母性神話 「視点」その2
前回の続きを経た上で「女叩き」に戻るが「女叩き」の最たるものは「不公平感」に尽きる。
つまりは「男女平等」をうたいながらも現実的に見た場合「女性優遇」な部分が社会に多い。
勿論、「政治家」や「経営者」などの「上流層」とも言える人間になると男が圧倒的になる。
しかし「中流以下」となるとその「男に偏った上流」に評価されるために「実力」で勝負しなければならない「男」と「実力+媚び」で勝負できる「女」とではやはり差が出る。
前回、自分の「母親に問題があるかもしれない」という感想が腑に落ちなかった相手は一つ「仮説」を立て、それを否定する事で自分の感想に対して反論するような返信をしてきた。
「仮にAが女叩きを始めた理由が母親からの夫から受けていたモラハラのストレスの八つ当たりだとしたら」という仮説に対し、自分の場合は「母親」「弟」「A」のそれぞれの視点で考えたのに対して向こうさんは「母親の視点」しか見ていない。
という事はつまりそれこそ「不公平」で「女叩き」に正当性を与えてしまいかねない。
「女叩きをする輩」というのは「法の下で男女平等の筈なのに実際は女性優遇、男性蔑視で不公平」という事を盾にして「女叩き」と言うものを展開し、正当化するのだから。
過去のエッセイでも語った事があるが「現場」に居合わせる「当事者」ならそれでも構わない。
「それでも」、というのは「相手」の「1つの視点」の偏った考え方、「スピードを重視」をする事だ。
争いやあるいは事故で冷静に「判断する者」が必要であり、身体的、あるいは精神的に傷を負った者に「寄り添う者」が必要であり、そして敵対する者がいたら「共に戦う者」が必要だ。
だからもしも自分や自分に返信してきた人間がこの動画の状況に居合わせていたのなら「寄り添う者」や「共に戦う者」となっても問題がない。
むしろその場合、自分の「3者視点」を考えて行動に移すのが遅れるよりも「1者視点」でスピード重視の方が手遅れにならずに済み、結果的に最善の手になる場合すらある。
「現場」で「リアルタイム」の「当事者」だからこそそれは一方の陣営に寄り添うのは許される。
しかし「視聴者」と言う当事者に介入出来ない人間が「仮説」を立ててそれを否定、肯定する「議論」をするとなれば一方の陣営だけに寄り添うのはやはり「優遇」としか言えない。
結果としては向こうさんは「母親がAに八つ当たりをしたからAが女叩きを始めたかもしれない」と言う、最低限「2人」の登場人物が出てきている仮説に対して「母親視点」だけを述べる事で例え仮説自体は「母親は八つ当たりなんかしていない」と言う結論が正しかったとしても「片側だけの肩を持つ」、「女優遇」を示しかねない意見を述べた事になる。
それでは男女平等とは反する「不公平」を示した事になり「女叩き」の正当性を自ら示しかねない意見と言う事になる。
別にそれで向こうさんを責めるつもりもなければ自分が正しいと言うつもりもない。
向こうさんが「仮説」を否定するために「母親」と言う片方に寄り添った。
寄り添った事自体は悪ではない。
「母親」には「離婚のために協力してくれる近所の人間」がいたから「モラハラで鬱になった母親」は救われた。
「母親」にはそうやって「寄り添う人」がいたかもしれないが果たして「A」にそれは居たのか?と言う話なのだ。
Aは「陰気な性格」と敬遠された。
それは掲示板に書き込んだ幼馴染だけではない筈だ。
クラスの多くがAに対して腫れ物に扱うようにして遠ざけ、それが当たり前だった。
「大人しい」や「変わっている」ではない。
「陰気」だから。
そして小学校6年になって「女叩き」をして「ワルそうに振る舞う」事でようやく存在を注目された。
そして「父親」がモラハラ、「母親」から見捨てられる。
それでAが「荒れた」のであればもしかしたら寄り添ってくれる者が「いたのかもしれない」と言う可能性も出てくる。
「自分のもの、自分の権利を奪われた」と思うから「荒れる」のだ。
「子どもの自分に寄り添ってくれるのが当然と思っていたが母親に捨てられた、裏切られた」と言う「母親への甘え」が前提にあるからだ。
問題はAが「陰気な性格に戻った」のだ。
「母親に見捨てられた状態」が「女叩きをする前の状態」と同じだから女叩きを止め、再び陰気な性格に戻った「かもしれない」。
あくまで可能性の話。
だけど充分にあり得る。
そしてそうやって考えると母親がモラハラする父親と女叩きを自分にも向けてくる長男のAから救われたようにAもまた「救わなければならない存在」である。
あくまでも「可能性」の話だが
パッと見た目には分からない、ただ行動するだけではどうにもならない。
「思考放棄」をすれば「救えない人」もいる。
だから第三者は公平に考える必要がある。
自分は自分に出来る範囲で様々な視点に立って考えてみた結果「母親に問題がある可能性が高い」と言う結論に至ったけど、返信してきた貴方はどうなの?
考察を全て書けば長くなりすぎるから「自分が考えたポイント」だけは指定して書いて置いた。
母親がモラハラと女叩きの被害者、それは否定のしようがないけれど、そうやって考えた上で「感想を述べる場」で「憶測なら何とでも言える」と突っかかってきたのか?
「ちゃんと考えて感想書くつもりある?」
その人を個人的に責めるつもりはない、とはいえ動画の感想欄が「母親可哀想」のスタンスで「Aの自業自得」「父親が悪い」と言うものばかりだったからこそ1年前の動画とはいえ、今更「母親に問題があるかもしれない」と言う「自分の考え」を「感想欄」に向けて投稿した。
感想欄の中は「母親可哀想」に溢れかえっていたとはいえ、極小数ではあるが「女叩き最高!」「Aは自業自得ざまぁすぎる!」と言った悪意に溢れた感想もあった。
内容そのものは褒められたものでもないし、肯定する気はさらさらないが動画を「娯楽」として視聴し「感情をそのままに書き込む」と言うものでは一貫している。
「母親可哀想」のスタンスは「考えている風で考えていない」。
結果論で起きた事だけを書き込む。
これでは「褒める」の話で何度か例にした「田舎のラジオリスナー」の「テンプレメッセージ」のスタンスと変わらないのだ。
「気に入っている」から「褒めちぎる」
「気にいらない」から「怒鳴りちらす」
子どもでも出来る褒め方、あるいは叱り方。
「自分から見た視点」で褒めるか叱るを判断するやり方。
その判断の仕方を「自分が肩入れした者視点」で見ているだけ。
だから向こう側が「母親に入れ込みすぎている」というのは簡単に予想がついた。
そしてそれを指摘すると「実は自分の家庭も離婚して母子家庭で自分自身も軽度の鬱」という返事が来た。
それ以後はやりとりを終えたが母子家庭で母親の苦労や鬱の苦労を知っているからこそ「母親に問題がある」という自分の説は気に食わなかった。
だから最初に突っかかって来た時に「憶測なら何とでも言える」と喧嘩腰だった、という話。
その後は自身の「偏った見方」や「視野の狭さ」を反省していた。
そこから返信しなかった理由は別にあるが相手の認識に間違いがある。
まず、「偏った見方」だかそもそもこんな1年前の動画を今更見て、そこの感想の多くの人間が書いている感想とは真逆の意見を書いた時点で自分も大分「偏っている」のは間違いない。
そもそも自分の過去のエッセイを見ればわかる通り、自分自身の親を毒親として書いたり、日本人の女嫌いは母親が原因がある、といったふうな事を書いたりしている。
間違いなく自分は「偏った視点」の人間なのだ。
実際、向こう側が「母子家庭と自分自身が軽度の鬱」というフィルター越しにみたように自分の中では最初から「本当にAが悪いのか」という疑念の目で動画を見ていた。
それは自分自身にとっての「毒親」と「女嫌い」の経験から来る物もあったし、他にも人生相談番組で耳にしてきた「旦那と別れたいが子どもがいるから分からられないという専業主婦」の相談者の本音が「働きたくないから別れたくない」という物であったりする女性などを聞いていた事も影響している。
最初は自分も向こう側と同じように偏った見方でみていた。
では自分は視野が広いから仮説についてAだけの視点ではなく弟視点、そして母親視点でものを考えられたのか。
それも違う。
確かにエッセイを書く事で日々の些細な事に心が向くようになり、普通の人より多少は視野が広いかもしれないが誤差の範囲だ。
視野の広さは大した差はない。
では仮説に対して「3つの視点」で考えた自分と「1つの視点」でしか考えられなかった向こうさんとの違いは何か。
「知識量」か?
確かにそこも差はあるが結局のところは自分はただの農家で専門的に研究したわけでもない。
大した話ではない。
答えは「自分の立場を理解しているかどうか」だ。
シンプルな話だ。
自分も向こうさんもただの「視聴者」だ。
自分達がどれだけアレコレ考えたり、寄り添ったり、あるいは罵倒しても動画の中の母親は離婚してAを見捨てた事実は変わらないし、Aは女叩きをやめない。
そもそもリアルタイムですらなく、全ては過去の話である。
「感情移入」は娯楽として映画なとのフィクション、あるいはスポーツ鑑賞などを楽しむ上では非常に有用な能力だ。
動画の「感想」を書く上でも勿論それは大事なのだがその結果が「一つの視点」しか見えていない。
それは自分も同じ。
最初は「この手の話は大抵母親に問題がある場合が多い」という疑念を持った「偏った目」を向けていた。
だから逆にAに寄り添う事になり、「A視点」で考えた。
けれど寄り添って考えた所で情報が少なすぎる。
何故なら「動画の視聴者」だから。
「掲示板に書かれた情報」はあくまで「Aの幼馴染視点」である。
だから「幼馴染視点」に寄り添う必要がある。
そして「母親視点」に寄り添い、情報が少ない「父親視点」「弟視点」に寄り添う。
物理的な肉体で「誰かに寄り添う」にはその人のもとへ近づくために移動する必要がある。
それはつまり自分が本来いた位置にいないという事だ。
誰かに寄り添うために移動した事で自分がいた場所からは見えない景色が見える。
なら更に他の誰かの所に向かえばさらに別の景色が見える。
その場その場で「綺麗」だとか「迫力がある」だとか「感想」は出てくる。
けどそうやって移動したら最後は「自分がいた場所」に戻ってくる事でフラットな目で総括して個々の景色を評価できる。
「戻ってくる場所」があるから「また行きたい」とか「今度はコッチに行きたい」という「次回」について考える事ができる。
だから精神的な意味での「寄り添う」のも同じ。
特定の誰か、あるいは思想に近づく事で物事の見え方は変わる。
けど総括するためには様々な人、思想、あるいはキャラクターに寄り添う事でしか総括できない。
そのためには最後に戻ってくる「自分の立ち位置」を把握しておく必要がある。
自分は「視聴者」である。
どれだけ感情移入して特定のキャラクターに寄り添っても最後は「視聴者」という立ち位置に戻って来なければならない。
その立ち位置をしっかり把握できていれば自分が最初に寄り添う事を決めた対象とは異なる対象へ寄り添う事も出来る。
自分が寄り添った所で動画の中は何も変化しない。
ただ、自分の心が動くだけ。
だから動いたら戻る。
自分の視野は広くない。
自分の心が動いたから様々な視点で物事を見る事ができただけ。
そして最後に自分の心が在るべき場所に戻ってきたから「自分の考え」を出せる。
「母親」が「離婚してAを引き取らない」という決断をしたのも「母親の考え」であり、だからそのために「近所の人」に離婚のための協力を求めた。
父親はモラハラして離婚した。
Aは女叩きをして母親にもその矛先を向けた。
弟は母親に引き取られた。
幼馴染はそのAの家庭を第三者として見ていた。
明確に「他人に何かを求めた」のは動画の中では「母親」だけなのだ。
母親だけが自ら心を動かした。
他の登場人物はただ母親が作り出した流れに流されている。
流れを作ったから加害者、というわけではない。
しかしこの「流れを作ったのは母親」というものも「自分は視聴者」という立場を理解しなければ見えてこない。




