「普通」の罪 その1
普通とは価値がある。
たくさんの選択肢が「上から」そして「下から」も提示される「女」だ。
前回まで語っていた選挙や政治というものが「上から」提示される選択肢。
「下から」というのは昨今の社会問題としてとりあげられる闇バイトやパパ活がそれだ。
「政治家」が「普通」から生まれるように、そうした闇バイトやパパ活を含めた「罪人」もまた「普通」から生まれる。
何故「普通」とは価値があるのか。
それは「女」が「男」にとって価値があるのと同様の理由だ。
「未知」なのだ。
だからそれを理解しようとする。
だから「普通」とは価値がある。
逆に言えば「普通」側からすれば提示された「選択肢」にしか興味がない。
女が男の趣味や仕事の「中身」に興味がない一方でそこから発生する「金」であったり「地位」や「権力」に興味がある。
性質が「女」だから「闇バイト」も「パパ活」もそれを「恥」と思わずに踏み越えてはならないラインを簡単に踏み越える。
「普通」である事の罪は日本の場合は「女」を甘やかし過ぎた事。
「女」を甘やかしたツケを「男」が払う事になる。
これはよく言われる「女性雇用を進めた結果、男の正社員雇用が減り、結果として未婚率の上昇、出生率の低下にも繋がる」という話。
「風が吹けば桶屋が儲かる」とそこまで事象Aと事象Bが遠い話ではないが片方を甘やかせばバランスをとるためにその反対へ締め付けを厳しくする。
ただし自分がここで言いたい「女」とは陰陽道の考え方の「女」的な性質を指す。
そのため単に性別としての「男女」だけでなく「陽キャラ」「陰キャラ」の問題、そして「普通」というものを焦点にすれば「多数派」「少数派」にも繋がる。
「女」「陽キャラ」「多数派」それぞれ、提示された選択肢を「捨てる」という役割がある。
「捨てる」というのは行動であり「出力」だ。
「母親」の役割が入力された「罪悪感」を「責任感」で処理し、「愛情」として出力するシステム。
「出力」の前に必ず「処理」があり、処理の前には「入力」がある。
「入力」について、「女」は「男」から選択肢を与えられる。
「男」が役割をこなして「出力」されたものが「女」の「入力」でもある。
「女」としての役割のうち、入力の段階で「甘やかされている」。
とはいえ、それが「男」にとっての出力先である以上、「持ちつ持たれつ」である。
だから女の「入力」について受け身であっても特に問題はない。
問題は「入力」である「選択肢」を与えられる事ではなく、「処理」が不十分だと言う事。
「他人」から与えられた選択肢を選ぶ。選ばれなかったものは廃棄。
「女」1人に対して複数の「男」がアプローチをかける。
そこから「1人」を選ぶ。
「何故その男を選んだのか」
その「理由」こそが「処理」の中身、「責任」に相当する。
「母」となる存在なら廃棄されるものに罪の意識を向ける。
選ぶ、という事は優先させるという事。
優先させる、という事は優先されなかったものは「犠牲」になるという事。
コチラの方が価値がある、と決めた以上は例え恨まれても「責任は私が取る」と言い切らなくてはならない。
それは「母」の最優先事項は「子ども」だからであるから。
だからこそ「犠牲」になった者達の恨みつらみが子どもに向かわないように母である自分自身が受け止めなければならない。
その「母」となるために必要な処理というのは「言語化」だ。
自分達のような「男」、言い換えれば「オタク」というのは「好きなもの」を否定されてきた。
それでも「好き」を貫くためには「何故好きなのか」、「好きである意味」や「好きである事のメリットデメリット」などの「言語化」を強要されてきた。
「ただ好きだから」ではいられない。
必ず「何故?」が問われる。
今ではゲームなんて大人もプレイしているが10年、20年遡れば大人になってテレビゲームに夢中なのはおかしな人間だと思われていた。
筋トレにしてもそうだし、他の趣味である釣りやバンド、コレクション。
何故そんな事に時間をかける。
何故そんな事に金をかける。
何故そんな事に労力を費やす。
「そんな事より出世して結婚して、子どもを作れ。」
男の趣味で例外的に言語化しなくても許された「飲む打つ買う」の趣味は「女を獲得するため」、「出世するため」に必要だと考えられてきた。
だからこそ過去に許された趣味であるが結局それが現代社会で通用しないのか、下品な趣味と言われるのかと言えばそれもまた「言語化」出来ていない弊害だ。
それが「出世」に活かせるように、「女」の獲得に活かせるように、「子育て」に活かせるように経験を通じて自分の中で「哲学」にしておけば文句はでない。
事実、歌舞伎の女方の男の役者が「仕事」のために「男」と性行為をしたりという話もある。
「哲学」として確立されていないからただ欲求を解消するための「快楽」に留まる。
だから「飲む打つ買う」は時代にそぐわないのではなく、「哲学」に昇華しきれない者、他人から「何故やるんだ?」と問われた時に言語化されておらずただ「快楽」のためにやっているから非難される。
結局、それは「哲学」として言語化できず「皆やってる」「それが普通だからやる」といった「その経験を別の事にどう活かすのか」を説明できずただ「普通」を盾にする輩が自らの首を絞めているだけだ。
それと同様に「女」が「オシャレをする事が好き」と言ってもそれに対して「何故」と問う者は皆無と言って良い。
「好きだから」で済まされる。
「普通だから」で察してもらえる。
「皆やってるから」で肯定してもらえる。
だけど「母」となれば優先順位は子どもに移る。
全て「子ども」を優先させなければならない以上、子どもを蔑ろにして自分の好きなオシャレを貫くには周りを認めさせるだけの理由がいる。
そして理由を表現するためには「言語化」が必須となる。
そしてその場合、「正論」というのは当てにならない。
「人の親」である前に「1人の人間」である以上、「人権」「自由」「息抜き」そうした「正論」は確かにある。
しかしどんな理由があっても「母」が「子ども」を蔑ろにして良い理由などないからだ。




