完璧主義その3
「結局素直な奴が一番伸びる」
そして「素直な奴」に上司の言葉を聞けるような人間はどんな人間が上司であってもやっていける。
だが実際問題そんな人間は少数派である。
全人類の1割、とまでは言わない。
思うにこれも3分割。3割強が関の山だ。
「素直な奴」が過半数以上いる、と思っている人間からすれば非常に少なく感じるだろう。
だが「素直に人の話に従えない」と言う人間からすれば3割強もいる事があまりにも多く感じてしまう。
結局、そこに「媚びる人間」がいて「上の人間に従順に装う人間」がいる。
「表面的には素直」だが「本質的には解釈を間違えている」
だから「素直に従う人間」が世界の過半数を見えるように見える。
そして「結局、素直な奴が一番伸びる」と言う人間と「褒める」や「叱る」の話を組み合わせた時、「伸びる人間」とは「50%を占める一歩目」を簡単に切り出せるという事だ。
仕事を100%達成するために3分割。
経験が約33%、目標が約17%。
「素直に聞く事ができる人間」というのはこの経験33%と目標17%を常に自分の中で確定しており、同時に「上司」の想定している「100%のうちの50%」が共通認識として共有できているという事になる。
だから「行動」も出来る。
そして目標を達成するための行動の17%も何をすれば良いのか自分で分かっているから一人で消化出来る。
一人で仕事の100%のうち、33%+17%+17%、およそ67%に到達できる。
残りの33%はいくら「素直な奴」でも「未熟」だから分からない。
だけど全体の上司の想定している100%のうち、独力で7割近く到達できればぼんやりと全体像が見えてくる。
だから自力で「残りの目標」を不確定ではあるが「仮定」として出来上がる。
あとはその「仮定」の目標が本当に上司が求めるものかどうかを確認する。
目標のうち、残りの16%「仮定」から「決定」させるために相談する。
そのためにどんな「行動」を取るべきか、というのを考えた上でそれも相談し、「上司」と「部下」の間、100%と67%の差が産む「達成」の認識の違いを擦り合わせ、共通のものにする。
説明が難しいが言語化すると
仕事のうち、「50%の第一歩」とそこから経験と目標を照らし合わせながら「独力で67%」を達成できる人間。
そしてその67%から上司の求める100%までの33%を自分と上司の中で共有し、共通認識として持つ事が出来るのが「素直な奴」であると自分は思う。
では「素直じゃない奴」とは何か。
一つは自分と上司の100%、達成条件が一致していない人間。
自分が求めるものと上司が求める物が異なるから「自分で設定した目標」に向かってズレていく。
そしてもう一つが自分の中の「50%の第一歩」が確立していない人間。
その仕事を達成するための第一歩となる「33%の経験」、あるいは「17%の目標」のどちらかが足りない人間。
日本語を日本語として聞く能力はあっても解釈は異なる。
上司から「(力をつけるために)100回やれ」と言われて「100回やる事」が目標となった部下。
あくまで「力をつける事」を目的にした「手段」として「100回」と指示した上司。
一方で「100回こなす事」が目標となった部下の間で解釈違いがあったから。
「手段が目的となる」
という現象だ。
コレはつまり、「33%の経験」があっても「17%の目標」がない。
だから「素直」に話を受け取る能力があっても「動かない」。
そこに上司が「行動」だけを指示するから解釈違いが起きる。
そしてもう一つは「100回やる姿を見せる事」を「仕事」と解釈して「評価」の対象として解釈する者がいる。
評価されるために100回を丁寧にやる。
コチラは「17%の目標」は仮にあったとしても「33%の経験」がない。
経験がない、つまり「自信」がない。
だから見た目を気にして「丁寧」にやる。
丁寧な仕事に見せる為に無駄に凝る。
場合によっては中身より見た目に力を入れてしまう。
どこまでやれば評価されるのか分からない。
どこで区切ればいいか分からない。
「100回やれ」と言われただけ。
そうして延々とやり続けて期限の間際になって上司から「何時までやってるんだ!」と怒鳴られ、また自信を無くす。
「自信がないから自信をつけたい」という目標がある。それが33%の経験がない者にとっての17%の目標。
自分の33%の経験が足りているか分からないから自信がない。だから勝手に「自信を持ちたい」という目標を作り上げる。
けれどその自信の無さというのは「他人と比較する」から生まれるものであり、その自信の無さは「結局素直な奴が一番伸びる」と言って誰かと自分を比較する上司の責任にでもある。
無論、全てが上司の責任ではない。
成長の過程で親から、教師から、部活の顧問から比較されて常に叱られてきた経験もあるだろう。
だから例え能力はあっても他人から否定され続けてきて自信はない。
他人から否定されてきた経験を自力で自信に変えるのは不可能である。
だから自信がなくても動けるように反射的に行えるレベルまでやり込み身体に染み込ませる必要がある。
箸の持ち方、風呂の入り方、身体に何かハンデを持たない限りは当たり前にできる事だ。
けれどそうした自信など必要としない、当たり前にできるレベルに持っていくには時間と労力がかかる。
「自然」にできるようになるというのは「楽」に出来るという事。
自力で自信をつけるというのは喜怒哀楽の最後のステージまで持っていく事。
それ故、少しでも時間と労力を注ごうと頑張るほどに視野狭窄に陥りやすい。
「日本語」として素直に聞く能力と「話の意図」を察する能力は違う。
そしてその「解釈」を元に「どんな目標」を立てるかというのも人によって違う。
「話を察してほしい上司」と「素直に聞いた部下」とそれぞれの言い分、解釈がある。
それを擦り合わせために両者「時間」と「労力」を割く必要がある。
その上で「行動あるのみ」の部下に対して「完璧主義」でなければならない上司。
お互いに同じゴール地点に仕事の達成条件をおかなければならない以上、お互いにその達成条件の理解度について「確認」しなければならない。
そのためにはまず「上司」がそれを尋ねなければならない。
上司として部下に対してやるべき事、「行動」を指示をした。
問題はそれを部下がちゃんと「行動」として認識しているか。
何のためのものなのか、という目標を共有する必要がある。
スタートする前にルールやゴールを共有しなければならない。
「近道を通ってはいけない」
「道具を使ってもいけない」
「時間制限がある」
スポーツでもなんでもルールがある。
やったもん勝ちはあってはいけない。
けどそこを擦り合わせずにゴールだけ決めて、後になって「そんな事常識だろ」「普通に考えてわかるだろ」というのは上司が卑怯なのだ。
部下が「男」のようになって普通以外の「選択肢」を提示し、上司が「女」になって「切り捨てる」
という行動を取るのは上司の責任であり、上司が悪い。
唯一例外として、「生命の危機」に関わる「善悪」が関係する時だけが「切り捨てる」事を正当化出来る。
「第一歩」なんだ。
それが「初めて」なんだ。
「完璧」なんてどんな「素直な奴」でも不可能だ。
1を聞いて10を知るような人間、どんな天才だとしてもそれが「初めて」だと「我流」になる。
我流が許されるような獣の世界じゃない。
人間の世界である以上、「結果」さえ良ければ良い
わけではない。
「規則」がある。「マナー」がある。
どうなれば「成功」なのか、あるいは「失敗」なのかも1を聞いて10を知ったとしてもぼんやりとしかわからない。
「生命の危機」以外、「本能」が察知して動くのは不可能だ。
「規則」や「マナー」は獣の世界にはないものだ。
「本能」が働かない以上、「経験」がいる。
「目標」がいる。
だから「上位」の人間が必要だ。
「親」「教師」「上司」「先輩」等の「経験」を積んだ人間が「目標」を示してくれなきゃいけない。
そしてそうした「上位」の人間は「下位」の人間の「経験」を見なきゃいけない。
経験を見なくても「褒めちぎる」事も「怒鳴り散らす」事もできる。
それは「獣」としての本能で判断できる。
何故なら「自分のため」だからだ。
相手を自分の思い通りに動かすために褒めちぎり、怒鳴りつける。
だけどそれでは「人間」にはなれない。
獣としての本能がいくら優れていても「上司」になれない。
「能力のある部下」である。
「他人」に完璧を求めるなら「自分」はそれ以上の完璧に目指さなければならない。
そして仮に自分が完璧なら部下も必要ない。
完璧じゃないから完璧を目指す。
「完璧な上司」を目指すためにも「未熟な部下」のもたらすトラブルや問題に向き合う「素直さ」が必要であり、「後悔」と「罪悪感」が「自分が命令を出した」という「責任感」を生み出し、心の逃場を塞ぐ。
そして責任感があるから「結局素直な奴が一番伸びる」なんて言葉を吐けなくなる。




