母性神話 「母性」その4
その3を分割して少し追加。
「母性とは入力された罪悪感を責任感で処理し、愛情を出力する装置でありそのスペックである」
「母性によって生み出された『最低限の愛情』を装飾するのが『愛着』であり、『愛着』は母性そのものではない。」
自分はこの結論を出すまで10分かからなかった。
ある程度考えるための素材を元々持っていたとはいえ、「母性とは何か」を考えれば多分各々結論は出せるものだ。
10分程度で考えたものだから恐らく考えも浅いし、自分の主張が絶対正しい、とは言わない。
何か別の考え方、解釈があるならそれでも良い。
しかし「他人任せ」にする以上、こういう定義をされても仕方ない。
仮にこの自分の考えをもとにして「母性」を定義して「母性神話はあくまで神話でしかない」という事を子ども達に教えた場合。
確かに「愛着がわかないから愛情を向けられない」という人達は自分の口からはとてもじゃないが「母性神話は神話」とは恥ずかしくて教えられない。
「自分は罪悪感もなく、無責任な人間です」と言っているようなものだから。
だけど「母性神話は神話だと男性に教育してやれ」という他人任せな連中は反論があるのであればちゃんとデータを取り、理屈を整えて自分が考えた「母性」という定義を覆す事ができる新しい定義を出さなければならない。
そして仮にそれが出来るのであればわざわざ学校教育という他人任せにせず、自分で出来る筈なのだ。
母親が子どもに「母性神話は神話」と教育出来ない理由がない。
しかし、教育するだけの力がないのは「愛着」がないからではなく、「母親」になれない「未熟な女」だからだ。
女だから気に食わない理屈であれば「数の力」に頼って否定したり、「被害者のふり」をして他所から何も知らない部外者を引っ張ってきて味方にしてそいつらに攻撃させたり、あるいは「人格否定」で攻撃する。
そうやって罪悪感を刺激したり、孤立化させたり、ダメージを与えて口を塞ごうとする。
それでは結局「男の理想」である「母性神話」は肯定し続ける事になり、「母性神話に苦しめられている」という事実は変えられない。
女が「母性神話」にできるアプローチは3つ。
「母性神話」を目標にして、男の理想の母親となる。
「母性」とは何かを女自身が考え、言語化し、それを指針として自分なりの「母親」になる。
定義された「母性」の解釈を受け入れ、自分の罪を認め、責任を背負う覚悟する。
母性神話について学校教育任せにしようとする連中というのはこの3択を跳ね除けている。
その上で「面倒な事は男が考えろ、だけど理想は押し付けるな」
「子どもだからといって愛着は沸かないのは仕方ない。だけど母親の事は尊敬しろ」
「愛情は有限だから愛着が沸かなければ与えない、だけど子どもは自分に愛情を寄越せ」。
ダブルスタンダードなのだ。
そのダブルスタンダードは自覚しなければ専業主婦でありながら夫に家事を分担させようとする一方で外で働いて家計を支えようともせず金遣いの荒い勘違いした嫁になる。
そして子どもの要望を「よそはよそ、うちはうち」といいながら跳ね除けつつも他所の子どもなどと比較し、自分の子どもの努力や成果を無視する母親へと変化していく。
そして責められれば「普通」「常識」というものを盾にする。
お決まりの責任逃れだ。
少なくとも自分は「母性」とはそうしたものだと捉えているが、それとは異なる解釈の場合であっても「学校で母性を教える」という事はいよいよ「母親の必要性」がなくなる。
家事用品は便利で安全、スピーディーで多機能なものが多くあり、そして今後も進化してもっと便利になる。
家政婦、ベビーシッター、保育園。
家事をするだけ、育児をするだけなら代わりはいる。
今でさえ「家事をしない専業主婦は存在価値がない」と言われている。
「家事」や「育児」を通して「母親」としての「罪悪感」や「責任感」を果たして「愛情」を表現するしか「専業主婦」には方法がないのだ。
家事を放棄してただ子どもを甘やかすのは「愛情」ではなく、「支配」であり「独占欲」でしかない。
それを「女」は薄々自覚しているから「男」同士で「母性」について教育をしてくれ、と語る。
その一方で「理想」を押し付けるな、と言う。
「女」自身は「母性神話」の現実を教えたくないが「男」の「理想」にはケチをつける。
女の気持ちを「察してほしい」と願う一方で男の気持ちは「察する気はない」。
「妊娠したから責任を取れ」と男に迫り、結婚を求めるが「母親とはいえ子どもに愛着は持てない事もある」と愛情を注げない言い訳をする。
女は男に対して「共感」を求める。
また外的から守ってくれる体格や技能、経済的、様々な「強さ」を求める。
その上で「愛情」を求める。
これは世間的にも浸透している女が求めるものだ。
では男は女に対して「母性」を求めるとはつまり何を意味するのか。
無論、女と同様に男も「愛情」は求める。
だがそれは「母性」における「出力」だ。
男は「母性」を女に求める事で女自身に自らの発言や行動に「罪悪感」を感じ、そしてその言葉や行動についての「責任感」を持つ事を求めるのだと自分は考える。
そして「母性」が「罪悪感」→「責任感」→「愛情」という流れの装置だとすればそれの対となる「父性」も見えてくる。
「父性」とは「共感」で得たものを「強さ」によって形を作り上げ「愛情」として出力する。
男女が「愛情」で結びつくという事は裏を返せば
・女は罪悪感と責任感を獲得
・男は共感と強さを獲得
という事を示す。
そして子どもに対して教育するということは母親から罪悪感と責任感というものを学び、父親から共感と強さを学ぶ。
それぞれが先天的に持っていないもの、「努力」によって後天的に得た「技術」だからこそ、取得に至るまで「教訓」がある筈。
そのために仕事や家事を行う事で「喜怒哀楽」の感情を得る。
大人だから黙っていても「喜び」は与えられない。
努力をしなければならないがそれには「怒り」が付き纏う。
そして怒りが冷めれば努力していた過去の自分に「哀しみ」を向けて反省する。
努力と反省を繰り返して喜びを積み重ねていけば作業や動作が「楽」になり、「楽しさ」を得る。
そしてそれに飽きたらまた別の「喜び」を探す。
ここまでやれば言語化、あるいは何らかの表現化が出来ている筈。
「喜怒哀楽」を身につけていないから「言語化」「表現化」のとっかかりもない。
「与えられたもの」「生まれ持ったもの」で「楽」にやってきた。
「喜」と「楽」だけ。
喜びを得るために「怒る」事も、その怒りに対して「哀しむ」事もしてこない。
「喜び」を求めれば「親」や「男」から与えられ、
「怒り」を見せれば「哀しみ」を向けられる。
「楽しさ」を求めるより先に既に用意されている。
「与えられた選択肢」を「選ぶ」だけ。
選ぶ事によってそれ以外を「捨てる」。
その本能的に女が苦もなく出来る「捨てる」という事に「罪悪感」と「責任感」を持つ事が「母性」である。
「母性」とは「与えられた選択肢」の選択肢毎に内包されている「他社の喜怒哀楽」を読み取る事であり、それを「選択」によって「選ばれた選択肢」だけでなく「否定された選択肢」に対して「謝罪」と「感謝」をする事ができて完成する。
「女」という性別故に先天的に持っていない感覚を手に入れるためには手間がかかる。
「若さ」は失われる。
それに伴い「美しさ」も失われる。
否応無しに「捨てられる若さ」に対して何を得たか。
逆に言えば若さや美しさを維持するためには「何か」が捨てられている。
自分が捨てた、あるいは自分が手に入れた物さえ認識が曖昧。
必要かどうかも分からない。
押し付けられたお節介に感謝などできないように蔑ろにして気づかぬ内に立ち去った大切なものに罪の意識など生まれない。
それに気づき言葉にしたり、表現する事で子どもには母親が「楽しそう」、あるいは「悲しそう」な様子を見て子どもは気づく。
子どもはその母親の楽しそうな姿を信じ、さらなる喜びを求めて挑戦や努力をする。
母親の悲しそうな姿を見て罪の意識を持ち、行動の責任の重要性を知る。
女が男に色目を使って欲しいものを満たそうとするように母親が「喜び」を求めたところで子どもは背伸びをして「無理」や「無茶」をしなければならない。
自分の「若さ」や「美しさ」を捨てる事、つまりは「女性としての価値を捨てる」と言う事に対しての「罪悪感」や「責任感」。
そして「子どもに我慢させ、孤立させる事」への「母親」としての「罪悪感」と「責任感」。
天秤にかけてどちらかを捨てなければならない。
「母性神話は神話でしかない」という「現実」を主張する事も何かを天秤にかけている。
「神話」という「幻」を否定した以上、その本人自身が「幻滅」されても文句を言えない。
そしてそれが「母親」としてではなく「女」として選んだ道である事に罪の意識と責任を負うのなら、誰も文句はないと思う。
幻滅される覚悟もなく「母性神話は神話だと男性に教育しろ」なんて口にするな、女じゃなくて「母親」なら。
とりあえず一連の「母性」の話はこれで終わり。
一応個人的には「褒める」の話の続き、と言うかその中にあるエッセイのつもりではある。




