母性神話 「視点」その3
自分の視野は広いわけではなく、偏っていなかったわけでもない。
ただ自分の心が登場人物の視点へ寄り添うために移動してその景色を見た。
そしてその後にそこに留まらず、再度自分の在るべき場所「自分は視聴者に過ぎない」という事を繰り返しただけ。
物理的にも「田舎から上京した事で田舎で当たり前だと思っていた事が特別な事だった」という話はよく聞く。
その「当たり前だと思っていた事」が実は「田舎の魅力」であったり、あるいは「田舎の問題点」だったり。
必ずしも良い事とは限らないが視点を変える事で違う物が見える。
一般的に言われる「視野が狭い」というのはつまり「自分は幸福」だと感じているからだ。
自分が幸福に感じている状態、居心地が良い状態を「それは異常だ」だとは思う事はない。
だから「居心地の良い状態」を共有している筈の仲間から「今の状態は異常で改善しなければならない」と言われると「それは高望み過ぎだ。もっと苦労している人もいる」と言ってその意見を切り捨てる。
「仲間」からの進言だけではない。
「第三者」視点からの忠告も似たように切り捨てる。
そうやって切り捨てた結果、田舎に残ったのはマイルドヤンキー、同じ方言で細かいことを言わずとも阿吽で通じる「察する文化」。
そして「察する能力」の押し付け。
と言いきると流石に偏見丸出しだがおおよそそのようなものだ。
初期の頃のエッセイでも書いた話に繋がる話だが「自分は不幸だ」だと思う人が明確に「自分に不幸をもたらす人」がいれば自分の状態の責任はそいつにある、と「相手」に目を向ける。
そしてそうした明確な相手、責める相手がいなくなれば今度は「環境」に目を向ける。
最後は「自分の努力不足」として「自己責任」。
だからまず「自分が今不幸である」という認識がなければ「視点」を変えられない。
それが「視野の狭さ」であると自分は考えている。
逆に言えば楽しい事にハマる時というのはこの逆だ。
まず楽しいから「自分が努力」する。その事が楽しいから努力する事に不満すら生まれない。
そして今の環境で伸び悩むと不満が生まれだし、「自分がより努力しやすくなるように」と「環境を整える」という事を選択する。
そして最後に自分の相手や仲間に自分に相応しい実力、つまり「相手に努力」を求める。
ゲームでもレベル差のある相手に無双してもすぐ飽きる。
かといって極端に格上に挑んでも詰まらない。
対戦ゲームだけでなく、協力しあって連携をとるゲームでも同じだ。
極端に下手な仲間だと自分がフォローしなくちゃいけないし、極端に上の仲間に入れて貰っても何も出来ないままに勝手に終わる。
適度に自分と拮抗した相手や仲間とやるから気を遣って加減したり、余計な事を考えなくて済むから楽しめる。
肉体的にも同じ事がいえる。
身体に痛みがあれば動きたくない。だから誰かに助けを求め、それが叶わない環境を恨み、結局最後は自分で動かざるを得なくなって痛みを抱えながら動く。
逆に身体が快調にも関わらず動きを制限されたら不満が溜まる。
動きを制限させる環境を恨み、最後は自由に楽しそうに動いている人間に嫉妬する。
だからなんだ?それが前回までの話と何が関係がある?となるかもしれないがそれがあるわけだ。
動画の感想で自分とやりとりをした相手が「偏った視点」を反省していたが「偏る」という事は「間違い」ではないのである。
向こうさんが「母親視点」に寄り添ったのは「自分自身が母子家庭で自分も軽度の鬱」であるという事によって母親側に「偏った」。
偏った事で動画の中で「夫からモラハラを受け、長男からも女叩きを受け、鬱になった母親」に「寄り添う」という「優しさ」を持つ事になった。
よく「辛い経験をした人ほど優しい」と言う話というのはこの流れ、「視点の偏り」がまずスタートとなる、と自分は考える。
その上で「自分の立ち位置」が「被害者自身ではない」と自分の立ち位置に戻る。
しかし「被害者の立ち位置」と「自分の立ち位置」を行き来しただけでは「贔屓」になる。
だから「加害者の立ち位置」に向かい、「言い分」を聞く。
そしてそのための「立ち位置の移動の仕方」は「偏り」と同じである。
「偏った視点」、「立ち位置の移動」のやり方は知っている。
けれどそれが反対側の立場の人間に対して行う事が出来ないのは「その立場が居心地が良い」からである。
けれど、いくら寄り添った所で「第三者」である。
「自分は当事者ではない」という自覚をしない限り「似非当事者」としてそこから動けない。
当事者側に立つ限り、相手は「敵」でしかない。
けど、「第三者」である自分にとってその人は「敵」ではないし、「味方」でもない。ただの「他人」だ。
自分に危害を加えたわけでも、あるいは救いの手を差し伸べたわけでもない「他人」を「敵」、あるいは「味方」に分けるのは自分が「気に入ったかどうか」。
過去のエッセイでも書いたが自分が女を嫌うのは「母親」の姿から「女の嫌な部分」を長年見続けてきた事とそれを父親から「男なんだから我慢しろ」とそれを子供ながらに許容しなければならなかった事。
その上で学校で出会った同級生の女子などからも「嫌なイメージ」の方が強く印象に残った。
だから自分は「女は気に入らない」。
だけど世界の半分は女であり、世の中で出会う大多数の女から別に何か嫌なことをされたわけじゃない。
同級生の女子から嫌な事をされた、という事にしたってごく一部の女子でしかない。
殆どの女子は別に自分に攻撃してきたわけでもないし、仲には親切にしてくれた女子だっている。
「女の事は気に入らない」
それは母親から始まり、嫌な部分を突きつけてきた女がいるからその自分の気持ちを否定しようがない。
だが母親と嫌がらせをしてきた女子を除けばそれ以外の女とはあくまで敵でも味方でもない「他人」。
だから「男」 として「女」に接するのではなく、「人間」として「他人」に接する。
考えれば別になんてことはない当たり前の事だ。
けれどそれを「考えられない」から「自分の立ち位置」を見失う。
「スピード重視」だから。
それは「公平性」や「整合性」を蔑ろにしているから。
「行動力重視」だから。
それは「思考」や「観察」を蔑ろにしているから。
「好み重視」だから。
「実用性」や「多様性」を蔑ろにしているから。
そしてコレら全ての理由が「子どもだから」で理由がつけられる。
子どもに物事を公平に見る事、整合性を取る事は出来ないわけではないだろうが、難しいだろう。
また子どもに深い思慮な鋭い観察眼を求めるのも難しい。
そして子どもに実用的だからとダサいものを押し付けても使わないだろうし、多様な物に触れる事を求めてもやらないだろう。
子どもだから落ち着いていられない。
子どもだから許される。
そして子どもだから許されなければならない。
そしてこちらが大人なら子ども相手なら許さなければならない。
大人であっても全てを均一にバランスを取ることは難しい。
しかし、そもそもバランスを取ろうともしていないことが問題である。
「基準」を持たない。
「終わりよければ全て良し」としてしまう。
そうやって強引に終わらせようとする人ほど、その過程で自分に大きな被害を受けたとしてもそれで済ませられずに引きずる。
「終わり良ければ全て良し」はあくまで評価する側の匙加減であり、許容だ。
「第三者」視点での見方である。
全てをまとめる「リーダー」「指導者」「上司」「親」はそれではないけない。
部下や子供が抱える「不満」に聞く耳持たずでは蓄積していずれは「恨み」となって立場が逆転した時に見捨てられ、あるいは恨みをぶつけられる。
それは動画の「母親」が「長男A」にした事であり、もしかしたら「長男A」がしていた「女叩き」こそが「弱い立場のAがそれまで母親に対して溜め込んできた不満」だったかもしれない。
話がズレたが「偏る」というのは悪い事ではない。
ただ当事者でない以上、元の場所に「戻る」という事は考えた上での「偏り」でなくてはならない。
スポーツでもまず「構え」がある。
ボクシングなら「構え」→「パンチ」→「構え」
野球のバッティングでも「構え」→「スイング」→「構え」
勿論、ボクシングならワンツーのコンビネーション、野球ならバットを振ったら即座に一塁へ走る、という風に必ずしも一つの動作をしたら戻れる暇というのが実戦ではない場合が多い。
しかし練習としてその動作を身につけるために「反復練習」をして無駄を無くす。
結局のところ、「動画」を含めて「自分が当事者でない物」というのは「自分」にとって全て「仮想体験」である。
「感想」とは「自分ならこうした」という話。
「もしも自分がこうした状況で当事者になったら」という事態に備える「練習」である。
自分が3つの視点で考えたのに対して、相手は1つの視点。
それは相手が「満足」したからだ。
「母親側の視点に寄り添う」という事が居心地よく、本来あるべき「視聴者」の視点に戻らなかった。
何故戻らなかったのか。
「母親に女叩きをして追い込んだ長男A」が「気に入らない」から。
「パンチ」をしたら「構えに戻る」
そうしないと「次」のパンチが打てないからだ。
「バット」を振ったら「構えに戻る」
そうしないと「次」のスイングができないからだ。
それと同じように「誰かに寄り添った」場合、「自分の在るべき場所に戻る」の練習をしていない。
そして「自分が当事者でない事柄」に寄り添うという事は「自分が当事者だったら」という「仮想」であり、
戻らないからもう一度「誰かに寄り添う」という事が出来ない。
この「構え」に戻るというのは結局のところ、「ルール」「規則」を守る、という事に通じる。
玩具を出して遊んだ後は片付ける。
部屋から出る時は点けた電気を消す。
「ON/OFF」の切り替え。
「ON」の時は「自分のため」にONにする。
「OFF」の時は「他人のため」にOFFにする。
「誰かに寄り添う」という「自分が望んだ行動」によって「全体が見えなくなる」
「全体を見渡すため」に「自分の本来いるべき場所」に「戻ってくる」
言い換えれば「自分の行動」の「否定」が「構えに戻る」である。
「このパンチなら絶対に相手は倒れる」
だから構えに戻らなくても良い。
「このスイングならホームランだ」
だから構えに戻らなくて良い。
だけど実際は必ずしもそうはならない。
パンチに防がれるかもしれない。回避されるかもしれない。そうやって耐えられた後にカウンターで攻撃されるかもしれない。
スイングは最高の感覚でも球に当たらないかもしれない。ホームランだと思ったらヒットの当たりですぐに走り出さなきゃいけないかもしれない。
追撃を加えなければならないかもしれないから「構えに戻る」。
逆に相手の反撃から身を守るために「構えに戻る」
相手が隙を伺っているのか、それともダウンしたのか分からないから観察するために「構えに戻る」
「自信」をもって攻撃を繰り出す、活動を始めるまでは良いがそれを終えた後はその「自信」を消さなくてはならない。
「自信」を持ち続ければ「慢心」となり、「油断」を呼ぶ。
かといって「自信」を持てずにいればそれはそれで「守っていれば負けない」という「慢心」となり、攻め込まれてしまう。
「自信」を付けるためにトレーニングや練習に励む一方で、「自信」から生まれた「慢心」を消すためのトレーニングや練習でもある。
そしてそのON/OFFを理解させるため、俯瞰して評価し、「褒める」「叱る」を行うのが親であり、教師であり、上司。指導者というもの。
自分は動画の中の汲み取った情報から考えた考察に自信を持っているが、情報が少ないからそれが合っているかは分からない。
だから「可能性」という言葉を多用し、あくまで動画の中から情報を得た「視聴者」というスタンスを崩さない。
考察するために、それぞれの視点に寄り添う事はあっても自分の場所はそこではない。
勿論、その上で様々な経験や知識を得なければ深い思考は出来ない。
だが「視野を広げる」という意味ではやるべきことは「自分の場所」をハッキリ理解する事。
それが第一歩だと思う。




