「普通」のスタンス その2
世の中、「挑戦」と「変化」が求められる。
だが実際に挑戦しよう、現状を変えようとする人は少ない。
また、現実問題として皆が好き勝手に変われば結局皆が不便になる。
「変化」というのは「堅牢な土台」がある「不変」があってはじめて正当性を持つものであり、逆に「不変」が正当性を持つ時というのは「柔らかくか細い物」を支える時に正当性がある。
世の中が変化を「正解」と言う時はそれだけ「土台」の強さがある事を意味する。
「挑戦」するのに「無条件」で出来る人、「意見」する事が「無条件」で出来る人はそれが「幸福」だとは思っていない。
備わっていて「当たり前」なのだ。
だから「挑戦」する事を封じられ、「意見」する事を否定されるのが「不満」だ。
日本の昔ながらの威圧的、同調圧力的なスタンスに不満を持っている人間が自分の「不満」を解消するために同じ事を他人に強いる。
だから自分は政治への関心がどうこうではなく「選挙に行かず政治の不満を言うんじゃない!」というスタンスに反発を覚える。
そもそも日本における生まれながらに特別な存在だといえる者がいるとすればそれは「天皇」、つまり「皇族」だけである。
「政治家」だって元々は「国民」だ。
「政治家」も元は「普通」や「常識」の範疇にいて、それに守られ生きてきた。
「政治家」とはよりすぐりの「普通」の人間、選ばれし「常識」を持つ人間。
「選挙」や「政治」に関心を持たない「無知な情報弱者」の不満などに耳を傾けない「普通の人間」。
その「弱者の言葉に耳を傾けない普通の人間」の中から選ばれた「普通」というコミュニティの中のエリート。
なら「普通」の中から生まれた生粋の「普通の人間」の政治家が「国民の言葉に耳を傾けない」のは当たり前といえば当たり前だ。
芸能やスポーツ選手にアーティストといった有名人、インフルエンサーといったスポットライトに「当てられる存在」。
確かに政治家もそうした側面は持っている。
しかし政治家自身の本来の役割は国内外の問題にスポットライトを「当てる存在」。
そして責任をもって解決する存在。
本来ならそんな存在を「普通」の中から選ぶ。
「普通」というのは「玉石混交」だ。
その中で能力が高く、責任感があり、国民の代表として任せられる存在を選ぶのが選挙。
だが現実の「普通」はどうか。
「やったモン勝ち」
「弱者は努力不足、自己責任」
「正直者は馬鹿を見る」
政治家はその「普通」の枠から選出されている。
仮に大多数の「普通」の人間がいくら政治家に不満を持って、それを正そうと選挙や政治に関心を持っても「普通」の価値観がそのままじゃそこから選出される者はその価値観のエリートでしかない。
「政治家は国民の方を見ていない、国民の意見を聞かない」
当たり前だ。
「親が子どもを見ていない、子どもの話を聞かない」
「上司が部下の努力を見ていない、部下の意見を無視する」
「普通」の人間が「弱い立場の人間を気にかけない」というのが当たり前なのであればなぜ「政治家」が国民を気にかけると思っているのか。
「政治家はそれが仕事だから。」
という話にはなるが親も上司もそれが「仕事」だ。
子どもや部下の責任を取り、教育をし、支援する。
それがあるべき姿だ。
その「普通」の中から生まれる「政治家」。
親の鏡が子どもであるように政治家もまた国民の鏡。
選挙や政治に関心がある大いに結構。
それは確かに「権利」だ。
だけど「選挙に行かず政治の不満を言うんじゃない!」というスタンスが正しいのなら、その政治を非難するのではなく
「政治に不満があって選挙に行くくらいならアンタが政治家になれば?」
と短絡的に返されるのもまた正しい。
選挙権と同様に一定の基準を越えれば誰でも立候補できる。
別に血筋や家柄など関係ない。
それこそ「努力次第」でどうとでもなる。
実際、何者なのかよく分からない人間が立候補していたりもする。
「◯◯せずに文句を言うな!」
と言うスタンスは仕事などに置き換えた場合は「こんな事を言う奴は三流」と言われる。
例えば映画やアニメなどのレビューで低評価をされた制作スタッフがSNSなどで「そんなに不満ならお前らが作品を作ってみろ!」と言った時点で炎上するだろう。
これが選挙になるとこのスタンスが許されてしまう。
「選挙に行かない人間」も「選挙に行く人間」も「政治」には関係のない無責任な「他人事」だからだ。
クリエイターなどが「批難される事」に「ならお前がやってみろ」と言うと炎上する一方で世間一般に「底辺」と定義されがちな職業の人間も「不満」を漏らせば「その仕事を選んだのは自己責任、自業自得」と突き返される。
「人材不足」で「現状のサービスの低下」を嘆くのはそうやって突き返した者自身に跳ね返ってくるが結局跳ね返ってくる時までは「他人事」でしかない。
政治も、民間のサービスについても結局のところ「出力」されたものしか興味がない。
「◯◯せずに不満を漏らすな!」と言うスタンスはその◯◯に入るものがなんであれ、結局は「自分のことしか興味がない」と言っているに過ぎない。
「政治」によって出力された制度や支払った税金がどう使われるか、「出力されたもの」は自分達に直接関係があるためそこは「他人事」ではない。
だから「選挙」には行く。
だけどそれだけだ。
あくまでも「自分」の視点から見た時の損得だ。
「選ぶ」という時点で「選択肢」を与えられている。
「女」、「陽キャラ」と同じようにスポットライトを当ててもらうために自分の価値を高めるために身を飾り、他者を威圧し、切り捨てる。
日本において誰が主役なのか。
小学校の社会の勉強でも教える基本的な話だが「国民」だ。
「政治」は重要だがそれは「獣」にはない。
「獣」にはない、という事は「生命維持」のために必要性はない、という事だ。
だから「選挙」で「選択」できる。
生きるために「食べ物」は「選択」できても「食べるかどうか」は選択できない。
「食べなきゃ死ぬ」のだから。
だから別に「政治」がどうなろうが本来なら生きていくだけなら対して問題はない。
それが生き死にに関わる問題となってしまうのは個人レベルでは「自己責任」や「弱肉強食」を都合の良く使い、政治に対して「公平」、「安心」を求めるから。
本来は逆だ。
「国民」の力が強いのなら「国民」が「親」であり、「上司」である。
「国民」に選ばれる「政治家」というのは「子ども」であり、「部下」である。
なら「国民」こそが「公平」で「安心」な「大人」を「普通」のものとしての定義づけした社会を作らなければならない。
でなければその社会から生まれ育った「政治家」も「公平」で「安心」な「大人」である筈がない。
治安の良い環境で安心して挑戦できるし、努力できる。
またそんな環境だからこそ挑戦する事、その挑戦を成功させるための努力する事に躊躇いもない。
「挑戦」とはその漢字が示すように「戦い」であり、「努力」とは「怒り」が力の根源である。
何故「戦い」が生まれるのか、と言えば動物としては「生きるため」だが、人間的な視点なら「より良きものを得るため」だ。
金、場所、人材。
それが「努力」で得られる可能性が高くなるなら努力はする。
ゲームだってそうだ。
ログインするだけでボーナスが貰えるならログインする程度の努力はする。
その「努力」をするための芽とも言える「喜び」。
「◯◯せずに不満を漏らすな!」というスタンスはまず「喜び」が体感出来てこそ許されるものだ。
「小さな喜び」を与え、「もっと欲しい」と思わせる必要がある。
そして「そこから先は自分で努力して手に入れるんだ」と言う事が前提にある。
「もっと欲しいが努力はしたくない」という矛盾に対して「◯◯せずに不満を漏らすな!」の叱責が正当性を持つ。
けれどその「小さな喜び」を与えず「もっと欲しい」と思わせる事もなく、最初から我慢を強いる。
その威圧と同調圧力で人が動くなら喜びを与えるためのコスパ、あるいはタイパも良いだろうがよほど欲深いのでもない限り、人はそれでは動かないし、動いたとしてもその場から去る方向に動く。
「人」が去るのは「もう得るものはない」と確信し、満足したから去る、もしくは「追い出される」。
そして「人」が去った時というのは「その人の未来を応援する人」と「根性なしが無責任に逃げやがった」と「悪くいう人」がいる。
そして「追い出された場合」は「残された人間」がほぼ100%の確率で「清々した」などと「去っていった人間」の事を悪く言う。
自分が「被害者」だから去った人を悪く言える。
面と向かって「迷惑だから消えてくれ」と言える人は「罪悪感」がある、もしくは罪悪感を感じない「獣」だから言える。
前者は「罪悪感」が邪魔をして去った人の事をそれ以上悪くは言えないし、後者は事務的に排除しただけで「メンタル」が上がるも下がるもない。
面と向かって問題を「指摘」する事もできない、かといって「自分達が歩み寄ろう」とする事も出来ない。
「普通」という盾を構えて威圧と同調圧力だけかけて変化しない。
「相手が自ら負けを選ぶ事を望む」という消極的な勝負を持ちかける事が「◯◯せずに不満を漏らすな!」という言葉には含まれているのだと自分は思う。




