つけようともしていない。

無論、「先立つ物」がなければ夢も美学も何も果たせないから「金」や「力」を最初に求めるのは間違ってはいないがそれが最終目的になってしまっては「人間」としての価値はない。

「金」や「力」で得られるものは獣として生きる為の「安心」や「安全」でしかない。


当人としては「超常的存在」、「神」になりたいのに肝心の「魂」がないから「上位存在」に留まりながら「超常的存在」のように振る舞う。

「理不尽」な行為や言動をして見せつつ「金」や「力」で従わせて見せる事で自分が神になったと誤認する。

実際は「魂魄」から美学である「龍」が消え、夢もなくスタートでありリセット、無や0を指す「白」も失われた存在。

ただ災厄を振りまくだけの「鬼」でしかない。


「神」とは何か。

「神」の文字は「示偏」と「申」。

「示」とは「祭壇」であり、「申」は「猿」。

祭壇に捧げられた猿。

人間の代わりに猿が祭壇にある。

それは何を意味するか。

それは「犠牲」だ。

人間を守るため、人間に似た猿を人間の代わりに生贄にする。

取捨選択をすれば「取る」と言う行動と同時に「捨てる」という行動をする事になる。


火もまた同様。

五行説では木から火が生まれる。

では火のついた木はどうなる?

「灰」になる。

木に火をつければもう二度と実を結ぶ事はない。

動物の住処になる事も、木材として利用する事も叶わない。

「灰」は木に戻る事はなく、利用するならあくまで

「灰」として利用するしかない。


「火」という「現象」を用いるという事は「自分」という存在が自然の中に「介入」するという事。

「神」という「超常的存在」を目指す、神になるという事は「人の身を捨てる」という事。

自分の行動や発言の「責任」取るという事だ。


同じ世界、同じ空間、同じ時間を過ごしていても「親」と「子ども」は違う。

「教師」と「生徒」は違う。

「上司」と「部下」は違う。

「子ども」や「生徒」、「部下」の中で能力や見た目、性格、あるいは年齢などで「序列」が生まれる。

だかその「序列」の中に親が、教師が、上司が入っていてほいけない。

「気を使う」からだ。

人間が神に生贄を捧げるように「媚び」を売る事になる。

自分が生き残るため、自分の立場が有利になるように「序列」の中にいる「超常的存在」に媚びを売る。


男女が子どもを得た時点で「男女」から「親」へ移り変わり、「男」や「女」としての権利を捨てなければならない。

教師の道を選び、教師となった時点で如何に好ましい者、気に入らない者であろうがそうした感情を捨てて「生徒」とは一線を引かなければならない。

昇進の声がかかり、平社員から上司の道を選んだ以上、自分の夢を追いかけるよりも責任を果たすために動く必要がある。


「木」に「火」を着けたのは「自分」の選択。

「木」を使って何故「火」を着けた?

「暖」を取るため?

それは衣類を着込む事で何とかならなかったのか?

「料理」に使うため?

木材が必要だとしてもその木を全て使う必要はあったのか?少しは残せなかったのか?

「仕事」に使うため?

そもそもその仕事は必要な仕事なのか?

別のやり方があったのではないのか?


何をしようが叩かれたり文句をつけられるように何をしようが「後悔」は発生する。

だからその「後悔」を少しでも払拭するために「工夫」する。

「魂」を磨き、「意」を明確にする。

「必要最小限」の力で「最大限」力を発揮する事で「目的」を達成した時に得られる恩恵、「喜び」に「楽しかった」という感情がプラスされる。

「喜び」と「楽しさ」を得るには「怒り」の力で努力を必要とする。

「哀しみ」の力で他者に寄り添い、足並みを揃える事で連携が上手くいくし、失敗のカバーやミスのフォローも可能で被害を最小限に抑えられる。


どれだけ「工夫」しても失う物はある。

だがそれは「必要な犠牲」である。

「 割り切る」しかない。

「割り切る」だけの理由も散々悩んで考えてでた答えとして心にある。

だから犠牲を目の前にしても「もっとやりたい」「次は何をする」という次へ進む意欲的な心が生まれる。


「成功」しても「次はやりたくない」という仕事もある。

何も考えず工夫していない、「地力」と「感覚」で出来てしまった。

だから成功しても「失った物」が目に付く。

「失敗」しても「次は成功させてみせる」と願う仕事もある。

工夫したおかげでそこに道が見えた。

だから失敗しても「手に入れた物」が見える。


別に考えずとも出来てしまうならそれでも良いし、やりたくないなら仕事を辞めれば良い。

その人にあった世界がある。

だけど志が低いから、自分の望みが分からないから出来る事で報酬を与えられ、高い役職を約束された所に居座る。


「なろう系」として昔から「小説家になろう」の利用者以外からもネガティブに言われる事の多いジャンルのチート能力を授かった「俺tueee」系。

その原型はオタクが生み出した概念ではなく、「能力はあっても志が低い人間」が引き起こした現実に存在する「鬼」の所業だ。

オタクが書いたソレはまさに志の低い「成功者」の姿。

そこにオタクの思う「魂」が宿り、「紛い物の神」として「下位存在」が生きる世界に「心優しい鬼」として賞賛され、ハーレムを形成されたりする。

だからこそ俺tueee系は傍から見るとグロテスクなのだ。

親友の嫁を寝取っても「主人公だからしょうがない」と済ませる親友を「寛容な親友キャラ」として描いたり、

仲間を庇うために正論を盾に悪に立ち向かうが、逆に矛盾を突かれると弱肉強食の理論を持ち出して反論を許さない。


自分の都合の良いように考え、

自分の気に入った奴を贔屓し、

自分の意にそぐわない奴を力でねじ伏せる。

「女」であり、「陽キャラ」の典型的性質。

そこにオタクの「罪悪感」や「美学」が入っただけ。

「陽キャラ」のフリをする「陰キャラ」を作り上げる。

それは悪い、とは言わないし、結局のところ「爽快感」がないわけではない。

ただ、一歩引けばファンタジーな能力や世界観がやたら作り込まれてリアルに見えるのに対して人間関係の設定がリアルに近いはずなのにやけにファンタジーでチグハグ。


「無責任」だから「超常的力」を使って小説の中で無双するか、腕力や財力、権力の「暴力」を使って現実の中で恐怖を振りまくかの違い。

「火」は「現象」であり、「神」とは「システム」だ。

火に「善意」も「悪意」もない。

ただそれを使う人間の「魂魄」と「意志」のバランスがその現象、そのシステムを「神」にも「鬼」にも変える。


子どもが持つ夢と美学、大人が備える術と力。

夢と美学を優先させれば夢物語の幻想となる。

術と力を優先させれば成功しても空虚で飽きる。


「報酬」を得るための「工夫」は「小細工」となる。

「後悔」を受け入れるために「工夫」する事で道を歩むために選ぶ「地盤」となる。

「小細工」から生まれた「弁」は耳触りの良い綺麗な言葉であるが無責任だから曖昧で何をすべきか分からない。

「地盤」となるものから生まれた「意」は虚飾がなく、明確で分かりやすい。

「神」となり、自分が「責任を負う覚悟」、「 犠牲を受け入れる覚悟」を持てば自ずと言葉を選んで相手に勘違いさせるような言葉を排除する。

そして「認識」の確認も徹底する。


いざとなればフォローに入るのは「神」である自分。

「リーダー」である自分。

行動するのは「皆」だか責任をとるのは「自分」だから「成功」だけではなく「失敗」した時も考える。

ミスをした時に自分がカバーを入るからその時にどう動いて貰うか。

もし自分が動けなかった状況ならどうするべきか。

その対処まで考える。


勝つための「一手先」、「二手先」を読むのは自分を上回る才能や能力の差でいつかは負ける。

汎ゆる局面で「被害」を抑え、どうすれば「 駒」が生きるか。

例え特攻して勝ったとしても「次」は通用しない。

対策を立てられてしまう。

そして「次」の機会に自分に従う「駒」、「特攻」の命令に従う駒はいない。

「志」を持った「士」は「志の低い神」の横暴には耐えられない。

だから「士」は「志」の「心」を消して冷徹に「火」を消す「水」となる。

「自分達を裏切った神」と「負ける事」を天秤にかける。

「親」「教師」「上司」は「システム」に徹し、孤独に、あるいは同じ「超常的存在」同士で傷を慰め、語らうしかない。

「犠牲」払うからこそ「神」が宿る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ