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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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術と道 その2

ネットを見れば「昨今のテレビはつまらない」と言われる。

その理由が「昔のテレビは過激であったのに比べて今のテレビはコンプライアンス等に縛られている」と言ったようなものな多く見られる。

また、最近ではアメリカの大統領によって「性別は男女の2つのみ」などとはっきり言われた事によって少しは落ち着いたもののポリコレによる様々な人種差別、性別差別等に対しての過剰な配慮の押し付けなどがある。


前回の話で「術」と「道」の違いについての自分の解釈を語った。

今回のエッセイの冒頭にしろ、前回の冒頭で例えに出した仕事や恋愛にしろ、ルールやマナーを強いる「道の乱立」といえるようなものだ。

では「道」が悪いのか、というとそうではない。

ならば「術」が悪いのか、というのも違う。

エッセイを書き始めた頃から主張しているが物事の最小単位は3つ。

必ず3つに分ける事ができる。

術と道が対等な存在としてそこに存在するなら、最低限そこにもう一つ要素がある。

その要素、この場合は過剰なルールやマナーを他人に強いて自由がなくなりつまらなくなる原因。

悪いのはあくまでもその道を作り、その術を使う「人間」自身である。


人間が悪い、というのは大前提として何故「道の乱立」というような事態になるのか、と言えば本来なら「道」を通ってたどり着く、目的地となる「術」が逆にスタートラインとなるからだ。


前回でも語ったが「術」の目的とは「成功」であり、「道」の目的とは「成長」である。

だから「仕事」を通して「成長」はできる。

「恋愛」を通して「成長」も出来る。

だから武道などと同じように「仕事道」、「恋愛道」もできない訳ではない。

しかし仕事にしろ、恋愛にしろ、本来は生きるため「術」であり、種を残すための「術」である。

しかも仕事や恋愛というのは獣に例えれば「失敗」が許されない類の分野だ。


狩りを失敗すれば飢え死にする。

番を見つけられなければ自分の遺伝子は残せない。

仕事や恋愛を通して成長するというのは「失敗してもどうにかなる」というある程度の「余裕」があって始めて「道」として成立する極めて難しい「道」だ。

「失敗できない性質」の物を「道」にするのであればその「師範」となるべき存在は経験豊富で「弟子」となる存在の「あらゆる失敗」や「様々な疑問」にフォローできるように深い知識と様々な経験、そして弟子の失敗を受け止める情け、「慈悲深さ」が必要となる。


無論、そうした道を説く「師範」としての条件を満たす人もいる。

だがそうした人は「仕事道」や「恋愛道」を無理強いしない。

「道」は「道」である以上、「他の道」と繋がっている事を理解しているからだ。

「武道」によって身につけた経験や考え方、が仕事や恋愛に応用が出来る。

勿論、その逆も同様で仕事で学んだ心構えなどの「道」は他の物にも活かせる。


であればあとは「武道」では身に付けられなかった「仕事の術」や「恋愛の術」を教えればそれでいい。

スタートラインが異なるのだから別の道を知る人間に無理やり「仕事の道」や「恋愛の道」を教える必要はない。

別の道を持つ者に対しては「最低限」の「術」と「道」を教えさえすれば良く、

そうした道を身に着けて来なかった者に対して一から「道」を説き、「術」を示す。

そうすれば「道の乱立」は起こらない。


逆に言えは「道の乱立」を起こす人物というのは「術」に偏った生き方をしてきた人間だ。

たくさんの「成功」をしてきたが成功はただの結果に過ぎない。

大抵の事柄には「相手」がいたり、「課題」がある上で「審判」となる存在がいる。

あくまで相対的な物である以上、極端な話、相手が弱いなら、課題が簡単な物なら成功し続けられる。

だからその成功の数に見合った「成長」はしていない。

つまりスペックに見合った「努力」、「高い能力をさらに高める」ための努力をしていない。

宝の持ち腐れ。

つまりは「才能」に対して「志」が低い人物が「道の乱立」を引き起こす。


自分もソレに当てはまる。

子どもの頃から我慢をしてきた。

その我慢を自分で納得するために色々理由をつけてきた。

それは世間的に言えば「処世術」であり、その習得に自分は成功した。

それによって我慢をする事への抵抗が減り、余計に我慢をするという選択を取りやすくなった。


だから「術」を求めて生きた人間、「成功」してきた人間の考える事は分かる。

自分の「成功」を誰かに「認めて欲しい」。

その手段が「道を説く」という事。

自分の後に続く者達のための「道」ではない。

あくまでも自分の「成功」を誰かに認めさせる為の「術」。

「道の真似事」でしかない。


結局、「術」にしても「道の真似事」にしても共通点となるのは「近道」をする事だ。

少ない労力で、短い時間で、あるいはコストを抑えて。

だけどそれは大抵落とし穴がある。

正道を通らない以上、安全は保証されない。

だから「自己責任」である。


自己責任で自らが選んだ師匠に「弟子入り」するならそれも良い。

だが「道の乱立」が行われているように感じる現在は「自分が選んだ訳では無い」にも関わらず「自己責任」を求められるから「不満」が出るし「耐える」という事が出来ない。


好きで努力したいと思ったわけではない。

だから支えて欲しい。

好きで失敗したわけじゃない。

だから慰めて欲しい

好きでこんな顔や身体に生まれたわけじゃない。

だから受け入れて欲しい。

そして「成功」したら「自由」にしてくれ。


だか解放されない。

「次」がやってくる。

自分は「成功」した筈。

自分は「勝った」筈。

なのに自由になれない。

気分も晴れない。

本当に自分は「成功」したのか?「勝利」したのか?


自分は「失敗した」と自覚したからある意味で解放された。

だが世間的に「成功」してると言われる人間が若者に「自分と同じ道」を強いるのは若者のためではなく、「自分の成功」を確かめたいから。

「確かめる術」として「道」を説いているに過ぎない。

だから「道」を作り続けてそれを誰かに肯定させる必要がある。


他人から命令されて歩いた道だ。

それを肯定するのも他人でなきゃならない。

というより、自分で肯定する術を持たない。

「普通」と「常識」、そうした理由で「自分で考える理由」を打ち消してきた。

だから「自分の成功」というよりも「自分の歩んできた道」が「普通である」「常識である」と認めて欲しいわけだ。




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