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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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配慮その2

「配慮」のエッセイ漫画だが続きがある。

続きとは言っても前回の「実力不足を読者の理解不足の所為にした生徒」の話は終わり。

別の生徒、というか入学希望者らしき者を相手に主人公が「配慮」するというものだ。

この入学希望者は

「この学校に入れば漫画家になれると聴いた」

「漫画は描いたことがない」

つまりは前回の「読者の理解不足の所為にした生徒」と同様、あるいはそれ以上に他責思考、他人任せの入学希望者の面接、あるいは体験入学か何かの相手となった主人公という構図。

入学希望者はいろいろと考え方に問題があるのは明らかだ。

そして講師である主人公は一旦は現実を教え、諭すが今度は現実を突きつけられた入学希望者から「配慮しろ」と言われる。

それに呆れた主人公は「配慮」という事で「フキダシ」の中にある台詞をグチャグチャの読めない文字にした。

勿論そのグチャグチャの文字は何を言っているか分からない、相手に伝わらないという表現だ。

現実を曖昧にした。

そのため何を言っているか分からない入学希望者は怒りを露わにするが今度は主人公が「貴方が配慮しろと言った」と責任は貴方の方にあると告げる。


これも「金」の関係による上下関係の逆転だ。

講師は入学希望者の言う通り「配慮」しようとした。

しかし「配慮」と「媚びる」の違いを理解しないまま気を使ったために入学希望者の希望に沿うように「媚びた」のである。

だから「配慮を求めたのは貴方」と責任を向こう側に求める。

上下関係が逆転した以上、入学希望者側が上、講師が下となった。


確かに配慮を求めたのは入学希望者側だ。

だが返ってきたのは配慮ではなく「媚びる」。

ここでやるべき配慮は「叱る」だ。

この入学希望者は今回限り、一期一会の可能性が高い。

だからこそ先に紹介した生徒と異なり、緊急性が高い。

だから「叱る」。

怒鳴りつける必要はないが「冷静」に対処して「本当に漫画家になりたいのか」「本当になりたいならまずは1作品でも漫画を書いてみたらどうか」

と「配慮」しながら「叱る」。


けれど

「漫画家になりたいと言いながら漫画を書いたこともない」

「そもそも本当に漫画家になりたいか怪しい」

そんな入学希望者を相手に「自分が説教したら」と考えれば高確率で「不貞腐れて入学しない可能性が高い」という結論になる。

それでもそうやって「叱る」なら「自分が本当に漫画家になりたいのか」を考えるきっかけにはなった筈だ。

「人生の先輩」という立場と「未熟な若者」という立場ならその「叱る」という配慮は若者には良い薬だ。

「人生の先輩」としてやるべき仕事であり、その価値はある。


しかし、あくまで「講師」と「入学希望者」という立場で「学校に金を落とすかどうか」「講師の自分に得があるか」で考えれば求める見返りが返ってこない可能性が高い以上、講師の自分が行動する価値はない。

ならば「わざわざ自分の責任で自分が気を使って労力をかけて自分に得にならない事をする必要があるか?」

答えはノー。

どの道「入学しない」なら「自分が説教した所為で入学しなかった」ではなく、「彼が自分から辞退した」という体裁の方が良い。

またこれ以上、叱りつけてこの入学希望者がギャーギャー喚いても「他人の目」が気になるから困る。

「多数派」から外れたくない。


相手が「配慮」してくれるから自分も「媚びる」。

そうやって生きてきたから相手が「媚びる」から自分も「配慮」する。

リターンがない相手には媚びない、配慮しない。

一見すると賢い。

しかし提示される選択肢をひたすら「切り捨てる」という行動を取っているだけ。

自分から新しい選択肢を作っているわけではない。

だからプロの漫画家となり、講師という人の上に立って指導する立場になっても技術的な面ではなく、「成功するには配慮が重要」という漫画以外のどんな仕事の分野にも通づる事、漫画の素人でも気づくのに何年もかかっている。

そしてその「配慮が重要」というのも「気を使う」という事までは理解しても「自分と相手の立場」という物を考慮していない。

せっかくの「プロの漫画家」という肩書きと技術も自分の中で完結、教えるにしても自分が気に入った「素質のある者」に限定されるのだろう。

けどそんな「素質ある者」には自分が教えるまでもなく、最初から「配慮」を理解しているため、教える必要がない。

せっかく、「教訓」を得たのに。

それでは「勿体無い」から小銭稼ぎでエッセイ漫画として投稿する。



結局、そうやって提示された選択肢から「切り捨てる」というやり方は「若い女」が行いがちだ。

つまり「商品として価値がある」から相場より高い額でも買ってくれる。

主人公は漫画家として、そして講師としても活動していてそれなりの年齢だと推察できる。

「若い女」というには無理がある、

性的な価値ではなく、漫画家として講師としてそれなりの実績が評価され、「価値」があるから与えられる選択肢だが「配慮が重要」という事を生徒に伝えるのを渋る程度では代わりはいくらでもいる。

年齢とともに「教訓」が増えて「配慮が重要」という教訓自体が講師としてどんな生徒にも当たり前に教える程に自分にとって教訓の価値が下がるならいいのだが、「教訓」が増えずに年齢だけ重ね、講師としても漫画家としても実績がないという状況に陥れば、それこそ「若くて同程度の価値」の者はいくらでも出てくる。


「罪悪感」のエッセイでも語ったが罪悪感を過剰に感じる人間が最初に切り落とされ、その次に切り捨てられるのは「普通を盾にして生きてきた人間」だ。

「罪悪感に敏感で他者に共感し、優れた人間を育てる事ができる優れた大人」に成れず、

かといって「罪悪感に鈍感故に失敗を恐れず様々な体験をしてきた優秀な獣」にもなれなかった。

「普通程度の体験と価値観が同じ仲間としか意思疎通ができない年老いた獣」。


頑固な高齢者は年下に「媚びる」のも嫌だし、かといって「配慮」されたくない。

つまりは「下」に扱われたくない。

若い世代に「是非私達に教えてください」と媚びを売って欲しい。

それがかつての自分達が若い頃の姿だったから。

「謝罪」したくない、「感謝」したくない。

「罪悪感」を認めたくない。

自分達が間違えていた事を認めたくない。

でも過去の行動が間違えていたわけじゃない。

「老いただけ」

「時代が変わっただけ」

それを認めない事、「今の行い」が間違いであり、罪。


だから上に立ち続けたいと思うのであれば尚の事、下の者に配慮しなければならない。

それが嫌だと言うなら「一等賞」を取るしかない。

「部外者」からも文句を言われないくらい、圧倒的なNo.1でオンリーワン。

そのくらいやってようやく他人に「配慮」する事から逃れる事ができる。

「人を育てる事」から逃げる事ができる。

何故ならNo.1である事が「憧れ」の対象となり、勝手にその人を目指して憧れた者が努力するから。

一等賞も取れず、配慮して人を育てる事からも逃げる。

それを望むなら黙って「上下関係」から抜けて人知れず孤独に生きる、あるいは死ぬしかない。


けど例に上げたエッセイ漫画の主人公のように「講師」と「漫画家」と言ったように人間は様々な立場を持っている。

そして陽キャラや女は様々な選択肢を与えられる。

年齢を追う毎にそうした立場を切り捨てていけば食いつなぐ事も出来る。

講師として居場所がなくなれば講師としての立場を捨てる。

漫画家としての居場所がなくなれば漫画家としての立場を捨てる。

家庭を持って、その家庭に居場所が無くなれば家庭を捨てる。

仕事がなくなれば財産を切り崩す。

「捨てる」だけでは最後は「我が身」を「捨てる」。


紹介したエッセイ漫画を通して主人公であり、漫画家兼講師、つまり作者を「媚びる漫画家」などと馬鹿にした物言いをしたが、結局それも所詮はエッセイ漫画だけを見た自分の感想だ。

もしかしたら「配慮」と「媚びる」の違いも理解した上で、あるいは自分よりも理解度が深く、それを知った上で配慮が重要であることを伝えるためにあんなふうに漫画として描いたかもしれない。

本当は「読者のせいにする生徒」にも講師としてフォローし、それを伝えたかもしれないし、「漫画を書いたこともない入学希望者」に対して有耶無耶にせず、叱りつけたかもしれない。

「教訓」をエッセイ漫画に書いてSNSに投稿したのも「金」のためではなく、教訓をたくさん持っているがゆえの「善意」からの行為かもしれない。

結局の所は実際に会って見なければ分からないし、本心も本人しか分からない。


だがそれはいちいち確認できないし、する必要もない。

漫画家であれ、講師であれ、それから「危機感の彼」であれ、「他人」であるし、「人生」には限りがあるから。

自分から見れば「邪悪」に見えても、別の誰かには「聖人」のように見える側面があるかもしれない。


結局の所は自分もまた「同じ穴のムジナ」だ。

この講師、少なくともエッセイに描かれている主人公は「媚びる」事で入学希望者を「自分から辞退した」という形を取らせて選別する。

「危機感の彼」は「普通」という言葉を武器にして他人の「罪悪感」を刺激して選別する。

自分は「見たい奴だけ見れば良い」と言うスタンスで検索タグなどをつけずにエッセイを書いているがコレも言ってしまえば選別だ。

だからこそ以前のエッセイで「危機感の彼」に「同族嫌悪」であり、「同情」している上で「応援」は出来ないと言った。

「選別」をしているのは同じ、だが自分は彼等のやり方が気に食わない。


獣の理屈に合わせれば「生きるか死ぬか」「やるかやらないか」が真理だと言うのなら、生きている限り、皆が同じ。

死なない限り、生きている限りは「好き嫌い」は無価値。

だけどその「好き嫌い」が人間を人間たらしめる。

だからこそ「自分の好きなもの」を正当化するために根拠をつくり、「自分が嫌いなもの」を遠ざけるための理由を作る。

その一番分かりやすい理由は「善悪」。

たった2文字で表す事ができる。

「普通」も「常識」もたった2文字。

その2文字が強く重い。その2文字を跳ね除けるのが酷く困難であり、その2文字を武器に自分の好き嫌いを正当化するのはいとも容易い。


人間は自分の行動を正当化したいがために「好き嫌い」を「善悪」に置き換えがちだ。

だけど善悪なんて大層なものと一個人の自分の好き嫌いが完全に合致するなどあり得ない。

だからこそ他人の主張を受け取る時には個人の好き嫌いと善悪を切り離す必要があり、「同意」できる部分は「同意」し、「譲れない部分」は「譲らない」。


「配慮」が重要なのは「同意」する。

けれど、「配慮」は上の立場の人間が下の人間に気を使う行為、「立場」が重要という考えは譲らない。

「危機感」が行動するための必要な物であるというのは「否定」しない。。

しかしそれは動物として「生命維持」のために必要な行動のためであり、「人間」として成長し生きるために必要なのは「喜び」であるという考えは譲らない。


その自分の「譲れない部分」についての「根拠」はエッセイで説明してきたつもりだ。

それで納得しなければそれでも良いが結局のところ、自分の根拠を否定するだけの根拠を出してくれなければ自分は譲らない。

「察してくれ」は通用しない。

「嫌いな相手」、「知らない相手」にそんな事をする義理はない。

それは「少数派」が行動を起こそうとする度に「多数派」から受けてきた仕打ちだ。


「そうしたいから」

「好きだから」

そうした感情から行動を移そうとする度に「普通じゃない」「みっともない」という理由にもならない理由を引っさげてコチラの行動を阻害し、行動に移るための「根拠」を示す必要がある。

それが自分がされて嫌だったからこそ、自ら他人の邪魔はわざわざしない。

しかし、だからといって向こうの都合でコチラの自由や居場所を侵害するような行為に「自分の考え」を譲る道理はない。

公的、あるいは私的な様々な支援などでも理由もなく補助してくれる事はない。

「支援が必要、察してください」なんてのはよほど両者の関係に信頼関係が出来ているから可能である


だが「根拠」を提示し、「善悪」を示してくれたなら例え嫌いな相手でもそれには従うしかない。

「善悪」は2択、獣の理屈であり、それは「生命」に関係する。

「好き嫌い」が好きに選べる「道」だとすれば、

「善悪」とは落ちたら終わる「崖」なのだ。

法に基づき、罪と罰の紐づけが「礼儀」ならば

法に基づき、「善悪」の根拠を示す。

だからその「善悪」を先に知っている「上位」の者が「下位」のものに伝える。

それが「配慮」。

それが自分の考える「配慮」の根拠。

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[一言] ウクライナ侵攻もロシアは正当な行為 ウクライナにしたら、かつての自国からの侵略戦争 どちらも自分たちが正しいと思い込んでる悲劇
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