母性神話 「母性」その1
ここまで「動画そのものへの考察」と「動画にした感想とそれについての返信してきた者とのやり取り」を語ってきた。
とはいえ、本来なら動画自体が最新とは言い難く、敢えて感想も書く気はなかった。
とはいえ、あまりにも動画のタイトルだけ見て書いたような「母親の味方」ばかりだったので苛ついて感想を書いた。
とは言えそうした感想の中でも一番目を引いたのはタイトルにもなっている「母性神話」を持ち出した感想だ。
母性神話、つまりは「女は母親になれば母性を持って子どもに尽くすようになる」と言ったような言説だ。
個人的には自分の母親を見ているからこの手の話は信じていない。
だから「母性神話はあくまで神話だ。」と言う事自体は全然構わないし、同意見だ。
問題はその後だ。
「母性神話は神話だと男性に教育して欲しい」
そしてさらにこう続く
「お腹を痛めて産もうが、愛着はなくなるし、最初からない場合もある」
この「男性」というのが「パートナー」の事を指すのであればお気の毒ではある。
「子どものために母親になるのであってパートナーの母親になるわけではない」
という意味で「パートナー」、あるいは「世の男性」に向けての主張なのであればそれは正しいのだ。
日々のストレスを解消する手段としての「赤ちゃんプレイ」なら個人の性的嗜好として許容はできるかもしれないが、大の男が彼女や妻に対して「自分の母親になって甘やかしてくれ」というのはわけがちがう。
男女逆の立場にして自分の彼女、あるいは妻が自分に対して「対等な男女」としてではなく、「父親」と「娘」の関係を求めたら嫌だろう。
勿論「わがままな彼女の言うことを聞いてやるのが好き」なんて言う人もいるだろうが、面倒だし、重い。
所謂地雷系だ。
だが後半の「お腹を痛めても愛着は無くなる」と続く話を見ているとどうも感想で言っている「男性」とは「自分の息子」を指しているように見える。
そもそも「女叩きの矛先を自分の母親にも向けた奴が離婚して捨てられる」と言う話の動画でこんな感想を書いているわけであるし、恐らくその可能性が高い。
そしてこんな「母親目線」の主張を書いたのは女性、それも子どもを持つ母親である、という可能性が高い。
他の感想の多くが動画の中に登場するモラハラ夫と女叩きをしてくる長男からの加害によって鬱を発症した母親を庇う感想をしている中で更に「母性」について男にとって都合の良い幻想を押し付けるな、と言う強い主張は目を引き、数ある感想の中でも最も高評価を受けていた。
「主張」については理解できる。
「お腹を痛めた子でも愛着はなくなる」「最初からない場合もある」というのも個人差がある以上仕方のない部分もある。
しかしその一方で仮に「この感想を書いたのは子どもを持つ母親」と言う可能性が当たっていた場合、その感想を見れば「女叩き」される理由となる「女性優遇の不公平感」は「そういうところだぞ」と言う証明でしかない。
この感想が高評価を受けている事が個人的には一番「気に入らない」。
その感情がわざわざ古い動画に今更になって「動画の中は母親に問題がある可能性が高い」と自分は書いた動機だ。
自分が一番気にくわないのは「男性に教育して欲しい」という文言。
極めて「無責任」だ。
「男性に教育してほしい」と言うこの「教育」と言うのは恐らく「学校教育で男子生徒に教育して欲しい」と言う事であろう。
「してほしい」と言うのは「子どもの母親である自分以外の誰か」に願っているわけであり、男子にその手の教育を求めるのは「学校教育」しか思い浮かばない。
恐らくは「性教育」の一環として「母性神話は神話である」と言う事を教えてやれ、と言う話なのだろうがそれは「性教育」ではない。勿論、他の国語や算数、理科などの科目でも同じ。
仮に教えるに当たって一番近いものとして考えるなら「道徳」の授業であるがあくまで道徳の授業は子ども達が学校を卒業し「日本社会」、あるいは「世界」という部分に備えるためのものだ。
本来であれば「親子」についての話は「家庭」で学ぶべき話ではない。
そもそも「社会」に備えるための「学校教育」なら、その「学校」に備えるための「家庭教育」だ。
「母性神話は神話でしかない」
この事実は「男女」の関係で生じる性差ではなく、「親子」の関係で生じるものだ。
なら「母性神話は神話」と教えるのは「学校の教師」でも「塾の講師」でも、「部活の顧問」でもない。
ましてや「近所に住む大人」でもない。
そして「父親」でもない。サポートはできるかもしれないが「父親」は「母親」そのものになる事はできない。
「子どもの母親自身」が「子ども」に教育するべきであり、他には誰も教えられる人間はいない。
世界の半分は男であり、女だ。
仮に多少なりとも会話するレベルの人間関係を持った人が1000人いたとしてその半分、500人が自分の人生に影響をもたらす異性だとしてもその中で「母親」と言うのは1人しかいない。
例外的に親の再婚だとか、養子に迎えられるなどで複数の母親を持つ事も考えられるが現代日本で再婚というのは結婚全体の約25%程度という事もあるし、親権を女性がとりやすいと言われる日本において2人以上の母親を持つ者は極めて少数派だろう。
その人生の中で遭遇する女性はいくら「慈悲深く、母性に溢れた女性」であっても、あるいは「子持ちの女性」であっても子どもにとって「母親」ではない。
例えどんな女性とで出会う事はあってと子どもにとっては「母親」は1人しかいない。それは紛れもない事実だ。
無論、女性視点で見てもどれほど母性をくすぐられる子どもや男と出会ったとしてもそれは「赤の他人」でしかない。
その上で「いくらお腹を痛めて産んでも愛着はなくなる」「初めからない場合もある」という事も事実であり、それは仕方のない事だ。
個人差があるからそれはどうしようもない話である。
だけど「愛着」がないからといって「子どもに教育しない」というのは「育児放棄」であり、正当な理由にはなり得ない。
「いくら母親でも愛着が湧かないのは個人差があるから仕方のない事」。
それはつまりどういう事かと言えば生まれ持った性質、「生来の部分」の事を主張している。
「目が悪いから眼鏡をかける」
「アレルギー持ちだから食事が限られている」
「脚が不自由だから車椅子を使っている」
そうした物と同じ。
理由などない。
そうした身体で生まれたから、としか言いようがないように「自分の子どもでも愛着が湧かない」そうした精神で生まれた。
「女の主張」だけ聞いても「不公平」だ。
女の主張が「自分ではどうしようもない生まれ持った性質を否定しないでくれ」と主張している。
ならそれに対応する男の主張を考えてみる。
「男は母性を求めている。自分ではどうしようもなく、それは本能だ」
と主張されたらどうするのか。
もっともこれは「男の主張」、というより「子どもの主張」、さらに言えば「男児」側に近いが。
そして「男は母性を求める」というのが「生来」由来の欲求というのなら、「自分の子どもに愛着が持てない」という主張もまた「生来」のもの。
そしてそれはすなわち「子ども」の主張であり、子どもを生むための性行為をした上に中絶を選択せず、出産する事を選択した「母親」が主張するには「恥ずかしい言い訳」なのだ。
だからといって「自分が出産するのを選択したのだから弱音を吐かずに最後までしっかりやれ」とは自分は言わない。
母親だって所詮は人間だから間違いもあるし、弱音も出る。
愛着が持てなかったら「産まなきゃよかった」なんて思いも出てくるだろう。
けれどそうした弱音をぶつける相手は子どもではない。
愚痴として旦那や親、友人、あるいはカウンセラーなどにぶつければ良い話。
「それが難しいから子どもに当たる」という気持ちは分かるが正当性はない。
だからもしも子どもに八つ当たりしてしまったら「恥」を感じて「謝罪」するしかないのだ。
親が子どもに礼儀を払う事が「躾」にもなる。
だけど「愛着がわかないから仕方ない」と言い訳する人間は「子どもに下手に出ればつけ上がる」としか思えないだろう。
そうやって子どもに礼儀を払えないから成長して体格も精神も大人に近づき、力関係が対等、逆転して手遅れになった時こそ「つけ上がる」だけだというのに。
子どもの頃は「気に食わない奴」をイジメてストレスを発散して隠蔽すればそれで良かったかもしれないが大人となり、母親となった以上はそれではいけない。
子どもが気に食わないからといってストレスをぶつければ子どもの身体、人格に影響する。
肉体や精神年齢が低く、そして同程度だから「イジメ」として軽く見られてある程度見て見ぬふりをされてきたが、客観的に「大人」と「子ども」と明確に肉体も精神、そして立場にも差がある状態のイジメは明確な「加害」である。
「子どもの喧嘩」で許されない、強い立場の人間が弱い立場の人間を攻撃する「犯罪」だ。
それでいながら将来は「育てた恩」を「回収」するつもりだろう。
「愛着はないけど成人するまで育ててやった」
それは親として当たり前で自分から主張する事ではない。
「自分の事を成人するまで育ててくれた」
そうやって子どもに思ってもらってようやく尊敬される。
親の所為でコミュニケーション能力が消極的になったり、過度に攻撃的になって仕事に困り、自分が生きていくだけでもやっとな子どもに対して「自己責任」だとか「努力不足」を叩きつけ、「恩返ししてくれない」と被害者ぶる。
自分が恩返しして欲しいと思うならこそ、自分から愛情を与えなければならない。
「愛情を与えない」というのであれば「恩返し」は期待しない。至極普通の事だ。
「愛着」を持てないから「愛情」を与えられない。 もっとシンプルな表現に変えて見ようら、
「好き」じゃないから「無視」する。
自分のエッセイでも何度も語ってきた話だが女が男に、陽キャラが陰キャラに行う迫害だ。
だけどそれは「男女」、「陰キャラ陽キャラ」の見方で見た場合だ。
そこに「親子」を当てはめるのであれば「親」とは「男」であり「陰キャラ」にならなくてはならない。
「女のわがままを受け止める男」のように「子ども」を受け止める。
「陽キャラのわがままに笑って耐える陰キャラ」のように「親」として耐える。
教育や躾を「親の務め」というように「親」とは「仕事」なのだ。
「仕事」において「好きじゃないからこの作業はやりたくない」なんて言いながら「給料」だけはまじめに働く他の皆と同じだけ貰おうとする。
「仕事」ならそんな甘えは厳しく注意され、それに伴いトラブルがあった場合は責任を追求されるだろう。
「愛着がないから愛情は注ぐ事は出来ない」というのは事実である一方で「母親としての責務」から逃れるための方便でしかなく、それを「母性神話」がどうのこうのという言い訳をするのは裏を返せば「息子がもっと優秀なら愛情を注げる」だとか「息子がイケメンなら愛せる」といった他責思考そのものでしかない。
自分も「子ども」の視点から見た時に「自分の親がこんな親じゃなかったら」という他責思考になって考える事はあるがそれは「子ども」目線だからだ。
母親目線も子ども目線の他責思考も等しく「恥ずべき弱音」である。
しかし子どもは「環境」を選べない。「親」を選べない。だから親に対して「愛情」を向けるしか選択肢がない。
その上でどの程度努力するか、それだけが「自分の責任」がある。
だが親は「環境」も選べるし、「子ども」を作るかどうかも選べるし、立場の強弱に伴い愛情を向けるかどうかの選択肢も選べる。
全ての選択で選べるという自由を持つ以上、それに伴い、全てに「自己責任」がある。
大人になって得られる自由度の高さは責任の対価である。
だからこそ夫や親、あるいは身近な人からのサポート、さまざまな公的支援などが存在し、子どものため、母親自身のためにも可能な限り受けるべきであるがどちらにしろ「始まり」とは「女」が精神的に「母親」となる所から始まる。
それは「愛情」を与えるための「条件」を「愛着」、つまりは自分本意の「好き嫌い」から脱却する事から始まる。




