配慮その1
前回のエッセイで「配慮」と言う言葉を使った。
実は数週間前にSNSにエッセイ漫画が流れて来ていてその漫画のテーマが「配慮」であり、自分としても思う所があり、その一部分を前回少し出しながら書いたが改めて「配慮」という話として書きたい。
流れてきたエッセイ漫画はイラストなどのクリエイター学校の講師でもある女性漫画家が投稿していた。
内容はその主人公が講師として受け持っている生徒、漫画家志望の生徒が漫画を書いたものの読者からウケが悪かった。
その現実を受け入れられない生徒は「読者が悪い」と言って現実逃避をしていた。
その様子を見ていた講師、つまり作者はその生徒を見ながら「貴方、モテナイでしょ」とズバリ。
その生徒は自分の作品の出来を反省する事なく、理解出来ない読者の責任、つまりは他責思考的な考え方に加え、陰気そうな顔に眼鏡、地味な服装、と中々にオタク的、言ってしまえばダサい男の生徒だった。
そして「貴方、モテナイでしょ」と言った後、困惑している生徒を尻目に場面が切り替わり、講師として何人もの卒業生を見て、「成功するかどうか」 の基準が分かったと言う。
それが「配慮できるかどうか」である。
そして「成功した卒業生」として先ほどの生徒とは違い、爽やかな明朗そうないかにもモテそうな青年を描き、「配慮」できるかどうかが「結論」だと告げた。
このあとも一応別の例を上げて話は数ページ続いた筈だが一旦区切る。
この「配慮できるかどうか」についてはまさにその通りだと思う。
「モテるかどうか」と言うのもその中には「配慮」と言うものがある筈だ。
「見た目」や「財力」だけでモテるのは無理がある。
見た目や財力だけでモテる可能性は0ではないが相当な美形、並外れた財力が必要だ。
だからこそ「モテる」には「配慮」は必須だ。
だから読者の理解不足の生徒に対して「モテない」と言う感想を抱くのも当然であり、そして「モテない」から「配慮ができない」と言うのも間違っていない。
「配慮」という面で見た場合、何ら間違っていない。
だからこそ、「何でこの女講師は生徒に対して配慮できないんだ?」と思った。
前回自分は気を使う事について触れた。
陽キャラでも陰キャラでも、女でも男でも気を使う。
しかし陰キャラと男は目下の人間、弱者の人間に対して「配慮」という形で気を使う。
一方で陽キャラと女は目上の人間、強者の人間に対して「媚びる」という形で気を使う、と持論を語った。
であるならばこのエッセイ漫画において「講師」と「生徒」、「プロの漫画家」と「漫画家見習い」という立場で考える事が出来る。
明確に2つの立場で上下関係となっている。
生徒が講師に気を使えばそれは「媚びる」。
逆に講師が生徒に気を使えば「配慮」。
このエッセイ漫画にもう一つの関係がある。
それは「漫画家」と「読者」の関係だ。
この講師が言う通り、「漫画家」が読者に対して「配慮」するとなると漫画家が上、読者が下となる。
あくまで持論にはなるが。
しかし、そうした上下関係ならば生徒の主張する「読者の能力が低い」というのも間違っていない。
だからこそ理解不足の読者に「配慮」が必要である。
同時に主人公が講師として「モテないでしょ?」といわれた事で困惑している生徒も理解不足であり、「配慮が足りない」という事が伝わっていない、理解不足であると言う状況にもなっている。
ならば「配慮」をしてそんな分かりにくい話、何なら見下しているような台詞を使わずに「読者は理解不足だから配慮して漫画を書いて」といえば済む話だ。
そもそも「何年も講師として卒業生を見送る」なんて事をしなくても「配慮が必要」なんてのは自分からすると分かって当然。
勿論、自分は漫画家ではないから「どう表現すれば配慮する事になるのか」とかそうした技術的な側面は分からない。
ただ「配慮が必要」なんてのは素人でも分かる事。
何でそれを「何年も卒業生を見送る」、「その後の動向を調べて成功したかどうか」を調べてようやく「配慮が重要」という事に気づいたのか。
そして何故それが「モテるかどうか」に繋がるのか。
何故ソレをSNSにエッセイ漫画なんてものにして語るのか。
それは作者が「女」だからであり、元来備わっている性質ではなく、「努力」をして得た「教訓」だから。
「女」だから周りの大人や男から「配慮」されるのが当たり前であり、自分も知らず知らずに「気を使う」という事をしていた。
だから「気を使う」という事については当たり前にしていた。
しかし「配慮」されて当然だから「気を使う」相手というのは常に「目上」の人間、強者相手となる。
この主人公である女講師が生きてきて当たり前に「気を使ってきた」からこそ、それが「普通」であり、当たり前。気づかないのも無理はない。
だからこそ卒業生を見送り、客観視点から見る事で「配慮」が重要な事だと言う事に気づいた。
なら「モテるかどうか」は何処で思考回路にでてくる?という事。
自分は彼女が「漫画家として成功するための要素」を「卒業生のその後」を観察する事で「配慮」が重要だと結論を出した。
しかしその結論を出す前の段階で「モテるかどうか」が一旦の結論として彼女の中で出たと考えている。
「モテそう」なのは客観的に見た目で分かる。
そしてそれをひとまずの結論とするには充分な傾向がデータとして取れたのだろう。
だが同時にそれに含まれない「例外」がある。
「モテるかどうか」というひとまずの結論を出したデータの多数派に比べると少数派となる存在。
・モテるのに成功しなかった卒業生。
・モテないのに成功した卒業生。
この2つの例外を無視しても良かった。
けれどそれを無視せずに彼女はさらに深堀りする事で漫画家として成功するために必要なのは「モテるかどうか」ではなく、「配慮できるかどうか」として結論に結びつけた。
そして今度は何故生徒に講師としてそれを伝えなかったのか。
配慮しなかったのか、という話になる。
ここが対象を考えずに「気を使う事」を「配慮」として考えている彼女の問題だ。
つまり彼女にとって「配慮」する、という事は「媚びる」という事と混同している事に気づいていない。
「漫画家」が上で「読者」が下という関係性として見ていない。
「漫画家」が下で「読者」が上という関係性が彼女の中で出来上がっており彼女は「媚びる」漫画家なのだ。
漫画家と読者の上下関係、「配慮」する漫画家と「媚びる」漫画家の意識の違いは何か。
「媚びる」というのは気を使う事によって上の存在から恵んで貰う。
つまりは「金」だ。
「金」で見た時に金を落とす「読者」が上、金を受け取る「漫画家」が下の関係が完成する。
一方、「配慮」となると違う。
漫画家としてフィクションを描く。
それは一つの「世界」だ。
漫画家はその世界を創り出した「神」 であり、その世界にはそれを越える存在はいない。
だからこそ「読者」としてその世界を垣間見るゲスト達にその世界の神、「主人」としておもてなしする必要がある。
「お客様は神様」と言っても無法者は許されない。
一番偉いのはそこの世界のトップは揺るがない。
だから「配慮」する漫画家は上、読者は下になる。
この漫画家が上か、読者が上か、というのも前回説明した通り、両方必要なのだ。
ビジネスである以上、お金も重要である。
しかしだからと言って読者に媚びてつまらない漫画になっても本末転倒だ。
そして恐らく「配慮」と「媚びる」の違いを理解していない主人公、作者は漫画家としてはその実力、実績が…よくわからないのだ。
代表作も分からない、売れっ子なのかどうか、どの雑誌で掲載されたのか。
よくわからないが「プロの漫画家」である事はとりあえず確かであり、「講師」でもある。
漫画家でなくても良いがそうした「肩書き」は確かにあるが「実績」が分からない人間を果たして人はどこまで信用するだろうか。
コレがもし「あの有名漫画雑誌で大ヒット作を連載し、アニメ化もされた作品の作者」
というのであれば他責思考で読者のせいにした生徒もその講師の言葉を素直に聞いただろう。
そして少なくともそんな漫画家として実績もある講師の前で「読者が悪い」なんて言葉は出さない筈だ。
理由は「みっともない」から。
自分ならどうせ「みっともない」のであるなら「媚びる」事でその大ヒット作を書いた大先生に教えを仰ぐ。
結局、漫画家としての実績はよくわからない講師。
漫画家として憧れる対象にはならない。
「講師」と「生徒」でという関係でしかない。
非常に線が薄い繋がりである以上、それなりに「信頼関係」が無ければ講師として言葉は届かない。
けどその「信頼関係」も「モテないでしょ?」の一言で察する事が出来る。
講師と生徒としても繋がりが薄い上、彼女の考え方に「モテるかどうか」が出てくる以上、生徒を平等に扱うつもりがなく、「気に入った子」を贔屓し、「気に入らない子」を冷遇する、そんな人間だから「配慮」と「媚びる」の違いを分からない。
そんな風に解釈できる。
もっともそれが「社会」である、言えばそれまでだがそこは「学校」である。
「モテるかどうか」などは関係なく成功するために「配慮が必要」というのであれば教えるべきだ。
それをしないのは「面倒臭い」のだ。
講師として「モテないでしょ」と切り捨てるような生徒が相手だ。
信頼関係が薄い。
だからどうせこの生徒は「自分の話を聞かない」。
だから自分がこの生徒のために自分が努力して得た教訓をタダで教えてやる、ましてや真摯に分かるように教えてやる労力は「勿体無い」。
とはいえ、立場上無視して教えないわけにもいかない。
だから「モテないでしょ」と口にする。
そこから先は「自分で考えなさい」という体裁を取る。
目下の人間に「配慮」せず、それでも一応「仕事」をこなす。
それには「実力不足を読者の所為にするような生徒に自分で考えさせる厳しい指導法」というのは「部外者」の目に映ってもそこまで悪くない印象だ。
漫画にはたくさんジャンルがある。
そしてその中には人気作品がある。
このエッセイでも話題にした事がある「ドラゴンボール」、あとは「ドラえもん」、「名探偵コナン」といった国民的アニメ、漫画がある。
しかし、それとは別に特定のジャンルで癖があるが国民的漫画に負けない人気作品もある。
「刃牙」や「ジョジョの不思議な冒険」といった作品がそうだろう。
しかし癖が強い故に好き嫌いが分かれている。
・絵柄に強い癖がある
・世界観が独特
・伏線が緻密で読み進めるのに頭を使う
・スポーツなどは前提となる競技知識が必要だったりする
そうした読者を選ぶ作品でも人気作品がある以上、エッセイ漫画に登場した生徒の漫画も「たまたま」読者が合わなかったかもしれない。
生徒はプロでもないアマチュアだから単純に実力が足りない可能性の方が高いのは重々承知。
というかエッセイ漫画に登場した実在するかどうか、名前も表記していない生徒を擁護するつもりはない。
だからこそ講師が「配慮」する。
生徒が目の前で他責思考となって努力を放棄しようとしている。
評価されない事から現実逃避し、他責思考になるくらいには努力してきた。
何が足りないのか分からない。
勿論、全部の技術が足りないのは自覚している。
だけどまず何から手を付ければいいか分からない。
だからその取っ掛かりとして一番優先すべき事を伝える。
「配慮が足りないから読者が理解出来ない」
けどそれを伝えても理解して貰えない。
何故かといえば普段の信頼関係が築けていない。
講師の言葉を無条件で生徒が信じられる程の実績が講師自身に足りない。
だから生徒の耳に届かない。
なら講師がその生徒のファンになるしかないのだ。
その生徒の漫画を読み、自身がその作品を理解した、という「事実」を下に上の存在として「褒める」。
鎮痛剤として「褒めちぎる」のではない。
ただ事実を述べるだけの「褒める」ではない。
やるべき事に優先順位をつけるために「褒める」。
実績はどうあれ、「プロ」 から見れば「配慮」以前の技術的なものも物足りないものばかりだろう。
それでもまずは「読者への配慮」が重要だと思うのであれば生徒自身に「配慮する事」 を気づかせる必要がある。
具体的に自分が感じた彼の作品の面白さを伝える。
その上でその面白さは「自分達は漫画家だから理解できる事」である事を伝え、「素人には伝わりにくいと思うから配慮してもっと伝わり安くしたら良いと思う」。
と言えば良い。
かなりざっくりではあるが、作品を読まずに他責思考の生徒を見下して「 モテナイでしよ」と言うよりは生徒は耳を貸してくれる。
勿論、その「配慮」が実を結ぶかどうかは分からない。
けれど多くの人が否定した自分の作品を肯定し、次の課題を示してくれた唯一のファンの感想であり、講師の教え。
それを蔑ろにする者はいないと思う。
あとはもう「生徒自身の問題」となる。
そしてそこまでやるのが理想的な「上に立つ者」としての有り方だと思う。




