伸びる奴
「褒める」やら「配慮」やら語ってきた。
褒めるも配慮も上下関係における「上の立場」の人間がするべき事だ。
「上の立場」の人間なのだから少なくとも下の人間より能力的にも実績としても優秀である場合が殆ど。
あくまで褒めるも配慮の話も個人的な考えではあるから穴もあるだろうが全くもって自分の考えが検討違い、と言う話でもない筈だ。
「慕われる優秀な上司」などは結局「部下のやる気や能力を引き出す事ができる」わけであるから当然だからその能力、技術は「上に立つ者」には求められる。
にも関わらず、「褒める」と言うものを「甘やかす」事と混同している者、「配慮」と「媚びる」の違いが分からない者がいる。
何故違いが分からないのか。
その違いを「上の立場」の人間が理解する必要がないからだ。
何故なら「素直に聞く奴が一番伸びる」から。
仕事でも勉強でもスポーツでもやってれば必ずと言っていいほどこの結論が出てくる。
例えば「この仕事をとにかく100回やれ」
と言われて100回素直にやる。
確かに100回もやれば力は付く。
けれどこの場合
「100回こなした事で自身の能力が向上する人」
「100回こなす回転スピードが向上する人」
「100回こなした事を評価してほしい人」
と言う3パターンになると自分は思う。
恐らく、どの上司も「100回やれ」と言う指示を出したら「100回こなした事で部下の能力が向上する」と言う事を望むだろう。
しかし、実際には全ての人間がそうはならない。
「100回仕事をこなす」と言う事が目的になれば100回こなす仕事をより効率的に、つまりは「楽に」する者は少なくない。
そうやって仕事において反射的に行えるように楽に効率化してしまったところで思考停止するわけであり、自身の能力の成長には結びつかない。
また楽をしようとせずに真面目に取り組んで100回をこなした、と言うことを「評価」して欲しいと言う人間もいる。
結局こちらは「真面目に取り組む自身」を評価してほしいため、こちらも自身の能力向上には及ばない。
強いて言えば「真面目に100回こなせる体力」や「他人に対して自身を真面目に見せる能力」といったものが主軸の向上だ。
どれも言われた通り素直に100回仕事をこなした。
けれど最低でも3通りに結果が分かれる。
「優秀な上司」ならこの3通りにそれぞれ指示を出さるだろうし、そもそも100回こなす前の段階で個別に指示するだろう。
だけど「結局、素直に言う事を聞ける奴が伸びる」という言葉を言い訳にする上司は自分の期待通りの7能力向上」をした者以外には「素直に聞かなかったから伸びなかった」という烙印を押し、叱責する。
だから尚更「100回の仕事を楽に効率的にする人間」はやる気を無くす。
「100回の仕事を真面目にする事を評価してほしい人間」は尚更見た目に気を使い、取り繕う。
「結局、素直に言う事を聞く奴が一番伸びる」というのは「正論」だし、紛れもない事実だろう。
だからこそ、色んな環境、仕事でも趣味でも同じことが言われる。
誰でも言える。
正しい事ではある。
だからこそ、その正論に沿って行動できるように部下に配慮する必要がある。
結局、「正論」で物を言う限り、「上司と部下」ではなく、「多数派と少数派」の関係なのだ。
正論を言えば言うほど「上司」としての「信用」はなくなる。
「とにかく素直に言う事を聞け」という上司こそ、部下の言葉を素直に聞かない。
「言い訳するな」と切り捨てる。
「素直に聞く」という自分の言っていることとやっていることが違うような上司を部下として信用も信頼もできない。
「部下」であった頃は優秀でも「上司」になればそうした人間になる、という場合は単に才能があったから。
100回を楽に効率的にこなす人間。
100回を真面目にしている事を評価してほしい人間。
どちらの考え方も自身の能力向上には大きくフィードバッグされにくいがそれでも才能があればそれなりに評価される。
あるいは業務外、つまりプライベートで努力をしたから。
むしろ才能よりもこちらの方が大きいかもしれない。
プライベートを犠牲にするからこそ、能力向上ができる、という前提となれば尚の事「上司」になったときに「部下」にたいして自分と同じようにプライベートを犠牲にする事を望むようになる。
「プライベートを犠牲にするのを厭わない。」
所謂昭和の考え方だ。
悪い、とは言わないが今まで以上に、ロボット、AIによって変化が激しくなり、10年先の未来に今ある約半分の仕事がなくなると言う予測が現段階である。
今上司から命令を受けてこなしている仕事が少し先の未来ではロボットやAIに取って代わられてしまうような身に付ける価値がないものかもしれない。
だから楽に効率化できるものは効率化して「本当に身につけるべきものを身につけたい」と思うのはおかしい話ではない。
また取って代わられてしまえば自分の価値は無くなってしまうかもしれないから「自分はこれだけ真面目に仕事をしている事を評価してほしい」と思うのもおかしい話ではない。
ちゃんと10年先もしっかり通用する保証があるならプライベートでも努力する、けれど肝心の上司が「素直に言う事を聞く奴が一番伸びる」の一点張りの「情けない」上司だから不安になってプライベートを犠牲にする事も出来ないし、かといって先があるかどうかの不安な仕事にも熱を注げない。
今回はここまで「仕事」の上下関係で例えてきたが、社会に出る前の全ての上下関係で当てはまる。
だから「結局、素直に言う事を聞ける奴が一番伸びる」と言うのは「素直に聞いた事で実際に喜びを得る事が出来た経験、楽しめた経験」があるから「人の話を素直に聞く」という覚悟ができるのだ。
だけど世の中には実の親から奴隷のように扱われる者もいる。
学校でイジメられたり、仲間外れを受けて教師に相談しても相手にしてくれずに塞ぎ込む者もいる。
そこまでいかなくても褒められた経験がなく、認められた経験もない、そんな人間は思った以上に多い。
「親の言う事を素直に聞いたのに貧乏くじを引かされた」
「言う事を聞いて報酬を受け取ったら、言う事を聞いたのとは別の代償として自分の大切なものを奪われた」
そんな経験しかない人間がいる。
感謝の言葉、謝罪の言葉という「言質」をとって恩を押し売り、恩返しを強制させる者がいる。
媚びても奪われる。
どうせ奪われるなら媚びても意味がない。
「聴く耳を持たない」のではない。
「信じ切る自信」がないから「聴いてもらえるための目標」を立てることができない。
だから分からない事を質問出来ない。
「そんなものもわからないのか」
「自分で考えろ」
どこまでやれば「質問しても良い資格」が自分に与えられるのか分からない。
だから我流でやる。
そしてそれは「学校」のレベルまではそれで何とかしてきた。
しかし「社会」では自力で全てやるのはまず不可能だ。
だから「家庭問題」ではなく「社会問題」として「若者」という括りで取り上げられる。
「素直に聞けば危険がある」という環境にいたからこそ「素直に言う事を聞けない」と言う価値観を作り上げてしまった。
そしてそれは本人だけの問題ではなく、周りの環境である。
そうした「素直に言う事を聞けない」人間を作り出した「環境側にいる人間」と言うのは仕事における「プライベートを犠牲にすることを肯定する層」と非常に似通った層である。
「子どもがイジメを受けている事を相談してきた」と言う事に対して「勉強やスポーツで見返せ」と言う親。
そうやって学校内の友達同士の純粋なコミュニケーション能力を捨ててマウントを取る事しかコミュニケーションを取れない人間を育てる事になる。
そしてその能力を取るにしてもマウントを取れるだけの能力を手に入れられなければ努力不足とさらに追い込み、結局は子どもを潰す。
努力をさせたいのであれば「プライベートを犠牲にする事」を正当化するのではなく、「プライベートを犠牲にしてでもコレだけは頑張りたい」と子どもに自発的に思わせるのが重要なのだ。
そのために努力の先にある「喜び」が必要であり、そのための素直に親の言う事を聞いても良いという「安心感」が親に求められる能力である。
それが親、上司などの「上」に立つ者に求められる能力である。
最近では「挨拶しない」と言う主義や自由というものを持つ若者がいる。
それに対して「無能である」「仕事できなさそう」という評価を下すのも当然といえば当然だし、同時にそういう評価を受けるのは「挨拶をしない」事を選択した人間の自己責任でもある。
でもコレも結局のところ、この主張をしているのは「陰キャラ」と「男」が多いように感じる。
つまり、コレもまた「陽キャラ」と「女」からの「犠牲者」なのだ。
子どもの頃から「挨拶は大事」なんてのは聞き飽きる程に聞いている。
実際、子どもの頃は大多数は何の躊躇もなく、誰が相手でも挨拶をし合う事ができた筈だ。
しかしその後、年齢が上がるにつれて「挨拶できる相手」、「挨拶できない相手」に分かれてくる。
「女」に「男」が挨拶した時、不快そうな顔をされ無視される。
「陽キャラ」に「陰キャラ」が挨拶すると五月蝿い、と睨まれたり、キレられる。
勿論、思春期故の多感な時期だからこそ「恥ずかしい」と言う感覚もある。
思春期になり、男女の違いが精神面、肉体面でも差が生まれてくる以上、「恥ずかしい」という気持ちになるのは仕方ない。
だが「挨拶を無視される」、「挨拶したらキレられる」、そんな理由は仕方なくない。
だからこそ、「家庭内」でそこを躾していなければならない。
しかしそこでも結局同じで「親」に挨拶をしても「今忙しい」と言う理屈で無視されたり、睨まれたりする。
そうした経験もある上で、子どもが気を使って親に挨拶をせず、そーっと音を立てないようにすれば突然「挨拶しろ!」と怒鳴られる。
その時の気分によって、まさに「女の心」のように気分の上がり下がりで態度を変える。
挨拶をするべきか、しないべきか分からない。
たかだか挨拶するのも顔色を伺う。
そうした下地があるのだから学校でもそうやって「挨拶をする相手」を考えながら行動する。
結局それで「挨拶したくない」と言う結論に至るから「挨拶しない」と言う主義や自由を掲げるのだと自分は思う。
まぁ、自分の経験論でもあるが。
そしてその「挨拶したくない」と言う自分の結論に正当性を求めるために「主義」や「自由」などの大仰な言葉を持ってくるわけだが実際には正論ではない。
正論ではないのは自分でも内心理解しているから自信がなく、自信が無いから必要以上に言葉を盛る。
つまりは「察してくれ」と言う話になる。
何故なら「挨拶しない主義」を唱える者自身がこれまで生きてきた中で相手に気を使って「察しよう」としてきたし、そうしなければ満足に生きていけなかったから。
とはいえハッキリ言ってその理屈は誰にも通用しない。
だから自己責任ではあるが、だからこそ周りの人間は「次世代」のためにそれを「察する」事が重要になる。
「挨拶したくない」という「陰キャラ」を作り出したのは気まぐれでキレる「陽キャラ」であり、「男」を受け身にさせたのは人を選んで時に挨拶を返したり、時に無視する「女」の我儘であり、「子ども」を卑屈にしたのは「親」の傲慢さゆえ。
「上」に立つ者の振る舞いで「下」の人間は変化する。
「挨拶するのが当たり前」と言うなら「挨拶できない者」を叱責するのではなく、「相手に挨拶するかどうかを気を遣わせる者」を叱責して変えさせた方がいい。
また、個人的な叱責で治らないならスーパーのトイレなどに張り紙などで書いてあるように
「トイレ内でのお客様への挨拶は遠慮させて頂くことをご理解下さい」
といった風に特定の場所でのみ「挨拶しない」という空間を作るべきだ。
それ以外では一律で男女問わず、上下関係問わず、キャラの属性問わず挨拶させるようにでもして気兼ねなく挨拶させる環境にした方が礼儀作法を身につける上では手っ取り早い。
しかしそうなると軍隊的だ。
結局そういうものが面倒だ、今までの自分達のやり方が正しい、と文句をつけるのもまた「陽キャラ」と「女」という事である。
「結局、素直に言う事を聞く奴が一番伸びる」
真理であり、正論だ。
そこに対して反論する気はない。
だからこそそれは「部下」の立場だけでなく、「上司」の立場でも同じ事が言える。
「上司として伸びる」には「部下の言葉」に素直に耳を傾ける事が出来る奴が一番伸びる。
その部下の言葉を聴いた上で「3種類」の褒めるを使い分ける必要がある。
けれど「結局、素直に言う事を聞く奴が一番伸びる」
という正論を盾にしてきた者からすれば面倒くさくてしょうがない。
「忙しい」
「先約がある」
確かにそうした状況もあるだろうが「3種の褒める」事が出来る、という事は「事実確認」も「優先順位」の付け方も心得ている筈。
相手の立場によって「聞く」「聞かない」という選択肢を持つのではなく、
「自分の状況」と「相手の話の内容」から「後で聞く」「今聞く」、「話だけ今聞いて、返事は後にする」と変えられる。
変幻自在に「素直に相手の話を聞く事ができる。」
相手に喜びを与えるため、相手がどう怒りを克服すべきか、その相手が抱える怒りに対して哀しみを向ける事を、反射的に楽に行える。
喜怒哀楽を制御できるから「素直」に聞く事ができる。
素直に話を聞けない未熟者の話を、成熟した人間が素直に聞く。
そして話を聞いた成熟した人間が配慮しながら未熟者に諭す。
そうすることで未熟者は成長し、感情を制御して素直になる。
「子どもは素直」 というイメージがある。
それ故に素直じゃない人間、頑固者、ひねくれ者は「老人」に近いイメージがある。
しかし子どもだって頑固で我儘。
子どもだってひねくれて親の言う事を聞かない。
子どもだって素直じゃない子もいる。
そして老人だって素直な側面もあるし、頑固な老人だって孫には甘かったり、ひねくれ者でも長年連れ添ったパートナーには心の中の気持ちを開く事がある。
「結局、話を素直に聞く奴が一番伸びる」
「結局は相手が信用、信頼できるなら話は聞ける。」
正論の言葉の後には正論が続く。
だから言葉と行動が伴わない人間の正論にはカウンターの正論が突き刺さる。
だが言葉と行動が伴った人間には正論の後の正論はその人の正当性を際立たせる。
正論を「武装」としてではなく、「礼儀」として備えているから。
当たり前、「普通」の事だ。




