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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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五神「魂」についての解釈

志とは「職業」、つまりプロ。

「術」のスペシャリスト。

「水」を運ぶための「容器」を作り、

「効率化」のために「運搬」のための「道路」を作り、

最終的に「水路」を引いて「自動化」する。


「容器」とは水を運ぶ「自分」のために作るもの。

「道路」とは「水を運ぶ人」のために作るもの。

「水路」とは「全ての人」のために作るもの。

それらの「比喩」である。


「術」は「自分のため」である限り、「自分の能力」以上の事は出来ない。

「水を運ぶ人」という「仲間」のために考える事で「術」は発展する。

「全ての人」という「人の区別」を無くして考えた時に「志」は完成を迎える。


その「志」から生まれる「魂」。

「水」から生まれる「木」。

「術」から生まれる「道」。


五行説における「木」とは唯一、「成長」する。

他の「水」「火」「土」「金」は「増量」したり、あるいは「巨大化」したりしても「成長」する事はない。

「芽」が「苗」となり、「若木」となり「実」をつけ始め、「成木」となり、「大樹」となり、やがて「老木」から「朽木」となる。

「木」という性質が五行説の中で唯一「成長」とそれに伴って「姿」と「役割」を変える。


「実」をつけて動物達に「恵み」を与える。

「巨木」となる事で動物達の「住処」となる。

「折枝」は「火」をつけるための「薪」となる。


そして五神における「魂」。

学校や会社、コミュニティの理念を語る時に「◯◯魂」という名称が作られる。

「術」である「志」に対する「美学」であり、「道」。

それが「魂」。


「志」は「成功」や「勝利」が目的である。

だからこそ「術」が「効率化」されて「自動化」する。

だが「魂」は「美学」であり「成長」が目的。

「効率化」よりも「礼儀」を重視する。

「自動化」よりも「共生」を重視する。


「水」を運搬するために「志」に重きをおいて考えると「運搬路」や「水路」を張り巡らせるようにする。

当然だが地盤が、「土」が弱くなる。

また、運搬路や水路のために「人の住む場所」が制限される。

「志」を重視しすぎれば「何のために水を運ぶのか」という目的を忘れてしまう。


以前からエッセイで書いている例えとして「田舎」の「文化」や「教え」というのはかつては「豊かに暮らすため」に発展した尊いものだ。

しかしその文化や教えを「残す」という事を重視しすぎた結果「窮屈」になり、嫌気が差した人間が田舎から出ていく。

「厳しさ」には「理由」があり、「緩さ」にも「理由」がある。

「自分が良ければ良い」というなら別に何もしなくていいが「他人」に対して「行動の制限」、あるいは「行動させる」のが目的となっているのであればそれを「言語化」しないのは「甘え」である。

だから「寂れる」。


「水路」や「道路」にしても「人のために作ったもの」であるのだから「人」がいなくなった時点でその「必要性」についての正当化は成り立たない。

人が少なくなった過疎地域に全盛期と同様の設備や施設をおいてどうする?

悲しい事ではあるが人が少なくなり、かといって人を呼び寄せるための活力も資源もない。

そんな地域にエネルギーを注ぐのは「無駄」である。

エネルギーを注ぐだけの「価値」があると「主張」しなければならない。

そのためには「知識」と「経験」に基づいた「正当性」を持った理由が必要となる。

その知識と経験に裏付けされ、正当性があって明確で分かりやすい主張を「伝える」という事が「魂」だ。


「意志」はその二文字の漢字の共通点として「心」があった。

一方で今回のテーマにしている「魂」は金の五神である「魄」と結びつき、「魂魄」となる。

これもまた2つの漢字に共通点がある「鬼」だ。

鬼は「グロテスクな頭部」の象形、そして「死者」、「遺体」などを指す。

「魂」にしても「魄」にしてもどちらも「死」から生まれる「霊」だ。


「魄」に関しては以前のエッセイで説明したが「死後、地に留まる霊」。

地縛霊とかの所謂「悪霊」の類ではある。

しかし自分は見方を変えて「果たせなかった目標、夢」と解釈している。

「魄」の本質とは「夢」。

「魄」の内、「鬼」を消すと「白」が現れる。

「白」というものには単に「色」としての意味合いの他に「純白」という意味に使われるように「純粋」という意味合いがある。

他にも「白紙」など「無」の意味合いもある。

「無」とは「リセット」、あるいは「スタート」。

そうした意味がある。


では「魄」に対して「魂」とは何か、というと「死後、天に昇る霊」。

「魄」と「魂」の違い。

「鬼」が「魂」と「魄」、両方の字の「死」を示している。

「白」が「地に留まる」をという部分を示している。

では「魂」の「云」の部分は「天に昇る」という意味が含まれている。


「云」には「云う」、つまり「言葉にして相手に伝える」という意味合いがある。

そもそもが「云」の字そのものが「口の動く様子」を表した象形だ。

しかし「死人に口なし」というように「魂」は生者に伝える事はできない。

「魂」の漢字の成り立つを調べると魂における「云」の部分は「雲が昇り立つ」というものの象形らしい。


なら何故「魂」には「云」が使われるのか。

単に「雲」を示すのであれば「雲」の「云」よりも「雨かんむり」と組み合わせた方が余程の「雲」を示している。

だから「魂」という漢字において「云」とは「雲」を示しているというのは正解ではあるが完全ではない。

正確には「魂」における「云」の文字とは「雲」の字の中にある「云」の部分に由来している。


「雲」の中の「云」とは「口の動く様子」の象形ではなく、「龍」の象形である。

古来、中国では「雲の中に龍がいる」と考えられてきた。

その「龍」が雨を降らせ、雷を落とす。

その「龍」が「魂」における「天に昇る霊」。

「昇龍」だ。


その「魂」である「昇龍」が「神」となる。

「神」から「意」が発せられる。

天に昇った龍が「神」の力を得て降りてくる

「昇龍」が「降龍」となり、「無の存在」に「志」を示す。

まるで某JRPG、タイトルを出してしまえばドラゴンクエストのような意味合いだ。

同時に「意」と「魂」が本質的に「龍」である、と自分は解釈している。


「魂」とは神という上位の存在に昇る龍、「昇龍」。

「意」とは上位の存在から下位の存在に対する「命令」であり、それが「降龍」。

「昇龍」と「降龍」。

本質的には違わない。

違いは「天」に昇った事があるか否か。

「神」となった事があるか否か。

つまり「実績」の違い。

それは「夢をかなえたかどうか」という事。


「夢を叶える」とはどういう事か。

「志」の「術」を持って「成功した」のとは違う。

だから「魂」と「魄」が組み合わさり、「魂魄」となる。

「術」の「成功」ではなく、「道」を行き「成長」する。

「美学」を保ったまま「成功」する。


何故「子ども」はフィクションの中のヒーローやヒロインに憧れるのか。

「卑怯な真似」をしないから。

「安易な成功」ではなく「困難な成長」の道を選ぶから。


そんな事は現実的ではない。

大人になれば妥協するのが当たり前。

それはフィクションだから描かれる幻想だ。


そうした「夢」を壊す大人に子どもは憧れない。

美学を持ち続けようとする大人。

卑怯な真似を正当化せず誠実で正道を歩む大人。

困難を努力によって押し退け、成功を模索する大人。

そうした大人に子どもはフィクションの中のヒーローを重ね、憧れる。


「夢」を叶えるというのは必ずしも「決められた職業」である必要はない。

「人を救うヒーロー」は「救急隊員」も「医者」も「警察」でもなれる。

無論、直接的に人を助けるような物でなくても「農家」でも作物を作る事で人を救う。

「大工」でも家を作る事で人を救う。

ただ「人を救う術」が違うだけだ。


「道」である以上、別の道と繋がる。

直接だろうが間接的だろうが人を救うために「志」はあり、「術」がある。

その「術」の目的が「自分が良ければ良い」ではなく、「皆のために」と完成された「志」であるからこそ、その「術」を学びたいと子どもは思う。

その「志」を自分も持ちたい。

その志が、術が如何にずはらしいか。

思わず誰かに伝えたくなるほどの「誇らしさ」。

「魂」が宿る。

心に「龍」が宿る。

「神」への「道」が広がる。

「夢」を叶えるための「道」が作られる。


「龍」とは想像上の動物だ。

しかし、あれほど完成された動物もいない。

現実にはいないのに、巨大で、美しく、強い。

美学もまた物質として存在しない。

ただ魂に刻まれている。

天に昇る強く美しい龍を描くように美学を描く。

どうすれば美しくなれるか。

どうすれば強くなれるか。

どうすれば成長できるか。


子どもは「木」だ。

「水」のように流されるのではなく、天に向かって成長する。

いずれ「実」をつけるため、夢を叶えるために情熱を燃やす。

そのために大人が「意」を示し、子どもの「魂」を育てる。

「夢」を育て、「美学」を伝える。

そのために必要な「術」を示す。


「最古の職業」である「農家」は植物に触れている。

だから「苗木」や「若木」の内に「実」をつけさせてその木を収穫のアテにすればその若木は実に養分を取られて成長するのが困難になるのは知っている筈なのだ。

しかしそうした「農家」が志を子どもに押し付ける。

男だから。

女だから。

長男だから。

長女だから。

農家に生まれたから。

「◯◯だから」

だから、なんだ?

「だからしょうがない」と続くのか?

「だから我慢しろ」と続くのか?

違う。

「子どもだから大人の自分がしっかり道を示さなければ」

自分が「魂」を見せない事には子どもの「魄」に結びつかない。

そうした「魂」のない親が、農家が嫌で子ども達はそこから去り、田舎は寂れる。


「自分のための術」として子どもを作り、術を発動させるための媒介としての役割を子どもに求める。

だから媒介としての術を発動させるだけの能力しか与えられず、人を育てられない。

「仲間のための術」として自分の仲間である職業、あるいは地域のための人材として子どもを作り、その役割を求める時、教育を工夫する。


子どもの望みは「普通」になりたいわけではない。

ただ「普通の道」を歩いて「夢」を叶えたい。

「普通」とは「術」ではない。

「普通」とは「道」。

卑怯な真似をしたくない。

正直に生きたい。

優しい人でありたい。

強くなりたい。

勇気を持ちたい。

「特別」な事じゃない、極めて「普通」の事。

だけどこれに勝る「美学」は恐らくない。

これに勝る「魂」もない。


だけど「成功者」は「術」の正当化のために「普通」の事よりも「特別な道」を薦めてくる。

若く未熟な魂は揺れる。

欲を揺さぶられ、コンプレックスを刺激され、道を外される。

過剰な水を与えれば木が腐るように「術」や「道具」に呑まれて「道」と「美学」を見失う。

だから「魂」だけではないけない。

「魄」を、「夢」をしっかりおいておく。

「金」の力で「水」に冒されて腐った「木」を切り落とす。

「金」が「木」を殺し、そして助ける。

「魂魄」を整える。


夢を叶えるための美学であり、夢に向かうための道。

「道」は確かに大事だが、「道」だけでは「術」に喰われる。

「成長」は「成功」に比べて「魅力」がない。

だが「価値」がある。

魅力と価値を合わせる事で自他と共に認める「神」となる。



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