母性神話 「母性」その3
「愛情」についての認識が自分は自分の認識で正しいと思ってはいるが、それは自分で色々考えた結果「それ以外に考えられない」という結論に達したからだ。
「愛情とはこういう事ではないか」という「自己肯定」と「こういう場合、その定義では当てはまらない」という「自己否定」を繰り返し「愛情」をそう定義した。
そして動画の感想にあった「愛情は有限」「子どもから返してくれないなら愛情は与えられない」というものに反論した。
ではそれと同様に「母性」とは何か。
男、そして子どもは何故「母性」を求めるのか。
「母性神話は神話でしかない事を男に教育してやれ」
というこの物言いは裏を返せば「子ども」にも理解してもらえるように「言語化」して「マニュアル」にして学校で教えろ、という事と同義だ。
そしてわざわざ教育する対象を「男」と限定しているのはそれは「女」や「母親」は理解しているという前提があるから、ということになる。
尚更「女」か「母親」が説明した方が効率的だと思うがそうではないらしい。
突き詰めていくと「男に教育してやれ」という言葉は性別を限定しているため「学校教育で教える」という環境すら通過点である。
「男」に教える。
「女」は教えずとも理解している。
だから「女」が「母親」となる事で教育すれば良いのだがそれをする事を拒む。
女が介入しないなら「男同士で教育しろ」という事になり、つまりは「父親が息子に教えろ」、さらに言えばあるいは「男は独力で母性への理解を深めろ」という事になる。
実際の女が介入せず、男だけで考える。
それは見方を変えれば「自慰行為」と変わらない。
であれば「理想」を求めるのは当たり前であり、そしてその理想を得るために「努力」をする。
「母性神話」とは直接的に生み出したのは「男」の「理想の母親像」かもしれないが、そもそもの原因を掘り下げていけば精神的に「母親」にならなかった女、あるいはなれなかった女が男に教育を施さなかった事で生み出された神話だと自分は思っている。
とはいえ事実として「自分の子どもに愛着が沸かないために愛情を向けられない女性」がその母性神話に苦しんでいると言う状況もある。
動画の件とは別の話ではあるがそうした女性の実例を自分も知っている。
その女性は子どもを授かるが所謂「ワンナイトラブ」であり、父親が誰かも分からない。
しかも元々生理不順だとかの影響で妊娠に気づかなかった。
そして気付いた時には手遅れで既に中絶できない時期になっていた。
自由奔放にワンナイトラブなんてやっている人間だから両親からも見放されている。
望まない出産に誰にも頼れない状況。
当然ながら出産した子どもにも愛着は向けられない。
妊娠した所為で自分の自由や思い描いていた未来が奪われた。
ではどうしたのか、と言うとその女性は子どもが高校を卒業するまでしっかり育て上げた。
子どもは確か高校卒業後に自衛隊だか、警察になった筈だ。
子どもには「昔からずっと愛着は持てない」と言う事は子どもにも伝えていた。
ただし「見捨てるのは罪悪感があった。」
そして「自分のした事に責任を取っただけ」
だから育てるしかなかった。
ある種、「母親になってしまったから仕方なく」という義務感で育てただけで子どもに愛着などない。
だからこの母親は子どもから恨まれても構わないし、むしろ成人したら親子の関係を絶っても良いとすら思っていた。
しかし成長した子どもの方が「愛情はたくさん貰ったから今度は自分に支えさせて欲しい」と宣言していた。
そのため子どもに好きになれず自分のことを母親失格だと思っていた母親の方が困惑していた。
自分はこの親子の話を知っているから「母性神話は神話だって男に誰か教育しろ」と言う事に無責任だと言う感情を抱いていた。
「母性神話は神話」「自分のお腹を痛めた子どもだって愛着が沸かないこともある」「愛情は有限」
こうした主張が動画の感想に多く流れていた。
ではお望み通り「母性神話は神話」という事を「母親」の代わりに言語化して学校教育で教えるに当たって一番最初に定義しなければならない事がある。
それは「母性」そのものだ。
ネットや辞書で調べてもぼんやりとしたものしかない。
なのでコチラで定める。
明確に「母性」を考えるに当たって自分のエッセイでよく行う「3分割」である。
「母性」とは調べればいの一番に出てくるものは「女が持つ母親の性質」を指す。
つまり「母性」とは「母親としてのスペック」だ。
パソコンだと「CPU」「メモリ」「ストレージ」などに分かれているがそんな感じで「母性」と言う機械の「スペック」を考える。
まずどういう仕事をこなす機械なのか。
それは動画の感想の中に答えがある。
「愛情」だ。
一旦、全ての過程をすっ飛ばして母親が最終的に提示するものは自分を含めて動画の感想欄の共通認識として「愛情」を子どもに向けるものだ。
それに自分も異論はない。
つまり「母性」とは「愛情」を「出力」する装置だ。
後は簡単だ。
「出力」がある以上、「入力」があり、「処理」がある。
入力と処理については先述した「愛着を子どもに持たなくでしっかり育てた女性」の件から答えを知ることが出来る。
入力とは「罪悪感」であり、処理とは「責任感」である。
子どもに愛着をどうしても持てなかった女性がそれでも子どもに愛情を注げた理由は「自分が見捨てればこの子は死んでしまう。自分は人殺しになってしまう」
「自分がしっかり育てなければ、この子は道を踏み外し、人に迷惑をかけるかもしれない。自分は犯罪者を育て上げてしまうかもしれない」
と言う罪の意識があった。
そして「自分が馬鹿な遊びをして妊娠し、それに気づかないまま出産せざるを得なくなってしまった」という自業自得であるという自覚とそれに対して責任を果たすという意識があった。
動画の感想の中で主張する連中が言い訳に使う「愛着」は「母性」を構築する上で必要な理由などどこにもない。
「罪悪感」と「責任感」さえあれば「愛情」を出力できる。
それが「母性」である、と自分は考えている。
勿論、その基本的なスペックを押さえた上で「愛着」はあった方が良い。
愛着があれば「基本的スペック」で出力される「基本的な愛情」を超えた出力を発揮できる。
しかしそれはあくまで「オプション」、あるいは「装飾」、つまり「付加価値」過ぎない。
いくら「付加価値」に拘っても「基本スペック」が低ければ、つまり「罪悪感」と「責任感」が低いなら結局「甘やかす」だけの愛情となり、それは子どもを「束縛」し、その精神を「支配」するだけだろう。
つまり何を言いたいのかと言えば「母性神話は神話」と言う主張した人のような「愛着がないから愛情を向けられない」と言う人間は「罪悪感」から逃げ、「無責任」な人間だから相手にしないほうが良い。
と言う事を「母性神話は神話である」と言う事を仮に学校教育で教える事になった場合、まず最初に教えるべきものだ。
そしてコレは「出力」こそ違うが「仕事」をする上で「罪悪感」と「責任感」が重要なのは変わらない。
そもそも教育や躾は「親の務め」と表現するように、「親」とは「仕事」である。
「愛着があるかどうかで愛情を出力するかどうか決める」
と言う考えを通常の仕事に置き換えると
「自分の好き嫌いで仕事をするかどうか決める」と言う事だ。
「自分の好きな仕事」や「好きな人がいる現場」では仕事をするが「自分が嫌いな仕事」、「嫌いな人がいる現場」では仕事をしない。
そしてそれに対して「罪悪感」もないから出力する成果に対しても「責任感」を持たない。
「愛着があるかどうか」で行うのは「趣味」である。
「趣味」ならば「好きなこと」をやれば良いし、「好きな人」と付き合えば良い。
「嫌いな事」はやらなくても良いし、「嫌いな人」は関係を持たないようにすれば良い。
そこには「罪悪感」も「責任感」も必要ない。
しかし、いくら趣味だからといって他人に迷惑をかけるような事をしてしまえば罪悪感やそれに伴う責任感は必要だ。




