基準 その2
「褒める」の話のためにちょっと触れるつもりだったが考えれば考えるほど「基準」をテーマにするのは奥深く、話が没になり結局10月になってしまった。
片手間にやるものじゃなかった、と後悔している。
基準が何故必要か、と言えば単純に「責任を負う覚悟」のためだ。
基本的に人間は好き好んで責任なんか背負いたくない。
ましてやそれが他人の行動について自分が責任を負う事になるなんて可能なら避けたい。
しかし上司は部下のやった事の責任を取らなきゃいけない。
親は子どものやった事の責任をとらなきゃいけない。
「何故こんな事をした!」と怒鳴るのは簡単だ。
けど怒鳴った所で何も解決しないし、部下も子どもと萎縮するだけで成長もしない。
結局、トラブルを引き起こす前に備える必要があるし、引き起こしたあとは反省して今後に生かす必要がある。
そして「ホウレンソウ」と言うのが昔からあるくらいに「報告」「連絡」「相談」というのが基本的だ。
一部の例外を除けば大抵の部下は上司にホウレンソウをしている筈だ。
それに対して「基準」を持った上司ならその時点での選択は「許可する」「許可しない」になる筈だ。
しかし「基準」を持たない上司は「無視」する。
「誰からも文句をつけられないレベルのもの」以外にはケチをつけ、「許可」も出さない、かといって「許可しない」という明言もしない。
「自分が部下の行動に干渉した」という責任を負いたくないからこそ、無視する。
結果として「期限」を守るために焦って強引にことを進めようとして大きなトラブルを発生させる。
あるいは「仕事の完成度」を完璧なものにするために期限を無視して失敗する。
上司としては後からどうとでも立ち回れるように責任を回避する立ち回りをした筈であっても結局、そんなものは言い訳でしかない。
ホウレンソウに曖昧に答えようがなんだろうが上司は部下の責任を一緒に背負わなきゃならない。
責任を背負うから上司としての権力と高い給料を払っている。
「褒める」にしても「許可」にしても「責任」を負う必要がある。
時間的な基準、作業的な基準、金銭の基準。
様々な基準があり、基本的にその範囲で活動するのは社会人は勿論、子どもでも同じだ。
そしてもしもその基準を越える場合には前もって許可を取り、その許された範囲で活動する。
自分が例えでよく使う「100点」。
当たり前のように使ってエッセイで書いているがこれは所謂「100点満点」を指し、これは「上限」という許可された範囲の中のものである。
そして本来なら数値化出来ないものを「100点満足」で表現するなら、例えば料理の美味しさや絵画の美しさなどについては「非の打ち所がない満足」を意味する。
「お客様」として出向き「100点満点」を求めるのは分からないでもないが結局のところ「自分が支払った額相応」のサービスなら満足である。
なら「支払った額」に対して「相応なサービスかどうか」の判断はどうやって決めるのか、となると結局それまでに自分が体験してきたサービスから判断する事になる。
10000円支払って他所では5000円の位のサービスと変わらないなら不満だが、1000円支払って他所で2000円程のサービスを提供されたら十分過ぎる満足ができる。
勿論、1000円払って1000円相当のサービスでも値段相応であり、それなりの満足がいく。
この支払った値段に対して返ってくるものがそれに満たない場合、不満が溜まっていく。
支払った金額が基準となり、そしてその基準に相応のリターンがどの程度のものか理解していなければ基準など生まれない。
では仕事ではどうか。
部下に対して仮に「100点満点」の非の打ち所がない成果を求めるなら上司はそれに見合うものを支払う必要がある。
それが上司として最低限だ。
ところが実際には仮に指示通りに求めた「100点満点」で部下が返してきたとしても不満顔の上司がいる。
「社会人は100点を取って当たり前でそれ以上を取らないといけない」という話がある。
「100点満点」を求めながら実際に「100点」で不満な上司というのは当たり前に「100点以上」を求められてきた時代に過ごしてきた。
言いたいことはわからないでもない。
しかしそれなら何故日本は「上限は100点」というものが当たり前の学校生活を送ってきたのか。
学生、というより義務教育の経験がある日本人なら最終的な「成績」はテストの点数だけで決まらないのは理解している筈だ。
勿論テストの点数は最終的な成績で大きなウェイトを占めるが「授業態度」や「提出物」なども評価対象だった筈だ。
それらを含めて最終的な成績となる。
仮にテストで100点でも授業中は寝ていたり、暴れたり、提出物は期限が遅れるのは当たり前、紛失も平気でする。
そんな人間は最終的な成績がテストの点数だけ評価されるよりも下がって大抵の場合「テストだけで成績が決まれば良いのに」と思うだろう。
逆にテストの点数はソコソコでも授業も提出物も真面目にこなす人間からすればテストだけで決まれば困る。
1つの項目だけで決まるほど才能が有利に働き、複数の項目で決まるなら真面目な人柄が有利になる。
「上限が100点」というのは才能がある人間にこそ「努力をさせる」ために必要な制限である。
いくら才能があっても努力しなければいずれ限界が来る。
伸び代が大きければ大きいほどそれを引き出すには努力が必要になる。
才能に溢れた人間を伸ばすため、才能がある人間には必要ない「努力」をさせるための教育が減点式だと自分は考えている。
しかしその減点方式で何故才能を腐らせたり、あるいは潰してしまう事があるのか。
それが社会人なら求められてきた、少なくとも10年くらい前には当たり前のように言われてきた「100点以上」という考え方だ。
基本的に言っている側は「上限はない」と言う意味で100点以上という言葉を使っているつもりなのだろうが、実際は逆だ。
「上限が100点」というのが言う側、そして言われる側に基本的な日本の常識として備わっているのが前提としてある上でそれ以上の満足度を寄越せ、という事を言っている。
ようは上司がケチくさいのだ。
そんなケチくさい人間が何故人の上に立てるのか。
お金を使わない、という意味では「最小限のパワーで最大限のリターンを得る」という事ができる人間そういう人は「普段はケチだが力をかけるべき場所には惜しみなく力をかける事ができる」という人が多い。つまり倹約家だ。
「使うべき額、使うべきタイミング、使うべき場所」という基準がしっかりしているからそういう采配ができる。
ケチくさい人はそうではない。
「自分が気持ち良くなるために力を注ぎ、結果としてかけるべき部分に力が回らないから人出不足やコスト不足を精神論で有耶無耶にする」
まともにやれば相応の報酬を得て自分の能力に見合った満足を得ることができる。
それでは足りないのだ。
ケチくさい人間は使うべき基準を理解していない、お金を使わないどころか浪費家である。
お金、とは過去の象徴。
だから時間と労力だけの根性論に行き着く。
才能がある人間は「最終的な成績」がテストの点数で決まらない事に不満を抱く。
「何故不満なのか?」を突き詰めると努力のための「時間」や「体力」を惜しんでいるからだ。
だから逆に「時間」と「体力」を消耗するだけの「価値」や「利益」があると天秤にかけてそれが自分にとってコスパが良い、と判断すれば割り切って全力を注ぐ。
一方でケチくさい人間は「自分が優遇されない事」に不満を抱く。
だからそもそも「平等」なことが気に入らない。
「頑張っている自分」、「苦労している自分」がまずある。
気持ちでは100点満点の努力をしているが実際は80点止まり。
10000円払ったのに8000円程度の成果しか出てこない。
そんな自分の横を見れば大した努力をしていないのに100点の奴がいる。
それは気に入らないし、「平等」と思いたくないだろう。
つまりは「才能」などの人にはどうしようもないものに嫉妬している。
仕事や勉強は勿論、スポーツ、顔、身長。
ただ「才能」に関してはどこかのタイミングで「諦め」がつく。
問題は「努力」そのものだ。




