五行説と五神
自分のエッセイでは割と最初の方から「陰陽道」に沿った「陰」と「陽」に分けた考え方を使っている。
男と女、陰キャラと陽キャラ。
自分は様々な事を陰陽に分ける事によって選択肢を「3つ」、あるいは「4つ」にしてきた。
陰陽道的に言えば「陰」と「陽」、そして陰陽が揃った「太極」。
罪悪感などのエッセイではそれに加えて消え去る選択肢である「無」という選択肢も出した。
陰陽道とははるか昔に中国から日本に伝わってきた思想だが、同じように中国から伝わった有名な思想として「五行説」、「五行思想」と呼ばれるものがある。
自分は「小説家になろう」以外の場所で漫画の考察をしているのだが、その考察にするに辺りこの五行説を使っている。
陰陽道は世界を陰と陽に分ける考え方であるが五行説と言えば水、木、火、土、金の性質を万物に当てはめる考え方だ。
なろう系の小説で描かれる事の多いファンタジーは中世ヨーロッパ風として描かれる事が多いのが定番だ。
とはいえ昔からアニメや漫画での四神と言われる青龍、朱雀、白虎、玄武などは有名だし、別の元素から新しく元素を生み出す「相生」や別の元素を打ち消す「相剋」などの概念はファンタジーの能力にもたまに使われる概念であり、詳細は知らずとも名称くらいは聞いた事があるのではないか。
有名な「相生」は
水が木を生み、木が火を生み、火が土を生み、土が金を生み、金が水を生み…と繋がっていく。
そして「相剋」は
水が火を消し、木は土を殺し、火は金を溶かし、土は水を汚し、金は木を斬る。
自分も詳しい、と言えるほどではなく陰陽道にしても五行説にしてもニワカ知識でしかないが五行説はその対象が「万物」というだけあって様々な考え方がある。
五方という方角の分け方。東西南北と中央の5つの方角だ。
五味、という「味覚」を酸味、塩味、甘味、辛味、苦味の分け方など様々だ。
コレを五行説の基本となる水や木に置き換えたり、別の五色という色合いの分け方と組み合わせる事でバランスを整える考え方もある。
また五臓という風に臓器を5つの分類に分ける事で医療に役立てたりする。
このように五行説と一口に色々ある訳だがその中で自分は漫画の考察をするに辺り「五神」という概念に注目し、それを元に漫画の考察をしている。
五神とは人の精神的なものの概念を五行説に表した物でのあり、霊の類とも繋がりがある。
5つに分けられた要素は「魂」「神」「意」「魄」「志」でとなっている。
そして基本となる五行説に当てはめると
魂→木
神→火
意→土
魄→金
志→水
このようになっている。
この「五神」もまた五行説の相生や相剋の関係を持つ他に「組」となる性質がある。
それは「魂」と「魄」の組み合わせで生まれる「魂魄」。
もう一つは「意」と「志」の組み合わせで生まれる「意志」。
五神の中で「神」だけが組み合わせがないのだが「五神」と括られた概念である通り「神」とは五神においては「リーダー格」の性質を持つ。
さてここで前回の「術と道」について語る中で「術に偏って生きてきた者」について「志が低い」と表した。
コレというのは五神における「志」から「魂」が生まれていないという事。
「志の高い」という状態というのは「魂がある」という状態に他ならない。
では「志が高い」、「魂がある」という状態は何を指すのかと言えば「道」を持つという事。
この場合「道」とはルールやマナー、制限を指す。
見方を変えればそれは煩わしいだけの「枷」なのだが、それは「魂」として備わった人にとっては「美学」だ。
例えばプロ野球選手になる、という志があったとしてもそれだけでは低い。
無論、プロ野球選手という職業自体が限られた野球のエリート達だけが成る事のできる職業であるため、そもそもが目標としては高いわけだが。
そのうえで「志が高い」、「魂がある」という状態というのは例えば「ホームラン王になる」「最多勝投手になる」と言ったさらに細かく高い目標だ。
確かにプロ野球選手になるのは一般人からすると「凄い」わけだが同じプロ野球選手でも一軍と二軍があり、一軍の中でもレギュラーとベンチがいて、レギュラーの中には更に打者としてのチームの「主軸」と投手としての「エース」がいる。
そうした主軸やエースになるには余程の才能がない限りは努力が必要となり、努力するためには自分の行動を縛り、集中させるための「枷」、「美学」が必要となる。
来たボールを打って打球が守備抜ければヒットになる。
だがホームランを打つには基礎的なパワーは勿論だが甘い球を見定める選球眼、その他にも素人にはよく分からないが単にヒットを打つよりもより高度で専門的な知識や技術が必要となる。
それを習得したいのは皆同じであり、そして時間も皆に等しく一日は24時間しかない。
だから遊びや快楽を制限してトレーニングに励む枷を己に課し、それを美学として魂に刻み込む。
そして「志」と「魂」が備わった人間は「神」となる。
というとオカルトチックではあるが別にオカルトではない。
特定の場面、例えば「チャンスに強い」だとか「逆境を跳ね除ける」という事を「奇跡」「ミラクル」だとかいうわけだが別の言い方をするなら「神がかり的」と表される事もある。
「チャンス」や「ピンチ」の場面、「チームが勝つか負けるか」の重大な局面。
例えば打順なら同じレギュラーでも8番や9番ならとりあえず「繋げれば良い」「フォアボールでも良いからでろ」というレベルのものが求められる。
しかし打順が上位打線、3番、4番、5番当たりなら「何とか打って逆転してくれ」
「ここで決めてくれ」
と「期待」が高まる。
「責任」が問われる場面だ。
つまり「神」とはそうした重大な局面でも動じずに「志」と「魂」、つまり「美学を持って術を行使する」という事。
自分の持つ力を状況の緊迫感に呑まれる事なく最大限発揮出来る能力、「自信」が備わった者を指す。
そして「神」から「意」が生まれる。
「意」とはざっくり言えば「言葉の意味」だ。
有名アスリートにしても、あるいは偉い学者、偉人などは「名言」を残している。
とはいえ言葉自体は「単語」と「単語」の組み合わせでしかなく、誰が言ってもそれは同じ意味でしかない。
だが「神がかった人」が言うと同じ言葉でもまるで異なる。
所謂「深い」という事だ。
その「言葉の深さ」というのは「神がかった人」が成し遂げた実践もそうだが、「神がかった人」というのは別に名言を残そうとして名言を言っているわけではない。
自分にとって当たり前の「志」と「魂」を言葉にしているだけ。
根本的な所で「深さ」を作り上げているのは「言葉を受け取った人」自身である。
その「言葉を受け取った人」、主に「一般人」が多いが「神がかった人」を前にして「信徒」となる。
「盲信」してただその言葉に従っているだけなら何も生み出さない。
しかし、その「一般人自身」の歩んできた道、「価値観」で独自の解釈をする事で神からの言葉の「一般的な解釈」の底が抜け、更に深くなる。
そうやって更に深みにたどり着くと人は「何か」を見つける。
その何かを「実現したい」と思う。
実現して神より啓示を受けた自分の解釈が「正しい」と証明したい。
その証明したい、実現したい「何か」というそれが「魄」だ。
この魄という概念は魂や志、意、神と異なりあまり聞かない言葉だが霊魂の類の概念で言えば「死後、地に留まる霊」を指す。
地に留まる霊、とは地縛霊などの所謂「悪霊」だ。
悪霊とは「後悔」や「恨み」そうしたネガティブな物だが表現を変えれら「果たせなかった目標」、つまり更に解釈を変えれば「夢」なのだ。
そしてその「夢」を実現するために「志」を持つ。
魄と魂の間に志という橋がかかり、魂と魄が結びついて「魂魄」となる。
そして美学と夢が結びついて「神」が生まれる。
夢を神に変えるためには夢を生み出すきっかけとなる意と夢を実現するための志、「意志」が必要となる。
とりあえず基本的な一連の流れとなる五行説、自分が考察などで使用する自分なりの五神の概念を記してみたわけだが、ここから分かる通り「神」でループの分け目が「実際に行動している者」と「行動を受け取った者」に分かれている。
これは何もアスリートや偉人だけの話ではなく「親子」などの「上下関係」に相当する。
親は子どもにとっては「神」であり、神は「意」を発しなければならない。
その「意」を解釈した子どもや若者達が「魄」として「志」を高め、「魂」を持ち、新たな「神」となる。
「意」とは「言葉」だったり、あるいは「作品」でも良いがそれを残さないなら「神」は継承されない。
「意志」は引き継がれない。
自分の意志を残したいのであれば「魂魄」と「意志」をまとめた「神」となるしかない。
受け止め、考え、行動し、発する。
例え「女」であろうが、「強者」であろうが自分の夢や思い、何らかの「意志」を残したいのであれば「夢を叶えるために術を学び、美学を持った上で責任を果たし伝えていく」しかないのである。
自分の語彙力とか力不足とはいえ、漫画の考察の記事にしたりしても多分ピンと来てない人多いんだよな。




