母性神話 「視点」その4
自分の感想とそれに対して反論してきた者とのやりとりを経て、最終的に向こうが思慮の浅さや視野の狭さなどを自覚し反省してきた。
そこから先はやりとりをしていない。
その理由は一通り動画の感想について話がついたという事もあるが、それだけではない。
勿論、自分が相手の謝罪の言葉などに愉悦を感じたなどと言う話でもない。
そこから先は「余計なお世話」になるかもしれない、と思ったからだ。
まず前回の話で経験や知識からなる「視点の偏り」については自分としては肯定している。
肯定はしているが自分が向こう側の事情を知ったのは「自分語り」である。
自分もエッセイで「自分語り」はしているがハッキリ自覚しているのは「自分語り」とは「恥ずかしい」という事だ。
失敗談を語るのは勿論「自分が恥ずかしい」。
成功談を語るのは「聞いてる側が恥ずかしくなる」という事に気付けない自分が「後になって恥ずかしくなる」
けれどそれは結局「自分が恥ずかしくなる」から良い。
名称は忘れたが仕事や趣味、そうしたものの知識や経験が「初心者」〜「中級者」程度の実力者ほどその実力に比例して知識量の多さだとか出来る能力の高さというのをひけらかしたくなる。
そして「上級者」以上になればそうした知識や能力をひけらかす事に抵抗を覚え、謙虚になる、という法則がある。
何故そういう傾向があるか、という話までは調べていないが考えれば大体推察できる。
初心者〜中級者程度の知識や実力を自慢できる相手というのは「素人の一般人」でも何となく理解できる程度の「凄さ」でしかないのだ。
それが上級者以上となると「素人の一般人」では「凄い事」をしているのは分かっても、具体的に「何が凄いのか」は分からない。
だから正確にいえば「上級者ほど謙虚になる」、というよりも実際には「このレベルの事を素人には自慢しても時間の無駄だろう」という人が多くなって「上級者は謙虚」と言う傾向になるのではないかと思う。
まぁ、それはともかくとしてそうした法則から「自慢話をする」と言う事はいくら自分自身を凄いと思っていても実態は「初心者〜中級者」に当てはまる事になる。
そこから成長して名実ともに「上級者」となった時に過去の自分がしてきた「自慢話」が「自分は未熟者です」と言ってきたという感覚に陥り、所謂「黒歴史」となって成功談を語る「過去の自分」を葬りさりたくなるような恥ずかしさを覚える事になる。
かくいう自分も、自分の実力が上級者、というつもりはないが過去のエッセイ、特に初期の頃の何とか格好よく書こうとした「気取った文章」は今見ると勘弁してくれ、と思う部分もある。
問題は「他人の行動によって自分の人生に影響が及んだエピソード」のタイプの「自分語り」だ。
このタイプの自分語りは自分も過去に何度かしている。
それこそ「女嫌いは母親のせいである」という類のエピソードはまさにこれだ。
つまりは「自分には行動の選択権がなかった」という「被害者」の立場である。
しかし「被害者」の意識でいる限り、「恥」を「恥」として捉えられないのだ。
「仕方なかった」「自分にはどうする事もできなかった」
確かにそれは事実であるのだが結局の所は責任を切り分けていけば絶対に「自分が背負わなければならない責任」が出てくる。
理由は「自分の人生」だからだ。
だからこそ「自分の責任」から生じた「不幸」は「自分のもの」だ。
だから自分はエッセイで自分語りをする時、特に「他人の所為で不幸となったエピソード」の時ほど特に「恥」を意識している。
「他人の所為で不幸になった」は事実。
そして「それに対応できずに不幸に落ちた自分の力不足」もまた事実。
つまりはこの手の「誰かの所為でこうなった」と言うエピソードは裏を返せば「自分は子供だった」と言う宣言でしかない。
「子どもだから仕方ない」
「子どもだから恥ずかしくない」
そうやって開き直る事が正当化できる。
だけど開き直る事ができるのは子どもだった「過去の自分」であり、「今の自分」はそうじゃない。
「過去の自分」に寄り添う事は出来ても、「今の自分」にはどうする事も出来ない。
前回語った「動画の感想」を書くにあたり、自分はあくまで「視聴者」と言う場所に立ち返る必要がある、という話と同じ。
そして「自分も親が離婚して母子家庭であり、自分自身も軽度の鬱」と言う「自分語り」をして動画の中に登場した母親に肩入れした事を反省していたが、同時にそれは自分に「同情」を誘う事になっている。
「両親が離婚して可哀想だな」
「鬱を発症して可哀想だな」
自分語りをする時にそうした「同情」を誘う事を意識したのか、あるいは無意識なのかは本人しか分からない。
ただ、自分語りをする前に「恥ずかしながら自分語りをするけれど」と言う言葉と文章の最後に「拙い文章に付き合ってくれてありがとう」の言葉から「自分語りは恥ずかしい事」と言う認識はあるのだと、一応は信用した。だからそれ以上は返信する事はしなかった。
自分が注目した自分語りをするにおいて「恥」だと思う事、そしてそれを書き起こして、見てくれた事に対する「感謝」。
つまりは「罪悪感」を指している。
「同情を誘うような自分語り」についての「罪悪感」がある、と一応自分は判断した。
もしもコレが当たり前のように「恥じる」事なく、堂々と書いていたら恐らく自分は多分さらに責めていただろう。
では「恥」とはなんだろう。
よく「恥知らず」という言葉を聞く。
「結果が全て」、あるいは「弱肉強食」の世の中において「恥」とは「結果を出さない事」だろうか。
あるいは「弱い事」だろうか。
けれどそれを言い出すと「子どもは殺されても文句は言えない」、「未熟な初心者は搾取されても文句は言えない」という事になりかねない。
そもそもそれは「自然の摂理」であり、「恥」ではない。
世界というのは「弱肉強食」。それは事実だ。
だからこそ、他の動物に比べてひ弱な人間は「社会」を作り、「道具」を発明し、「安全」を確保した。
安全を確保するための社会や道具にはルールがあり、規則がある。
そのルールや規則は「安全」のためのものだ。
そのルールや規則を破れば「危険」なのだ。
だからそのルールや規則を破るというのは危険を呼び寄せ、本人のみならず、周りの者にも危害が加えられかねない。
だから規則やルールを破る事は「罪」であり、破った者は「罰」を受ける。
規則やルールを破り、他人を「危険」に晒す事になる事が「恥」なのだ。
危険を察知する上で一番最初に感じる器官は「耳」だ。
恐怖に慄き、助けを求める「叫び声」、敵の侵入を伝える「警笛」、攻撃から逃れるための避難を指示する「警報」。
ただのデカい不快な音。
それ故に「危険」を察知する。
その危険を引き起こしてしまえば他人に迷惑がかかり、結果的に引き起こした本人が周りから危険を起こした存在として孤立する。
孤立を逃れるためには「罪」を認め、「罰」を受け、「恥」を感じながら頭を下げて「許し」を乞う。
「自分語りをする」というのは別に犯罪でもなければルールを破ったわけでもない。
本来なら「恥」を感じる必要はない。
しかし「未熟な自分」を語る事を「恥」としなければそこから成長しない。
「自分は不幸な生い立ちだが、努力によって成功しました」
という人間も多々いる。
そうした人間の多くが「努力至上主義」であり、「自己責任論者」である。
その成功の末に結果として人の上に立った時、部下に対して「自分が出来た努力」を望む。
毒親の元で育ち、苦しんだのに自身も同じように毒親になる。
ブラック企業で働いて苦しんだ経験があるのに、自身も独立して同じようにブラック企業の経営者となる。
「努力」は「怒り」。
自分のための努力はできる。
だから他人に寄り添えない。
自分と同類、仲間としか話が合わないし、合わせるつもりもない。
だから自分の子ども、自分の部下の話は聞かない。
自分と同じだけ努力をしない奴等の話は聞くだけ無駄。
「視野が広い」というのは当たり前だが「普通の視野」を持った上でさらに様々な視点を持つ事を指す。
「普通とは異なる視点」を持つには「特殊な経験」が必要だ。
しかし「特殊な経験」からくる「普通とは異なる視点」しか持たないのであればそれは「視野が広い」のではなく、斜に構えている「奇人変人」なだけだ。
だからどこかそうした人というのは自称フェミニスト、所謂「ツイフェミ」に似通っている。
ツイフェミは「自分達は女性差別を受けた被害者」という盾を持っている。
努力至上主義や自己責任論者も「文句があるなら努力して結果を出せ」、「お前が選んだんだからお前の自己責任」という盾を持つ。
盾とは防御手段だ。
何から身を守る?
と考えるとここに例えて挙げた3者に共通するのは自分の立場で背負うべき「責任」から身を守っている。
ツイフェミは「被害者」として振る舞う事で大人でありながら大人としての責任から逃れる。
ブラック企業経営者、毒親のそれも「従える者を守り、教育する責任」から逃れようとしている。
それでいながらその立場から受ける「恩恵」だけは享受しようとする。
低賃金で長時間働かせるが、トラブルの際守る気はない。
愛情は与えないし、環境も正そうとはしないが、育てた恩だけは高い利息をつけて返してもらおうとする。
男女平等を訴え、女性の権利を高めようとするがそれに伴う責任は「女だから」という理由と「男の癖に」を使い分ける。
ダブルスタンダード、所謂「ダブスタ」なのだ。
責任を取る時は「子ども」となり、利益を得る時は「大人」となる。
そしてそれを「女だから」「努力したから」「自己責任だから」という理由で正当化する。
そしてそうした連中のせいで「本当の被害者」を生む。
過労死。弱者男性。虐待を受けた子ども、その支援。
田舎の過疎化と都心の一極集中の二極化。
高齢社会と人材流出。
我ながらよくもまぁ「自分語り」でここまで話を広げられる、とは思う。
しかしそれだけ「自分語り」とは「恥」であり、「恥」を正当化しようと皆躍起になる。
自分も「エッセイ」として正当化している節もあるから分かる。
だからこそ自分語りをする時というのは未熟さを曝け出す事になる。
書いた後、一日、あるいは数日。
時間が経てば経つほど恥ずかしくて悶えるし、逆に言えば悶えなきゃならない。
それが不用意に自分語りをした罰だ。
そしてその罰を受け入れて、そこに線引きをすればようやく、「今の自分」に戻る術を身につけられる。
良くも悪くも喉元過ぎれば熱さを忘れる。
「恥ずかしい」というものは忘れるかもしれない。
けれど「罪」の意識は持ち続けなきゃいけない。
そうしなきゃ未熟で迷惑をかけていた「過去の自分」とそれを俯瞰して見る「今の自分」の間に線引きが出来ない。
我ながら「小出しにすれば一週間間空ける事も無かったのになぁ」とは思ってる。




