五神「志」についての解釈
五行説における「水」の中に五神の「志」が含まれる。
だから「志」は「水」の性質に似ている。
志は土の「意」と組み合わせて「意志」となる。
この2つは同じように人間の思いや精神を表す共通点を持つが意味合いとしては違いがある。
それはそれぞれの「漢字」としても同様に表されており、「意」と「志」の両方の部首に「心」がある。
部首の名称としては「こころ」、あるいは「したごころ」。
これが2つの漢字の共通点を示すのであれば漢字の意味合いの違いを生むのはそれ以外の部分。
「意」に含まれる「音」、「志」に含まれる「士」である。
「志」とは「士」の性質を表したもの。
ではこの「士」とは何か。
この「士」は元は「侍」を示した物、あるいは「兵士」。
そこから転じて「職業」を指す。
志とは「職業の在り方」である。
自分が「術と道」で書いた「術だけを求めて来た者」という存在が一般的に「志が低い」という状態に当てはめた。
そしてその「志が低い状態」が五行説、五神でいう所の「志はあるが魂がない状態」。
「士」とは「職業」。
つまり「プロフェッショナル」だ。
プロの役割は「責任を持って仕事をして依頼を果たす」という事。
「最古」の仕事は有名な所では「農家」や「売春婦」、「助産師」辺りか。
いずれも人が生きていく為に「必要」だから生まれた仕事だ。
そうした「生きていくために必要」だから生まれた原初の仕事から「便利に生きる為」に求められる仕事、例えば料理人や大工など「専門的知識」が求められるようになった。
それに伴い、最古の仕事である農家等も「専門的知識」を求められるようになる。
そして今ではそうした「専門的知識」が前提て成り立つ「仕事」ばかりであり、その「便利さ」を求めて生まれた「仕事」、「本来人間が生きる上で必要ではなかった仕事」無しでは社会は成り立たなくなった。
生き物には「水」が必要だ。
「飲料」としての「水」。
これは「獣」として抗いようがない。
だが人間は「清潔に保つため」に水を使う。
農家などは作物を育てるために水を使う。
「飲料」としての水を飲むためだけなら「川」にいって飲めば良い。
個人差があるとはいえ、大量に飲むといってもたかが知れている。
「仕事」に使うから「術」を開発する必要があり、その術が発展するために「道」が必要となる。
「水の道」、「水路」が必要だ。
山から流れる「川」は人間だけではない、「獣」も使う。
「利便性」を求めて人間が作ったものではない。
人間にとって最大の「上司」である「地球」が生み出した「水の道」だ。
その「川」から人間は利便性を求めて「水路」を作った。
しかしそれは「結果」。
その過程には「水を運ぶための容器」が作り出された筈だ。
そして「容器に入れた水を運ぶために歩きやすい道」が生まれる。
そして最終的に「自動的に人里に水を届けてくれる水路」が生まれる。
やっている事は最終的に自動化する事まで含めて現代の「作業の効率化」と変わらない。
そしてこの「水路」はあくまで「人間」が求めたから存在するわけで、そこに「人間」が居なくなれば水路は閉鎖する。
例え放置したとしてもメンテナンスする人が居なくなれば水路にゴミが堆積し、やがて塞がれる。
本来そこには川が無かったのだから元に戻るだけ。
「最後」に生まれた「水路」から「最初」に消えていく。
「2番目」に生まれた「水を運搬する道」も水路が消えた後も暫くは使われるだろうが、水路がなくなったという事は「人」がいないという事に他ならず、やがて「獣道」となり、最終的に獣にすら見向きもされなくなる。
「最初」に作った「水を運ぶ容器」だけが場所を変えて壊れるまで、「最後」まで使われる。
「術」を求めて「成功」をしてきた人間が会社などのコミュニティにおいて「長く居座る」という事がどういう事をもたらすか大体分かる。
人がいないのに「水路」を維持するためだけにひたすらメンテナンスの仕事をする。
結果として「川」の流域を変化させるが人がいなくて使われないから水が溜まり、やがて「沼」を作る。
「土等と混ざり、濁った水」が溜まった「沼」。
「効率化」を求めた人間が自分の「術」の正当性を誇るために「無駄」と「無価値」を生み出す。
「自分さえよければ良い」という考え、「美学」、「魂」が「自分のやっている事は正しい」
と思うようになり「神」を生む。
「傲慢な邪神」の類だ。
そしてその邪神は「部下」に「自分の気分を良くするための命令」を発する。
そのうち「部下」は「やってられない」と去っていき、次第に邪神の「志」が非難される。
「水路を作る人間」そのものを非難する。
その邪神が邪神となる前、まだ「志」で動いていた頃に作った水路の恩恵を受けていた、その土地に住んでいた人、その近隣住民も「非難される対象」となる。
「レッテル」を貼られる。
「使用する側」は飲む事かできる綺麗な「水」であれば手段は問わない。
「容器にいれて陸路を運んだ水」であろうが「水路から送られてきた水」だろうが構わない。
「沼」の「汚い水」を「濾過」して綺麗にした「水」でも構わない。
極端な話、「盗んできた水」であっても「水」は「水」だ。
「安全」であれば、そして使いやすい「利便性」、そして「低価格」であればそれを使う。
ただ言えるのは「有り難い」だけだ。
だから「信用」してその「水」を貰う。
「信頼」してその「水」を今後も使う。
しかし「泥棒の片棒」を担ぎたくはない。
「ブラック企業」をのさばらせたくはない。
「加害者」にはなりたくない。
人間を含めた動物という生き物は「 犠牲」無しには生きられない。
植物を喰らい、自分より小さい物、弱い物を喰らい、そして自分もやがて喰われる。
犠牲の上に成り立ち、その犠牲に対する「危険」や「罪悪感」、そして「 愛情の消費」といった「苦労」の肩代わりをするのが「士」であり、その心が「志」であり、「プロ」だ。
「綺麗な水」を届けるために「容器」を作り、「運搬用の道」を作り、「水路」を作る。
「綺麗な水」という「喜び」がある。
「容器」で運ぶ「怒り」がある。
その「怒り」 に寄り添う「哀しみ」が「道」を作る。
そして「楽」をするために「水路」を作る。
「喜怒哀楽」がプロに備わった時、「魂」が生まれ、そして「神」となる。
そうした「苦労」をするからこそ「神」というスピリチュアル的な「五神」の思想の中で最も「現実的」な側面を持っている。
だが「現実的」であればいいわけではない。
現実的というのは「自分さえ良ければ良い」という思想の「温床」になりかねない。
「現実的」に考えれば水路を引かず、「水場」の近くに住居を構えれば良い。
それをせずに遠くに住むのは「自己責任」という考えも出来るからだ。
だがそうやって責められるのはあくまで「水」に限った話だ。
何のために「水場」より遠くに住むのか。
「水以外の糧」を得るためだ。
「山菜」や「動物の肉」、そうした資源にアクセスしやすい場所を選んだ結果水場より遠くなった。
水ならある程度日持ちするが、動物の肉などはすぐに処理をして適した保管方法をしなければならない。
そしてそうした人が山菜や肉を持ち込み、「水場に住む人」に提供してくれるから「水場に住む」という選択が出来る。
五行説という概念が生まれた当時、車も無ければ浄水装置、ダムなんかも勿論ない。
「水を運ぶ」
様々な道具、方法が確立した今の時代で考えれば「ただそれだけの作業」で「仕事」と呼ぶ事、「志」に当てはめる事すらおこがましい。
しかし生きる上で「有り難い」事であるというのが昔は「貴族」も「民」も共通の認識だからこそ「水」に「志」が当てはまるわけだ。
ここまで書いたのが自分なりの「水」と「志」の関係の解釈だ。
「志」とは「苦労」して当たり前。
「術」とはその過程、「効率化」をするための手段に過ぎない。
何のために効率化するのか。
「子ども」を育てるためだ。
子どもを育てる「母親」の負担を軽減させる意味もある。
そして「未熟」な子どもに分かりやすく、安全に、ハードルを下げて「経験」を積ませるため。
「自分さえ使えれば良い術」というのはその術を使用する「下限」が「自分」になる。
しかし「他人にも使ってもらいたい術」となるとその「下限」は低くしなければならない。
「自分さえ使えれば良い術」は改めて言語化したり、手順を考えなくても良いからさほど苦労しない。
だが「他人が使って欲しい」となると説明や手順を考え、使った際に生じた責任を負う必要がある。
「他人が使っても良いが責任は負いません」という場合もあるがそれは余程の必要性がない限り人は使うのを止める。
「責任を負う」からその術を使ってもらえる。
「失敗した時」 を考える。
「失敗する事が前提」だから備える。
それが陰キャラが中々動き出せない理由。
だがその「失敗」を想定する事自体は悪い事ではない。
一方で陽キャラが簡単に動き出せるのは「失敗した時」を考えないから。
「失敗しても何とかなる」というポジティブさは魅力となるが、実際に失敗した時に逃げだす者が殆どだ。
陽キャラはその腕力や権力、財力に物を言わせてなかった事にする。
女は男に責任を負わせる。
だからこそ「両方」の性質が必要となる。
「失敗した時」を考えて備える。
「失敗してもどうにかなる」と考え、一歩目をだす。
「陰キャラ」「男」の性質を否定してはいけない。
「陽キャラ」「女」の性質を否定してはいけない。
「陰キャラ」である事、「男」である事を理由に正当化してはいけない。
「陽キャラ」である事、「女」である事を理由に正当化してはいけない。
両方の性質を備えた「大人」だからこそ「職業」に就ける。
「大人」だからこそ自分の「職業」を語れる。
「職業」を語るためにはその全容を知る必要がある。
その全容を知る事が「志」となる。
知れば知るほど結局全ては「代替え」が効くもので「効率化」の果てに「自動化」されて消滅する。
例え最古の職業である農家でもそれは同じ。
どんどん作業が効率化され、機械化、自動化が進む。
「無くならない職業」も「誇りある職業」も存在しない。
だが「無くしてはいけない志」がある。
「誇るべき志」がある。
それは「その職業に就いている人達の感情」ではなく「職業が担っている誰かの肩代わりをしている苦労」。
「罪悪感」を感じていればそれは自然に感じるものであり、それのおかげで「自分の選んだ道以外にいる人」も肯定できるし、お互いに肯定しなければ「自分」という存在を肯定して貰えない事を理解している。
しかし「術」で「成功」をしてきた人間は「失敗」を想定できない。
そして現代社会において「成功者」が持て囃される。
「責任」や「失敗」に目を向けない。
「女」と「陽キャラ」しか生きられない世界には「志」などない。
「男」と「陰キャラ」は何度も「責任」と「罪悪感」持つ事を口にしている。
その度に「弱い奴の自己責任」と切り捨ててきた。
「自分さえ良ければ良い」という考えは弱肉強食に倣った「現実的」な考えではあるが「自分」が歩んできた「道」を誰にも肯定して貰えない。
あくまでも肯定してもらえるのは「結果」とその「結果」に至るための「術」。
自分が歩んできた「道」を肯定してくれる候補となりえた弱者を切り捨てたのは他でもない自分。
「弱者」を育てなかった、切り捨てた現代社会と通じる者がある。
「自分さえ良ければ良い」という「意」。
その「意」が「土」となり、「水」を汚し、「志」を穢す。




