褒めるスタンスと叱るスタンス その3
「叱るスタンス」でも勿論それはそれで良い。
けれど先のエッセイで例えにした「100日後に80点を取る」という目標を例にすると
褒めるというのは時間的、あるいは体力的に「余裕」があるから出来る事。
70点だった人間が50日時点で76点取れるようになった。
この調子なら大丈夫だから褒める。
60点だった人間が80日を経過した時点で80点に上がった。
この調子でさらに上を目指そう、と褒める。
「まだ時間と体力に余裕があるからこそ褒める」。
逆に言えば「もう時間がないからこそ叱る」。
「叱るスタンス」というのは「余裕の無い状態」に常に触れ続ける事になる。
「100日前にあれだけ今回のテストで80点を取れるように努力しろって言ったのに」
という気持ちになるだろう。
けどそんなのは当人だって分かっている。
分かっているけど素振りだけしてホームランが打てたら苦労はしない。
そして「叱るスタンス」で「褒める機会」を作らなかったという事は「素振りし続ければホームラン打てるから素振りしろ」と言っているようなものだ。
結局80点を取ったのは元から80点以上を取っていた人間と80点にあと一歩か二歩だった人間。
そして80点に達しなかった人間を怒鳴りつけ、切捨てる。
コレが学校のテストの話に限った話ならともかく、仕事の場合はその80点に到達した人間だけで仕事に当たる事になる。
80点未満は使えない。
少数精鋭であり、同時に人手不足。
そんな中で「叱るスタンス」であり続けると余裕がないからこそ「些細なミス」を許せなくなる。
次第に80点未満はいらない、というのが基準だったのが85点未満はいらない、90点未満はいらない、95点未満はいらない、100点しか求めない。
そしてそうなると切り捨てられまいと「媚び」を売り、「不正」する者が増える。
その不正をする者を厳しく罰するのであれば良いが、その不正を受け入れてしまった上司は真面目に頑張っている者からすれば裏切り行為だ。
「叱るスタンス」は受け身であり続けるために「余裕」が無くなり続ける。
「余裕がなくなり叱る事すら諦める」から「叱るスタンス」より「褒めるスタンス」であるべきだと自分は思うわけだ。
ところが「自分に厳しくあり続ける」のであれば持ち込まれたもの全てに厳しく叱り続ける事ができる。
それは自分から褒める機会を作り出して「褒めるスタンス」と結果的に同じ事になる。
だから社会的な成功者で「他人に厳しい」という人間はそれ以上に「自分にはもっと厳しい」。
他人からの「媚び」や「不正」を断じ、「理想」を求め続ける人間だからこそ「叱るスタンス」は発展し続ける事が可能である。
「叱るのが面倒くさい」と思わない。
「諦めて直接的な害がない限り見捨てよう」と考える事もない。
「叱るスタンス」を最初から最後まで一貫してできる人間だから成功につながる。
だけどそれは「才能」と「人格」と「環境」、あとは「運」だとか様々ものに恵まれた人間だけが出来る。
例え嫌われて「孤独」となっても自分の信じた道を歩み続ける覚悟があるから他人を叱り、自分にもっと厳しくできる。
そんな覚悟がある人間がリーダーを張るからカリスマ性があり、オーラがあるから皆が憧れる。
けれどそれは凄く辛い。
「手を抜きたい」
「甘えたい」
「嫌われたくない」
「孤独は嫌だ」
そんな気持ちがある人間が悪いとは言わない。
ごく普通だ。
だから普通である以上「例え嫌われても他人に厳しく、例え独りになったとしても自分にはもっと厳しく」という普通ではない事をやるというのは矛盾しており、無理な話だ。
大多数の人間は「普通」、あるいは普通以下なのだ。
千尋の谷に子どもを突き落とすほどの覚悟もなければ自分自身だってそこから這い上がった獅子でもない。
千里を行ってさらに千里を戻ってくるような虎でもない。
ましてや龍でもなければ巨人でもない。
怪物でもなければ悪魔でもないし、神でも仏でもない。
レジェンドでもなければスターでもない。
独りで生きていけないただの人間。
時に褒められながら、時に叱られながら、
真剣にやる時もあれば手を抜く時もある。
死ぬ気の覚悟もないし、かといって世界のトップ、王者になろうとするほどの志もない。
生きてきてたまたま人の上に立てる役割を貰っただけの「普通の人間」。
「他人に期待するだけ無駄だ」
つまりそうやってわざわざ口にしなければならないほどにどうしようもなく「他人に期待してしまう」
何故期待するのか。
「自分を助けて欲しいから」
他人に期待する、すなわち自分独りではどうしようも出来ない。
わざわざそれを「他人に期待するだけ無駄」と言うのは「他人に対して諦める」事である同時に「自分の目標も諦める」と言う事に他ならない。
「普通の人間」だからこそ「他人に期待する」。
「他人に依存する」と言うものと「他人に期待する」のは違う。
自分が楽をするために「他人に依存する」と言う事と自分が楽に判断するために「他人に対して諦める」事は両立しない。
楽をするために「依存」するか「諦める」のだ。
どっちかに振り切れる以上、もう片方は捨てるしかない。
しかし「他人に期待する」ことと「怒りを制御する」は成り立つ。
他人が成功し、成長するのを期待できる。
その期待のため、つまりは他人の成長のために自分の怒りを制御する事は自分と相手の目標、目的が異なるために相互に努力してそれぞれのゴール地点に向けて助け合う事を意味する。
そして他人を褒める事は自分の手駒として使うためであり、他人を叱る事は自分の責任である。
そして他人を成長させるのは自分の目的のため。
表現の仕方は悪いが結局「独りでは生きられない」と言う事は「他人を利用する」ことでもある。
そのためには上下関係に限らずお互いがお互いに期待し、期待する以上は褒め称え、期待するからこそ叱りつけ、叱る事がお互い様だと理解し合う事で素直に受け入れる。
その素直に受け入れるためには細かく確認が必要であり、その確認のためにお互いの理解度を擦り合わせる必要がある。
一方的に指示を出し、一方的に押し付けるのであれば機械やAIでいい。
昔と違う。
生きるだけなら「人の上」に立つ必要はない。
だけど「人の上」に立つ事を選んだ。
機械やAIに命令を与え、ボタンやスイッチを押す事ではなく、人間を相手にする事、人間を育てる事を選んだ。
人を育てる事を選んだ以上、「嫌われて孤独になっても他人にも厳しく、自分にはそれ以上に厳しくあり続けて叱るスタンス」を取り続けるか「積極的に機会を作り出す褒めるスタンス」の2択しか成功の道はない。
「嫌われたくない、かといって自分から積極的に機会をつくるのも面倒くさいからとりあえず来たものを判断して叱るスタンス」では絶対に成功しない、と言い切れるほど自分は世界を知らない。
しかしこのご時世、部下として有能であればあるほどそんな人間の下からは去っていく。
それを考えれば普通の人間が「消極的な叱るスタンス」であるのはあまりにも運任せ過ぎる。
「やるか、やらないか」
部下に「やる」事を求める。
積極的に行動し、積極的に挑戦する事を求める。
なら上司として「褒める」と言うスタンスを取り続けるしかない。
積極的に褒める機会を作り、そのために部下の実績を判断し、目標を作り、行動を決める。
「嫌われたくない、孤独にもなりたくない」
口にすれば格好悪い人間だけどそれが普通である。
そして人に期待してしまう普通の人間である以上、その格好悪さ、普通っぽさを捨てる事ができない。
「自分はヒーローに成れないごく普通の一般人」である。
だから相手を「褒める」しかない。
相手の足りない部分は「目標」として切り替え、そのための行動を「優先順位」として示す。
それでも時間が足りない、体力も無い時に叱る。
「褒めるスタンス」であろうとしたのに「叱る」という選択をとった。
褒める機会を作ったのに叱る事しか出来なかった。
自分の力不足。見極めが足りなかった。
部下の責任ではなく、「褒める」事を誓ったにも関わらず時間と体力が足りず「叱る」事しか出来なかった。
もっと部下に「万全を期す」という状態を作らなけれならない。
「万全を期す」というのがどういう状態を示し、
「万全を期す」ためにはどうするべきかを示す必要がある。
そのために部下にはもっと仕事や勉強を「好きになってもらう」という事が必要になる。
そのためにはもっと「褒める機会」を作らなければならない、とまたスタート地点に戻ってくる。
もっと自分が部下の事を考えなけれらならない。
部下に期待する。
上司の自分を助けてもらうため。自分の優秀な駒として。
そのために自分の力がある。
部下を成長させるために自分の力を注ぐ。
自分が棋士、部下は駒。
自分が将、部下は兵隊。
いくら強力な武器を与えられても操る人間がダメなら全てダメ。
そしてどんな劣勢でも上に立つ人間が優秀なら立て直せる。
だから「現状」を把握し、「目標」を定め、「自信」を持たせる。
「褒める」事で「余裕」を見せられる。
「叱る」事で「緊急事態」だと知らせる。
「余裕のある上司」と「切羽詰まった上司」。
両者とも同じ程度の実績、地位の上司なら「部下」の立場ならどっちを信じたいと思うのか。




