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何か書きたい。  作者: 冬の老人
331/354

不満

「選挙権」とは国民に与えられた権利である。

権利とは「責任」が伴う。

責任を負うと「罪悪感」が生まれる。

その罪悪感が「不満」に繋がる。

丁度自分が定義した「母性」を「逆転」したものが「政治への不満」に近いものとなる。


自分の考えた「母性」とはそれを機械、装置、システムとして捉えた場合、

入力として「罪悪感」→処理として「責任感」→出力として「愛情」となる。

では「罪悪感」とはどこから来るのか、と考えると

入力として「権利」→処理として「責任感」→出力として「罪悪感」

権利から出力された罪悪感をさらに入力として使い、「母性」として「愛情」を出力。

あるいは「仕事」として「価値」を出力する。

母性、あるいは仕事として処理できず、どうする事もできずにたまった罪悪感が「不満」だ。


一般的な「不満」の定義は「満足できない状態」だが10人いれば10通りの満足の基準が存在する。

しかしその対象となる物質やデータとして存在するものは同じ存在だ。

物質、データそのものは変わらない。

それを受け取る人間の中のキャパシティが例え同じ容量の箱だとしてもその箱の底にそれを受け取るより前に処理されずに残っている「罪悪感」があれば100%の満足は得られない。


仕事を残したままリフレッシュのために休みをとっても残した仕事が気になってリフレッシュしきれない。

子どもを預けて友達と旅行に行っても子どもが気になって素直に楽しめない。

人間というのは肉体的に休息を取るために外からどれだけ区切りをつけられようと精神的な区切りは外からつけられない。

その人自身が区切りをつける、つまり「罪悪感」を処理しなければ外からの刺激に対して充分な満足は得られず「不満」は残る。


「◯◯せずに不満を漏らすな!」

この理屈はつまり「自分で解決しろ」といっているわけであるが「選挙に行かず不満を漏らすな」というスタンスは「不満」の「解決策」として「認識」している事になる。

それはつまり「自分の不満」の処理を「政治家」にしてもらうという事だ。


最近では「自分の考えに合っている政党の診断」などがあるが結局それは「誰かに不満を漏らす」という事に他ならず、それが「誰か」から「パソコン、スマホ」になっただけだ。

けれど「質問と応答」のやり取りのデータから診断されたものになり、決められた選択肢からの診断となる。

しかしながらそれは最初から「相手」の方に主導権があるという事になり、「自分の権利」ではない。

「誰かに示された選択」を「自分の考え」として「権利」として行使する。

その選択肢が仮に失敗に終わった場合、そこから生まれる嫌悪感は「不満」ではなく、「被害者意識」だ。


「機械」や「AI」に頼ると「正解」が出力されるし、実際、それらに頼る側も「正解」を求めている。

だけどそれでは「自分の考え」や「自分の感情」を無視する事になる。

しかし「人に頼る」という事は必ずしも「正解」が出力されるとは限らない。


「機械」や「AI」はどのパソコン、スマホからアクセスしても同じデータベース、つまり同じ「経験」でしかない。

しかし「人間」は暮らしてきた時代、環境、人間関係などの「経験」は例え隣人であっても異なる。

だから返ってくるものは「正解」ではなく、「教訓」となる。


最終的には自分の経験と他人の教訓を擦り合せ、自分で考えて「自分の答え」を出すしかない。

他人は「正解」ではなく「教訓」しか教えてくれないのだから他人は自分の答えの「責任」は持ってくれない。

「不満」を聴いてもらうため、そして正解を得るために「金」を払ったわけでもない、相手の「仕事」でもない。

相手の厚意で聴いて不満を聴いてもらい、そこに教訓を教えて貰った。

そこに正解まで求めるにはあまりに浅ましい。 


では「◯◯せずに文句を垂れるな!」というのは単に「厚意」を向けなかったというだけでプラマイゼロなのか、といえばそれは異なる。

「◯◯せずに文句垂れるな!」という事を肯定すればつまり「◯◯すれば文句を垂れてもいい」という事になる。

「◯◯したかどうか」とはつまり「過去」の実績を求めている以上、それは「愛」における「金」と同様だ。

相手に「金」こそ求めてはいないが「実績」の類を求めている以上、「教訓」ではなく、知らず知らずに「正解」を返そうとしている。


要求しているのが目に見える「金品」ではないため分かりづらいが、自分と同じランク、同じレベル、同じ階級、同じ立場に来る事、つまり「寄り添ってくれる事」を求めている。

相手の将来の事を思い、相手の成長を求め、「強さ」を求めるのであればそれは正しい。

ただし、それでもまずは「自分がやってみせる」事が必要となる。

そうしなければ相手は自分に寄り添う事はない。

相手にとって自分とは信じていい相手かわからないからだ。


そして「選挙」や「政治」などを「政治家ではない一般人」が語る事においては「選挙に行ったかどうか」などは大した差はない。

何故なら「選挙権」の行使によって発生する責任はあくまで選挙結果であり、「国民同士」の中には無関係だ。

無論、「努力していない奴の話は聞きたくない」という「気持ち」は分かるがあくまでそれも「気持ち」であり、「感情論」だ。

相手の「不満」の口を塞ぐ免罪符にはなりはしない。

「聞きたくない」なら「相手の努力不足」の所為にするのではなく、ただシンプルに「自分が聞きたくない」という「自分の感情」である事を自覚し、伝えるべきだ。

その結果、相手がどう動くかは相手次第だ。


自分が相手の「不満」を聞きたくないように相手もまた自分の「不満」を聞きたくない。

「選挙に行かないのはまともじゃない、政治に無関心なのは罪だ」と騒ぎ立てるのは一見正論に見えるがその正論を盾にして不満を撒き散らしている、と相手には思われているのかもしれない。

相手に対しては「選挙に行け、政治に関心を向けろ」と一方的に求めるくせに相手の不満は同じステージに立つまで受け付けない、そんな相手を信じることは出来ない。

仮に同じステージに上がっても相手は自分の支持する政治家、政党に対して嫌悪感を持ちかねない。

相手の行動や思想は「普通」を盾にしていれば圧力によって「変化」させる事は可能だ。

しかし「相手を意のままに動かす」となると「普通」を盾にしている限り不可能だ。


「正解」ではなく「教訓」を受け取る、という「他人の無責任の許容」はそこから「自分の選択に責任感を持つこと」を産む。

では「相手の無責任を許容する」という能力はどこから生まれるか?

それは「母性」による「愛情」を受け取っていたかどうか。

「罪悪感」を「責任感」で処理し、「愛情」へ変えられたものを受け取る。

「父性」による「共感」によって得たものを「強さ」で処理した「愛情」とは異なる。


「母性」由来の「愛情」は「罪悪感」と「責任感」によって出力される「最低限」に対して出力される「愛情」だがそれは物事の「下限」を知っている、という事。

それはつまり「許す」「許される」という事を知っているという事だ。

「100点満点」ではないが「頑張った」ということに重点をおく事で「褒める」事はできる。

「結果」ではなく「過程」に目を向けてもらう事の重要性。

「過程」に目を向ける事で「結果」に対して後付けする「虚飾」は無意味となり、向けられた相手の「正直さ」と「努力」の量、そして対象にとっての直面している問題の「困難さ」を共有できる。


女が男に求める「共感能力」を女自身が子どもに向ける。

「60点」という「結果」に目を向けるのは簡単だ。

そこから「100点に届かない」という「事実」を理解するのも簡単だ。

だから「叱る」、というのは「強さ」を求める「父親」の役割。

そして父親ならその「叱る」の中に「どうすれば100点を取れるのか」を一緒に考えてやったり、その方法を示す必要がある。

「父親」に「結果」に対して評価する役割があるとするなら「母親」は「結果」ではなく「過程」を見なければならない。

「60点」という結果だけど「初めての経験」だとか「前は30点しかとれなかった」とか、「スタート地点〜ゴール」までの「過程」に目を向ける。

そうすれば大抵の事が「褒める」という事ができる。

そして子どもに対して「強さ」を求める「父性」に対して「母性」が対抗する事で「良かった点」と「今後の課題」が明確になり、「優先順位」を出力出来る。


「相手の無責任さ」を許容できないのは「母性」によって「最低限」のラインを明確に引かれていないから。

だから100点をとるまで際限なく努力しなければならないし、自分が許された経験がないからこそ、他人を許す事もできない。


「男女平等」によって「男女」がそれまでの「男尊女卑」の社会の「男性」だけが享受出来てきた「自由」を手に入れる事が出来るようになった。

しかしそれは「女の立場の向上」であると共に「女の立場の男性化」でもある。

「女が男性の要素を手に入れる」というのは自分のエッセイで語ってきている基本的な「陰陽」の考え方ではあるがそれは大前提として「女」として成長、つまり「母性」の取得がある。

かつての社会で男だけが手にしていた「自由」を得る、それにともなう「責任」。

そのためには「女」自身の言葉、行動が「子ども」に影響を与え、子どもの気持ちや能力的素質が無視される可能性に対しての「罪の意識」を感じる能力。

それでも子どもが将来、自分の手を離れ、一人立ちするには必要な事だと割り切り、子どもに嫌われる覚悟を持って躾をする。

あくまで子どもの将来のためであり、女の我儘のためではない。


だけどあまりにも「子どもは親の言う事を聞いて当然」といったものをその言葉通りに受け取る親が多すぎる。

そしてその言葉を振りかざして子どもの言う事を聞かせようとする。

大前提として「子どものために大人が最善を尽くす」という事が抜けている。

「普通」を振りかざす限り、その立場は「女」であり、「女」の不満に子どもが「男」として振り回される。

子どもが本当にしたい事や本当に求める物を無視して「女」の相手をさせられれば「不満」は蓄積される。

どれほど大きな容器であっても不満が蓄積されれば実質的な容量は浅く、狭くなる。

だから「狭量」となり、他人を許せない。

そしてまた「不満」が溜まる。





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― 新着の感想 ―
かなり重い内容かな 個人的意見は意味無いから とりあえず御苦労様 (๑•̀ㅁ•́๑)✧
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