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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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喜怒哀楽の順序

リハビリ

多分以前似たような話書いたと思う。


去年の11月だったか12月だったか忘れたが別の所で漫画の考察をした。

世界的にも有名な、恐らく日本人なら100%に近いレベルで知名度の高いバトル漫画の考察だ。

ここで漫画の考察をするつもりはないが、その漫画に登場するキャラクター達の戦闘における特殊能力について自分はここのエッセイで語っている「喜怒哀楽」に当てはめて考察をした。

あちらのサイトでの考察はその作品の中での考察だが恐らくそれはその作品の設定に限らず、他のバトル物、というより「戦い」「競い合い」に当てはまるものだと思うのでエッセイを書くに当たってリハビリがてら少し深堀したい。


バトル物の能力、あるいは技、とは何でもいいがゲームだとか、あるいはこの小説家になろうで人気のある異世界ファンタジーにあるような「必殺技」でも「魔法」でも構わないがそうした能力の事だ。

そうした能力の習熟について「喜怒哀楽」を当てはめた。


つまるところ「守破離」の概念に近いのだがあちらは成長過程を表したものであるのに対して、自分のそれは「感情」に当てはめたもの。

だから個人的には微妙に違うと思っている。


まず喜。

それは「必殺技」や「魔法」wといった提示された能力を受け取る事。

そうした能力が「喜」に繋がる理由は「今の自分にはできない事をできるようにしてくれるから」というもの。

拮抗した実力、あるいは格上の相手に対して「逆転」ができる「切り札」を手に入れることができる。

出来なかった事ができるようになる。

勝てない相手に勝てるようになる。

コレができるようになった時、人は喜びを感じる。


その次は怒。

必殺技や魔法を手に入れるのは自分一人だけじゃない。

仮に自分が一番乗りだったとしても時間が経てば自分が使って優位に立っている姿や、あるいは他の誰かが使っている様子を見てその技の有用性に気づき、次第に他の皆も同じようにその力を手に入れる。

皆が同じように必殺技、魔法を使う。

だからただ「使える」だけでは優位に立てない。

優位に立つためにはよりレベルを高める必要がある。

そのためには苦しい修業や鍛錬を積む。

苦しさは怒りを生む。


そして哀。

怒りの力で「使える」という段階から「身に着いた」というレベルで「必殺技」「魔法」というよりももはや「通常攻撃」のレベルで苦も無く発動できる練度に至ったがそれで完成ではない。

同じ技を使い、同じ程度の実力を持つ者同士が戦う時、勝つのはどちらか。

同じ技と同じ実力なら50%の確率で勝つ?

そんな運任せな技など技と言えない。

同じ技、同じ実力の持ち主同士が戦う時、勝つのは「相手の気持ち」になって考えることができる者が勝つ。

つまりは「後の先」とかあるいは「カウンター」のような「相手の隙」を突く事ができる方が勝つ。

そのために相手の呼吸を読み取り、相手に合わせる事が重要になる。

そのためには自分の怒りのやり場を無くして「悲しむ」のではなく、相手の怒りを理解し、寄り添える「哀しむ」事ができる者になる必要がある。

そうしなければ「クリティカル」な一撃は放つことはできない。


そして楽。

「身に着いた技」を「相手の呼吸」を読み取り、「適切なタイミング」で放つ。

だけどそれではいつまでたっても「相手主体」となってちっとも楽しめない。

「自分主体」で「身に着いた技」を「相手の呼吸」の「適切なタイミング」で放ちたい。

そのためには「作戦」「プラン」が必要になる。

技を出した後、相手の反応を探る。

相手が技を防御したら「A」というプラン。

相手が技を回避した「B」というプラン。

相手が強引に反撃してきたら「C」というプラン。

こうして大雑把に分けた3択のプランに更にプランが分かれる。

相手の「防御」のAのプランであっても「ブロッキング」で防御したのか、あるいは「パリィ」で防御したのか。

もしくは何かを「犠牲」にすることで防御したかもしれない。

それによって同じプランAの中でも細かくプランA-1、A-2、A-3と対応が変化する。

そうやって細かく分けられたプランに対して「反射的」に反応して必殺技を決める。

自分が動くことで相手の動きを支配し、相手の動きを自分のやりたいプランで仕留める。

あらゆる局面に「楽」に対処できる。


技の喜怒哀楽を収める事で「飽きる」。

技の喜怒哀楽とは守破離の概念で言えば「守破」だけであり、そこから「離」に至るには「飽きるほど楽しむ」事が重要になる。

そうする事によって「新たな喜び」を得るために動き出したくなる。

「挑戦」したくなる。

「困難」に挑みたくなる。

それを挑戦と困難を求める事を「冒険」という。


というのが向こうのサイトでも書いた話だ。

皆がこの「喜怒哀楽」で進めば皆が積極的に、ポジティブに様々なものに挑戦していける。

だけど今の日本はそうした事ができる人というのは少数派と言える。

消極的で閉鎖的。

自分も人の事は言えないが何となく「喜怒哀楽」の順序がズレているのだと思う。


自分が思うズレた順序というのは「怒楽喜哀」。

最初に怒りがあり、次に楽がある。

そして喜びがあり、最後に哀がある。


「できない事をできるようになる」

のではなく

「今できる事のレベルを上げる」

というところからスタートさせられる。

誰から?

それは「親」であったり「教師」であったり、あるいは「上司」である。

つまり「上からの命令」。

そのためにつまらないことを延々と行う。

何のために?

「楽」をするためにだ。


身に着いた能力やスキルをマニュアル通りに反射的、効率的に行う。

それが大人であると刷り込まれる。

それが日常化し、「楽」にこなせるようになると「自分はいったい何をしているんだろう」と思うようになる。

漠然とした不安が生まれる。

だけど「楽」にこなせるようになったからといって日々の苦しみが変わるわけでもない。

だから不安を打ち消すための「喜び」を求めるようになる。


本来の喜怒哀楽の「喜び」と順序が変わった怒楽喜哀の順序で求める「喜び」とでは求めるものに違いがある。

喜怒哀楽の順序の喜びは「できなかった事ができるようになる喜び」

こちらは純粋な成長の喜びだ。

怒楽喜哀の順序の喜びは「不安を打ち消す喜び」

苦痛を和らげる「鈍化」「麻痺」の麻薬的なもの。

つまりは「ぬか喜び」。


そうやって怒りからはじまった最後に「哀」が来る。

「他人」を見てしまう。

幸せそうな他人。

自分と同じ程度の能力、なのに幸せそうにしている。

アイツと自分で何が違うのか。

最初から違う。

「喜び」から始まったアイツと「怒り」から始まった自分。

だから最初に「命令した人間」を思い出す。

「親」が、「教師」が、「上司」が悪い。

そして憎い。


けれど「人を憎んじゃいけない」と教育されている。

教育されて憎めない。

素直に感情を出すことができない。

親に怒りの感情をぶつける事ができない。

教師に反論できない。

上司に責任を求める事ができない。

「大人」になれば「理解」してしまうからだ。

「自分と同じ」だと。


「皆同じならそれが正しい」と思ってしまう。

そう思う事で「自分を慰める」。

良いわけがない。

正しいわけがない。

でももう「怒楽喜哀」の最後、「哀」。

「怒る」には遅すぎる。

「楽しむ」のも遅すぎる。

だから「喜び」を引き延ばして「哀しみ」を紛らわせる。


それが一部の人間という「個人」ではなく「世代」として若者の一定数、あるいは大人の一定数がそうなっている状況というのはやはり「普通」がおかしいという事。

最初に命令してきた「親」も「教師」も「上司」も「普通」を盾に「怒り」を強いてきた。


何故「普通」を目指す必要があるのか。

何故「皆」と同じにならなければならないのか。

「生きるため」。

「喜び」という「人間的な感情」からのスタートではない。

「生きなければならない」という本能、野性的、獣的な目的のために「自分の夢」を蔑ろにされた。

あるいは自分の夢を自分が蔑ろにした。せざるを得なかった。

選択肢がなかった。

「最初」が「喜」で始まろうが「怒」で始まろうが、最初は皆「弱い」のだ。

だからどんな人間が「上」に居ても「信じる」という事しか選択肢がない。


弱いから生きるために強い相手と信頼関係を結ぶ。

弱い者同士では信頼関係を結べない。

「怒」とはバトル物で言えば同じ技を持つ相手に対して「優位に立つ」ために努力する期間。

「喜び」から始めようと手を伸ばした相手が「怒り」を向けて優位に立とうとする。

それが「喜怒哀楽」の2段階目のステージの怒りなのか。

「怒楽喜哀」の1段階目のステージの怒りなのか。

弱者として信頼関係を持とうと手を指し伸ばした者には分からない。

ただ、信じるしかない。

怒楽喜哀の「怒り」の人ではなく、喜怒哀楽の「怒り」だと。

1ステージ目にいる自分より高いレベルのステージにいるのだと信じるしかない。


だが「厳しさ」ではなく「優位」に立ちたいだけの人間の化けの皮は次第に剝がれてくる。

「喜び」を与えない。

「褒めない」という事で責任から逃れる。

「報酬を渋る」という事で相手の成長より自分の欲を優先する。

「失敗を喜ぶ」という事で自分の優位を再確認すると同時に相手にマウントを取る。

そんな事をされるうちに相手を「信じる」事ができなくなる。

既に「喜」から「怒」の側に立っている。

それは「成長」したからではなく、「裏切られた」だけ。


「喜怒哀楽」の季節における「怒り」の季節の「裏切り」という刺激は「成長の糧」となる。

しかし「怒楽喜哀」の「怒り」の季節の「裏切り」という刺激は「トラウマのタネ」にしかならない。


「できない事をできるようになる」という「喜び」の感覚を大切にした方がいい。

そうでなければ「怒り」から始まって怒楽喜哀の道に進む。

同時にその「喜び」に対して「認めてくれる人」、「共に喜んでくれる人」、「否定しない人」の大雑把に分けると3パターンの人と信頼関係を結ぶべきだ。

「上」の立場だから、とか「恩」があるから、「権威」や「有名」だから、とか「外的要因」で信じるのではなく、「信じるための基準」を自分の中に持ち、自分の意志で「信じる」という事を決める。

自分の意志で決める以上、「自己責任」だ。

信じるという事は裏切られるという危険を孕むという事。

だから選ぶ基準が必要であり、選んだ責任を取る必要がある。

「裏切られないように信じる人を選ぶ」

のではない。

「裏切られてもいいように覚悟をして信じる」

のがいい。


「裏切られる覚悟」

を持つ事で「裏切り」への「備え」を意識する。

「備え」があるから相手に対して強く踏み込める。

その強く踏み込んだ時の相手の反応で「裏切るかどうか」もある程度見えてくる。


こちら側が「備え」があるから「強者」に強く踏み込める、という事は「強者」もまた「備え」を持っている。

そして「強者」の「備え」とは自分の選択に正当性を持たせるためのもの。

弱者であるこちら側が用意した「備え」というのが「裏切られてもこちらのダメージを打ち消す」ためのものであるのに対し、

強者であるあちら側の用意する「備え」というのは「裏切られたうえで信じる」ためのものだ。

自分の選んだ「信じる」という選択を弱者の揺さぶりで否定したくない。

だから「信じる」ための備えが強者にはある。


だからといって弱者が強者を「試す」ような踏み込み方はやっていいわけがない。

試すという事は「フェイント」、つまりは「詐欺」だ。

弱者が強者を試した時、強者は「落胆」する。

弱者が強者に対して行う踏み込みは「正直」になることだ。

自分の身体、あるいは気持ちを守るため、そのための「備え」だ。

弱者に正直に踏み込まれた時、強者は驚くが落胆する事はない。

こちらを信じるためのあちら側の「備え」の中から選択肢を与えてくれる。


これが喜怒哀楽の正当な成長をした者同士のやり取りだが怒楽喜哀の「怒り」の者に正直に踏み込めばどうなるか。

「怒り」スタートであるという事は「上の人間」から命令されている。

「信じるかどうか」の自分の選択がない。

「信じるしかない。」

裏切られてもどうしようもない。

こちらの生殺与奪は上の人間が握っている以上、信頼関係をあろうがなかろうがいい顔をしなくてはならない。

それが「下の人間」のあるべき姿と考える。


そんな人間からすれば自分より「下の人間」が「上の人間」に対して強く出るというのは「想定外」だ。

最初から裏切られて育ったから「裏切られても構わない覚悟」とそれに対して「備える」なんて事自体の発想がない。

だから狼狽える。

被害者として振る舞う。

怒る。


そんな人が「上」にいる時、「正直」に踏み込んだこちら側は「落胆」する。

上の人間が狼狽える、被害者ぶる、怒り出すといった反応をすればこちら側の「落胆する」というのは「備え」があれば分かる。

「下の人間」に対して「備え」がないから「正直に踏み込んだ」というものを「試された」「騙された」と思う。

「裏切られた」と思う。


日本人が消極的で閉鎖的になっている、というのであれば「喜怒哀楽」ではなく「怒楽喜哀」の成長過程を進む者が多いという事、だと自分は思う。

「裏切られる覚悟」を持つ前に既に上の人間に裏切られている。

「喜び」の最中、一度「怒り」に身を落とすと「喜び」に軌道修正するのは難しい。

だが「怒楽喜哀」のルートを辿るのではなく「喜怒哀楽」の道を進みたいというのなら「喜び」の道、「できない事ができるようになる」という喜びを見つけるほかない。


例えば漫画を読む事であっても「面白かった」で終わらせるのは「怒楽喜哀」の「苦痛を和らげる」という「喜び」でしかない。

漫画の中から考察するネタを見つけてネットなり図鑑で自分なりに考察する。

あるいは料理漫画のように現実にできるものがあるなら作ってみる。

そうした些細な「成長」からもたらされる「喜び」は素直に喜んでいい。

「他人から馬鹿にされても気にするな」

という話はよく聞くが、その「他人」というのが自分が信じた、信じるしかなかった親などの「上の人間」だからどうやったって気にしてしまう。

他人の反応が気になるのは仕方ない。

そう簡単に図太く生きられない。

だから心の中で「切り捨てる」という選択をしていく。

「備え」を用意する。


言葉にするのは簡単だが難しい。

図太い連中は弱者に対して備えなかった事に対する「自己責任」を突き付けてくる。

しかし一番最初の上の人間である「親」が切り捨てるべき者で有った場合というのは「自分の根源」を切り捨てる事になる。

自分の親に対して「備え」を持つという事自体を親に対する「裏切り」だと思ってしまう。

親が「備え」を持っていないから、「親と異なる事」をしようとすることが「裏切り」に思える。

それがどういうことか。

「媚びる」という事。

「女」になるという事。

「陽キャラ」になるという事。


「自分が成りたいから」それを選択したのであれば問題ないだろうが「生き残るため仕方なく」という理由でそれを選択するから時を経て「自分はいったい何をしているのか」と思ってしまう。

「あの人に好かれたいから媚びる」のと「生き残るために媚びる」のでは媚びの質が変わる。

「少女から女になる」のと「子どもから女みたいになる」になるのでは意味が変わる

「憧れるから陽キャラになる」のと「馬鹿にされたくないから陽キャラになる」のでは魅力が変わる。

そして「前者」というのは「少数派」で大多数は「後者」である。

これはどんなコミュニティでも一緒。

コミュニティの一生、という話があるが最初は「好き」が高じて生まれたコミュニティ。

それが次第に大きくなるにつれて「好き」以外の人種が紛れ込む。

時が経つにつれて最初に始めた「好き」の人達が隅に追いやられてやがて消える。

そしてコミュニティそのものの魅力を失い、コミュニティそのものが解散する。


「好きじゃない」のに意に反して「コミュニティ」に強制的に所属させられる。

親を選べない子供がそれだ。

ならそれはもう「怒楽喜哀」のスタートとなる。

それならそれで「いつコミュニティがなくなってもいいように」という「覚悟」の元、「備え」をしておく必要がある。

「いつ切り捨てても良いように興味を向けない」というのは「備え」ではなく「切り捨て」であり、それが続くといずれは「自分」を切り捨てるまで追い込まれる。


強制的に参加させられたコミュニティに対する「備え」とは「怒楽喜哀」を人知れず終わらせる事。

怒りから始まった以上、それを喜怒哀楽のスタートの喜びに変える意志がないならその怒楽喜哀の過程を一気に押し進める。

怒から楽になり、そこから喜となって報酬を得てもちゃんと成長している感覚がない。

だからいっそのこと「哀」に至ればいつそこが崩壊しても関係ない。

未練なく「さようなら」を告げられる。


「喜怒哀楽」で終われば「冒険」が始まり、「また会おう」と別れられる。

「怒楽喜哀」で終われば「廃墟」しかそこには残らない。

だがその廃墟は後世の人間の「興味」を向けられ、「歴史」を学ぶ事になる。


自分は喜怒哀楽ではなかった。

そして大して魅力的でもない。

後世に歴史を探られるような人物にはなる事もない。

だから自分の歴史、経験からエッセイを残して興味を持った人間に「廃墟」に至る始まりを伝えたい。


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