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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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母性神話 「母性」その2

感想の中で一番目を引いたのは前回の「母性神話は神話でしかない。」から始まるものだ。

しかし、それとは別に一定数の人間が「子どもから女叩きをされて可哀想」とは別に「愛情」について語る者がいた。


件の動画の感想で「愛情」を語る者の多くは「愛情は有限である」という考えを述べていた。

コレも結局のところ「母性神話は神話」でしかないように事実である。

「愛情が溢れる」という表現があるように無形の愛情を伝えるためには相手に解るように互いに認識するための物理的、あるいはお互いに理解している前提の概念となる「器」がある。

「器」がある以上、どれだけ大きな器でも「底」があり、「限界」がある。

愛情が底をつけば愛情は新たに注がなければ空のまま。


だから「愛情は有限」というのは事実である。

しかし前回「母性神話は神話でしかない」という事にたいして自分は「生まれ持った性質」と表現した。

目が悪いから眼鏡を付ける、アレルギーだから食べ物に制限がある。

そうした物と同じく、「生まれ持った性質」に対しての「弱音」である、と自分は考えている。

「愛情は有限」というのは確かに事実だが同時にそれだけでは「弱音」と変わらない。

だから「無くなったら入れ直すのは誰か」となった時が問題だ。


感想欄は「女叩きをした長男の自業自得」と「母親が可哀想」という意見が圧倒的多数。

だから当たり前のように「愛情を返さなかった長男が悪い」という風な意見だった。

しかし自分はエッセイで何度も語っている自分なりの「愛」と「情け」の考え方を「子どもが親に愛情を返す」という事に当てはめた時、やはり子どもに愛情を返す事を求めるより先に親が差し出すべきであるという結論に至った。


自分の結論の前に感想の連中だが恐らく「愛情は有限」という主張をするにあたり、「愛情」とは具体的に何?と言われれば言葉につまる連中が「愛情は有限」と訴えている。

そうした者が様々な物に例えて「愛情は有限」を表そうとする者がいた。

中には「交通系ICカード」に例える者もいたが子どもが持っているカードにチャージするお金を払うのは親だ。

「子どもが愛情を返さなかったのが悪い」と言う立場での感想で「愛情」を表現する「上手い例え」と思っていたわけだがそれは「有限」という部分にしか注目していない。

結局その金は親の金である以上、「交通系ICカード」の例えを深堀りすれば子どもから返ってこない理由は「入金していない親の責任」になる。


またそもそも「交通系ICカード」で「子ども」に向けて説明したところでお金を稼ぐ術がない子どもに対して「愛情は交通系ICカードと一緒で有限だ」と説明してもピンと来るわけがないのだ。

あるいは小学生の場合、自分のものを持っていない事も十分考えられる。

「愛情」について分かったような事を言いながらそれを「伝える対象」について一切「愛情」を向けていない。

そうやって責めれば大抵「このくらい普通は分かる」「今時小学生でも交通系ICカードくらい常識だろう」といって間違いを認めないだろう。

「残高が無くなれば使えない、チャージすれば使える」とかそれは流石に小学生でも分かる。


そもそもの問題は「愛情は有限」と言う事を知っているか、知らないかではない。

感想を書いている連中と同様に大多数の人間、勿論子どもは「愛情」なんてものを明確に「愛」と「情け」に分け、さらにそこに「金」「時間」「労力」なんて当てはめていない。

そんな風に考える自分みたいな奴の方が少数派だ。

だからこそ一般的には「愛か金か」みたいな話がでるのだから。


「愛情とは何か」、あるいは「愛情は有限」なんて事を知らずとも人間は生きていける。

「有限」という事は「限界」という事である。

「限界を知っている」に越した事はないかもしれないがこの日本において一体何%の人間が明日を生きていけるか分からない、という本当の「限界」に追い詰められた事があるのか。


それこそ「交通系ICカード」だ。

残高が0になっても機能がなくなってもただの板キレになるわけじゃない。

「支払い」が出来なくなるだけで「チャージ」は出来る。

「限界」とは物理的な劣化などで支払いもチャージも出来ずに本当に何も出来なくなる事だ。

チャージできる内は何度だってやり直せる。

子どもの持っているカードに親が愛情を注ぎさえすれば。


動画のAが待たされたカードは「チャージ可能」なカードではなく、「使い捨て」のプリペイドカード

でしかなかった。

「母性神話は神話でしかない」と訴える連中は「使い捨て」の方しか渡していない。

子どもが赤ん坊の頃に与えた2〜3年分の愛情だけで「母親」を気取る。

それは言葉や感情を介さない動物的な母性であり、対話や情緒的な人間的な母性ではない。


人は一般社会を見ても「愛情の限界値」を知らずとも生きていける事は明らかだ。

「愛情は有限」である事は勿論知っていて損はないが、それは親以外との他人との交流により「愛情が0」の状態から接し、徐々に仲良くなる事で愛情を増やし、時には衝突したりして愛情を減らしたりして徐々に「愛情は有限」を知れば良いだけの話だ。

親が愛情の限界値を見せる必要性はない。

それよりも「愛情の注ぎ方」を知らない事の方が問題である。


それはすなわち「親から愛情を受け取った経験」が少なすぎる事に等しい。

だから何を返せば良いか分からない。

何をすれば喜んでくれるのか。

何をすれば期待に応えた事になるのか。


「愛情」について自分はエッセイで何度か語ってはいるが「子ども」から「親」に向けた愛情というの「良い子になってわがままを言わず我慢する」という事だ。


「愛」とは金、時間、労力。

子どもは金を稼ぐ能力はない。

親に金を返せない以上、自分の出費を抑えるしかない。

子どもは住む場所も活動できる範囲や時間、さまざまに制限されているし、責任もとれない。

だから時間と労力を親に返すというのはつまり親にコレ以上迷惑をかけないという事になる。

子どもから親に向けた「愛」は「我慢」となる。


「情け」とは受け身、時間、労力。

受け身となる事で親の愚痴や日頃の不満を受け止める事になる。

親の時間に受け身となるという事は子ども自身の時間を潰し、親の労力の受け身になるという事は子ども自身の労力をすり減らすという事だ。

子どもから親に向けた「情け」とは「良い子」であろうとする事になる。


二つ合わせて子どもから親への愛情とは「良い子になって我慢する事」である。

「親から愛情を与えられた経験」が無くても、何を返せば良いのか分からない子どもであってもできる唯一の「愛情」の表現がソレだ。

それはすなわち消極的で大人しく、エネルギー枯渇状態と自分の意思を失った状態。

一言でまとめれば「陰気な性格」。

動画に登場した「女叩きが好きなA」が女叩きを始める前、そして母親から見捨てられた後。

「女叩きをしていた期間」を省いた「本来のAの姿」そのもの、と自分の「愛」と「情け」についての考え方で考えるとそうなる。


子どもだから選択肢が取れない以上、そうするしかない。

仮に子どもに「最低限の愛情」を与えず、それに対して「謝罪」もなく、それで我慢して良い子で居てくれる子どもに対して「感謝」もない場合。

そんな母親としての責務を放棄していた場合に「愛情は有限。子どもが母親に愛情を向けなければいくら親子だとしても愛情はなくなる」という事実を主張する人は一体何を求めているのか。

単純な話だ。

「子ども」が「親」に、ではなく「男」が「女」に接するように「愛情」を向けてほしいだけだ。

今の自分と過去の自分、「母親」としての自分と「女」の自分に線引がないから「子どもが返せ」と言える。


「愛情」は「有限」だ。

金も時間も労力も有限であるし、受け身となる自分自身もその肉体的、精神的な大きさに限界がある。

その事実は揺らがない。

だからこそ「愛情は有限である」と教える事も「教育」であり、「有限だからこそ新たに器に注ぐ方法」を教える事も「教育」だ。

そして「教育」する事も「愛情」だ。

それは家事のように毎日こなす必要がある。

生きている限り、「有限」の器に注ぐ事で擬似的に「無限の愛情」を表現する事ができる。

そのためには「自分はコレで十分」と身分相応、能力相応の自分を満たす方法と自制心を持ち、「自己愛」にむけていた「愛情」を子どもに先に注ぐ必要がある。


「子ども」に対して愛情を求めて良いのは自分が「楽」をしなければ生きていけなくなる頃。

人生100年なら75歳からの25年。

子どもが悪い事をしたら叱るのも愛情。

「子どもに女叩きをされた」

と被害者ぶったところでそこを叱るのが母親。

モラハラをされてそんな余裕はなかった、というのは理由にはならない。

それとコレとは話が別。


「女」は人妻になり、母親になり、「オバさん」になるまで慰めてもらうのが当たり前かもしれないが「男」は子どもの頃から「情け無い、男だろ」と突き放される。

「母性神話は神話でしかない」「愛情は有限」という事実と同様に「自分はまだ子ども」と事実を訴えても「男」である限り、子供の頃から落ち込んだ自分で自分を慰めるしかなくなる。

そんな「男の子」を慰めてやれる他人は「仲間」か「母親」しかいないのだ。


そして「仲間」というものが必ずしも「正しい道」に戻してくれるとは限らない以上、「母親」が慰めなければ男の子は「孤独」に悩む事になる。

そして孤独から逃れる事を諦め、孤独を受け入れ、孤独を愛するようになる、

子どもに愛情を返してくれる事を求めるというのは子どもに孤独へと仕向けさせる事。

「母親」として子どもから愛情を求める「女」の自分の浅ましさに恥を覚えて線引きしなければ子どもが潰れ、結局将来的に「楽」の季節に破滅するのは自分自身、自己責任という事だ。


「愛情は有限」

その事実を子どもに伝える教育をする事も「愛情」。

その上で愛情をかけるから子どもは感謝する。

言葉で言うのは簡単だが、言っただけで理解しない。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず。

やっている姿を感謝で見守って、信頼せねば人は実らず。」


愛情は有限という事実に変わりないが「人の器」の大きさの種類は千差万別だ。

「母性神話は神話でしかない」とわめく人間もいれば、自身の身内どころか血のつながらない赤の他人に寄り添う事の出来る者もいる。

「愛情は有限」を語るならまずは自分の事を反省しなければならない。




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