叱ると褒める その2
「手のかかるダメな奴ほど可愛い」という話がある。
それを「可愛い」と感じる事が出来るのはその「ダメな奴」をそれだけ「褒めてきた」からだ。
ダメな奴だからこそ優先順位を決めてやり、ダメな奴のありのままを受け入れ、ダメな奴だから褒めちぎって自信をつけさせて挑戦させる。
勿論、それだけダメな奴だから危なっかしい。
だからこそ同じように警告し、忠告し、怒鳴りつけてもきた。
「ダメな奴」だから可愛いのではない。
自分がそれだけ「時間」と「手間」をかけてきたから可愛いのだ。
自分には子どもも居なければ部下もいないし、ましてや弟子や生徒もいない。
しかし「手のかかるダメな奴」に時間と手間を掛ければ可愛いく思えてくる理屈は察する事ができる。
自分は自分の好きな物、好きな事、つまり「拘り」に対して同じように時間をかけ、手間をかけてきた。
優先順位を決めてきた。
ありのままを受け入れてきた。
「褒める」というのと同じように気持ちよく一つのゴールに辿り着いて満足して優先順位を切り替えたり、気持ちよくありのままを受け入れる事ができる事もあった。
けど「叱る」というように何らかの制限があった時、中途半端な所で目標を変えざるを得ない事もあったし、認めたくないものをありのままを受け入れざるを得ない事もあった。
その「拘り」に対して「褒める」「叱る」と同じように接してきたのは自分がオタクという存在、つまり男であり、陰キャラだからだ。
だからこそ過剰に「褒めちぎる」事も「怒鳴り散らす」事もしてこなかった。
オタクだから「理由」をつけたがる。
「意味」を持たせたがる。
だから理由もなく「褒めちぎる」事もできない。
同じように意味もなく「怒鳴り散らす」事もできない。
「褒める」という側面にしても「叱る」という側面にしても「事実」をありのまま受け入れ、「優先順位」を決めるという事を優先させた。
そうしなければ「褒める」意味がない。
そうしなければ「叱る」意味がない。
そんな風に「意味」や「理由」を求めるから、「褒めちぎる」という事に対して意味を感じる事ができなかった。
自信がない時に誰かに「大丈夫、お前ならやれる」と言われた事がない。
調子に乗って前のめりでやった事がないし、やらせてもらえなかった。
いつも慎重に、そして気を使う。
だから自分自身、経験のない過剰に「褒めちぎる」という行動の意味がわからなかったし、価値を感じられなかった。
その一方で自分なりに自信を持っていざ行動しようとした時に「怒鳴られる」。
自分なりに調べて、準備をした。
「初めての挑戦」。
失敗する可能性が高い。
例え成功しても満足のいかない、反省の多い物になるのは未体験の自分だって分かる。
だがそれは「初めての挑戦」である以上当たり前の事だ。
60点の成功を超える事ができれば御の字。
失敗するつもりはない、そのために準備をしてきた。
失敗しても当たり前。それが「挑戦」だ。
凡才、あるいはそれ以下の自分にはその挑戦を繰り返し、完成度を上げていくしかないのだ。
しかしその一歩に周りの人間がブレーキをかける。
失敗は許されない。
やるからには100点を出せ、チャンスは一度切り。
未体験の自分が想定している準備では経験者からすれば物足りないのは確かに準備が足りないのだろう。
ではその未経験の自分が把握しきれていない問題について教えてくれるか、と言えば教えてくれない。
自分が女ならともかく、男だから。
「男なら甘えるな」
未経験の人間に経験者が助力無しで1回目の挑戦で100点を出せ、と求める。
勿論、自分もそれなりに年齢を重ねてきた。
その経験者側の考えも自分なりにわかっているつもりだ。
経験者としてはそれだけで充分に助力のつもりなのだ。
自分の時間や手間を未経験者の「初挑戦」に回すと言うこと、あるいは「挑戦させてやる事」自体が助力なのだ。
だからそれ以上の助力を求めようとする人間に対して「怒鳴り散らす」。
その理屈も分かる。
誰だって他人の事を気にせず自分の事を優先させたい。
他人に構うのは金と時間と労力の無駄であるのは事実ではある。
それは相手が「同格」ならそれは正しい。
だけど「上下関係」である以上、それらを「無駄」と切り捨てるなら正しくない。
そしてそんな自分の時間や手間を他人にかけたくないと言う人間の下で生きてきた人間としてはその「怒鳴り散らす」と言う事に意味を感じる事は出来ない。
ただ恐ろしさがある。




