「普通」の罪 その2
正論は弱い者を守るためにある。
「男」と比べて「女」は弱いから「女」の身を守る時その正論は力を発揮する。
だが「子ども」より弱い「大人」が居て良い訳がない。
だからどんな正論を述べようとも「でも貴女、母親でしょう?」と言われる。
「親」の存在意義は「子ども」であり、親自身の幸福のためではない。
「子どもの将来のために一時的に子どもの優先順位を下げる事を許してください」。
そのための理由は正論の外側にある。
だから「説明責任」がある。
そして「行動責任」を示す必要がある。
だから許された時に「謝罪」して「感謝」する。
「普通」だから大きな価値がある。
だからこそその「普通」を盾に正当化しようとする行為は大きな罪。
「選択肢」を示す側ではなく「選ぶ側」、「捨てる側」はその「選んだ理由」と「捨てる理由」を明確に持たなければならない。
そして問題は「何故女が甘やかされているのか」。
コレは「田舎」を見れば分かる。
何故「田舎」は寂れるのか。
「理由」を言語化できないからだ。
田舎に住んでいるからラジオなどもその土地の情報が多いし、田舎の文化や方言をよく使われる。
そして多くが「田舎の文化」は無形、有形問わず「大切な文化的な財産」であり「残すべき」と言う理由で残されている。
だから寂れる。
残すから寂れるのではない。
他所の人間が「大切な文化的財産」と評価しているだけで当事者達に明確に「残す理由」がないから寂れる。
「残す理由」が当事者にないから当然ながら「捨てる理由」もない。
勿論、極一分には「何故残すべきか」と言う理由を持つ者もいるだろうがあくまで極一分。
多くのものは理由を持たず、一時的な快楽のために「残す」、というより「捨てられない」。
現在では過去に使われていた古い農具や工具といったものが役所などの施設に「文化的資源」と言う名目で「寄付」と言う形で送られているらしいが実質「廃棄」だ。
しかしそうやって送られた先にも保管場所など限界がある。
だから写真を撮り、さまざまなデータを保存した後物理的なものは「廃棄」するしかない。
寄付した側の人間は建前としては「貴重な文化財を譲った」つもりだから保存せずに廃棄する事に苦情を入れてきたりもするらしい。
今の自分には必要なく、かといって自分には廃棄出来ない。
理由は「罪悪感」を感じたくないからだ。
「残されてきた」という事はつまり「理由があるから残されてきた」という事は分かっている。
その「残されてきた理由」と自分の「捨てたい理由」をぶつけ合わせなければならない。
仮に「親の代まで使ってきたもの」なら「親」と争うようなもの。
親と対立し、親の気持ちを捻じ伏せ、親が大切にしていたもの犠牲にする。
そうしなければ「新しいもの」をそこに置く事はできない。
そのためには罪悪感を跳ね返すために「自分の理由」を確固たるものにしなければならず、言語化は必須。
けれどここまで生きるなかでその言語化をせずに済んできた。
「普通」の立場、「普通」の行動。
つまりは「女」である限り、「陽キャラ」である限り、「多数派」である限り、わざわざ理由を言語化せずとも行動は余計な衝突を避けて楽に生きてこられる。
「残す」のが悪いわけではない。
「大した理由もなく残す」から邪魔になる。
「捨てる」のが正しいわけではない。
「大した理由もなく捨てる」から必要な物、大切な物までなくなる。
そして「子ども」というのはどれほど頭が良くても「言語化」するには限界がある。
どれだけ子どもが大切に、必要に思っている玩具でも母親からすればゴミと大差ない。
子どもの語彙では大切な理由、必要な理由を説明出来ない、だから捨てても良いと母親が判断して捨て去る。
その判断は結局のところ状況によって変わるから必ずしも母親の独断を責める事は出来ない。
だが「捨てた」時点で母親は「責任」が発生する。
子どもから恨まれる、憎まれるかもしれない。
それを覚悟した上で、それでも「子どものため
」に心を鬼にする。
けれど「大した理由」がなく、子どものためを思ってでもなく、母親自身が楽をするため、自分のために捨てる。
大した理由がないから子どもから恨まれたり憎まれたりする事に不満を持つ。
私は悪くない、と被害者ぶる。
最後は「普通」を盾にして子どもの言葉を否定する。
「普通」の最たるものが「生きる事」。
それに対して道から外れる謂わば「自殺」についての問題、所謂「安楽死」。
「安楽死」を求める人は「辛い」「苦しい」という「理由」がある。
だがそれを止めようとする多くの人は「生きていれば良いことがある」だとかその程度の「理由」だ。
その程度の理由でも「多数派」だから何となく正しいように思えるだけで無責任だ。
無論、「普通にいきている人」には「安楽死を求める人」というのは他人であり、救う責任というのはない。
問題は「救えるかどうか」ではなく、「その理由は正しいか」だ。
「生きていれば良いことがある」、そんなものは「ギャンブルを続けて入ればいつかは勝てる」と言っているようなものだ。
確かにいつか大金を得られるかもしれないがそこに至るまで得られる額の2倍、3倍、あるいは10倍、100倍、それ以上失うかもしれない。
その程度の理由では「無責任」。
その「無責任さ」が目の前の「安楽死を求める人間」だけでなく、自分の子どもやパートナーを殺しかねない。
最終的には「普通」の人の目の前から「安楽死を求める人間」や「底辺」も「上流」も消える。
その立場に立っているのはその人の行動の結果、努力の結果である。
その「普通」である事が辛く、苦しいのであれば「底辺」のせいでも「上流」のせいでもなく、「普通」の行動をとってきた「自分自身」の「自己責任」であり、「努力不足」だ。
逆に「普通に生きる事が楽しい」とは「選ぶ理由」「捨てる理由」が明確にあるからこそ。
「不要なものを捨てる」事でその不要なものの維持にかける金や時間や労力、「無駄な愛」を無くす事で「楽」になる。
そしてその分「大切な物、必要な物」に「たくさんの愛」を注ぐことができる。
男や陰キャラ、少数派は常に自分の大切な物を維持するために「理由」を求められてきた。
女が母に、陽キャラが大人に、多数派が正解である事を示すために「理由を考えるのは今度はそちらの番」という話。
「行動第一」。
それならその次、第二は理由を「思考」する事。
それが「第一」で止まっているのが現代の「普通」だからその「第一」の「行動する権利」を取り合うために老若男女が年齢や性別も憚らず争う。
言い換えるなら「普通」とは「行動」→「思考」→「哲学」のシステム。
行動から思考へ移らない、行動のままでストップする限り罪であり、その罪を容認している。
そして「思考」から「哲学」に至ったとしても「出力」しなければ意味がない。
それを金品の報酬がなければ出力しない。
そのケチくささ。
だから次世代に何も受け継がれない。
そのくせ若者に「察して欲しい」と「察する文化」を恥ずかしげもなく「誇るべき価値」と掲げる。
そして教えない事をケチくさいというような事を「浅ましい」と罵り、「尋ねる事」を躊躇させる。
それが今の「普通」であり、そこから闇バイト、パパ活、問題を起こす政治家が生まれる。
「恥」なのは「普通」から外れる事じゃない。
そうした問題の責任が「普通以外に責任がある」と責任から逃れようとする事が「全体」の危険に繋がる。
その危険に繋がる事を教えること、「教育」「躾」「対話」をしない事が「恥」。
価値ある「女的性質」の者と「対話」をするために「男的性質」の人間は「選択肢」を背負ってその前に立とうとする。
あとは「聴く耳」を持つかどうか。
提示された「選択肢」に対して「選ぶ理由」を「思考」できるかどうか。
「捨てる理由」に「覚悟」を持てるかどうか。
それが「女的性質」を持つ側にないから価値がなくなる。
「女的性質」が行うべき「入力」も「処理」も「出力」も「男的性質」に任せようとする。
男が出力したものをさらに男が受け取って女の代わりに選択して理由付けをして出力し、それをさらに男が受け取り、それを元に新しいものを生み出し出力する。
最後の最後に「パートナー」という理由で報酬だけ奪う。
それじゃあ女は必要ない。
それじゃあ多数派である必要がない。
それじゃあ陽キャラになる必要がない。
女や多数派、陽キャラに認めてもらい、求められようと努力する必要がない。
そこで立ち去った者の所為にするのか、それとも反省するのか。
どちらが「普通」なのか。
ただ少なくともそうやって切り捨てた事で発生する「快適さ」、あるいは「息苦しさ」。
そこに責任をもたなければならないのは「普通」の人。




