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何か書きたい。  作者: 冬の老人
301/354

自信と目標 その2

前回の話は色々語ったものの結論としては「行動」に至る前に「自信」と「目標」が必要であり、そこを他人に任せにするとおかしくなる、と言う事だ。


だからと言って「自信」があるからといって何でもかんでも「目標」にしていいわけではない。

「法」に背いてはいけないし、「倫理観」から外れてもいけない。

「普通」に生きると言う前提で「自分の目標」を定める必要がある。


では「普通に生きる」とは「自分のために生きる」事と何か違うのか。

コレも結局のところ「自信」と「目標」が存在する。

時系列として見ると

「過去」の部分には「自信」の代わりに「法」がある。

「未来」の部分には「目標」の代わりに「繁栄」がある。

「現在」の部分には「行動」の代わりに「思想」がある。


小さなコミュニティでもルールがあり、その上でコミュニティを大きなものに発展させるための指針がある。

ルールに則り、指針に向かうためにはコミュニティに属する人間の考えを揃える必要がある。

それは大きなコミュニティでも同じ。

例えば国レベルの話になっても結局は「法」があり、「繁栄」のために動き、そのための「思想」を下に政治や文化が動く。

資本主義、社会主義、まぁ色々だ。


だからこそ、「法」や「繁栄」の順序を逆転させて「思想」を優先した結果が「争い」が起きる。

「法」が強すぎると不自由を感じるが適切であれば「安心」を生む。

「繁栄」を求めるのも「より大きな安心」であるが、そうした意識が強くなりすぎると仲間以外を排斥し、結果として「敵」を増やし、安心出来なくなる。

つまり規模の大小問わずコミュニティの存在意義とは「安心」であり、そのための「安心の仕方」が「思想」となる。

そして「思想」を優先すると言うことは一方的に「安心の仕方を押し付ける」と言う事である。


そして一番問題なのは「思想を押し付ける輩」の多くが押し付けた後に「法整備」と「繁栄の保証」をしてくれる事は殆ど無いという事。

一方的に思想を押し付けた後、元々そこにあった文化や物を破壊し、あとは「生き残りたければ行動しろ」という。

「危機感の彼」や「成功者達」と同じように。


何故そうした一方的に「行動」や「思想」を押し付けて、そこに元々あった文化や物、自信や目標を破壊しておいてそれを「直す」事や「助ける」事をしないまま「自己責任」と「弱肉強食」の理屈を持ち出すのか。

結局それは「女」であり、「陽キャラ」であるから。

予め用意されている選択肢から「捨てること」は得意でも新たに「創り出す」事が苦手。

その環境毎、コミュニティ毎、あるいは個人毎に元々備わっている「法」や「自信」は「安心して生きるため」に菓子に培ってきた蓄積された「行動」であり「目標」だ。

そうしなければ「生きていけなかった」。

そうしてきたからこそ「生きてこれた」。

それは間違いなく、「危機感」に由来する「生命」を守るための「行動」の積み重ねであり、「自信」となっている筈だ。

それを後から一方的に押し付けられた「生き方」には拒否反応を起こしても不思議でもなんでもない。


そして実際に押し付けた思想がいくら「効率的」であったとしても環境や個人に合う合わないはある。

例えば「生活保護」における「車」はいつも話題になる。

交通手段が整った都会と最寄りの駅まで行くのに一仕事な上に一日に数回しか電車が来ない田舎。

「都会」に合わせた理屈に従えば「田舎」では生活困難であり、田舎の力だけで都会に近づけるのは不可能だ。

都会のようにすれば田畑は勿論、山などの自然は破壊される。

その一方で田舎にしても若い人手がいない以上、何時までも文化や伝統というものを残そうと老人が意地を張っても残す前に伝える人がいなくなる。

だからお互いに「それぞれの法」を出し合い、「不要な物」を捨てる。

擦り合わせ、対話や議論が必要だ。


そうした対話や議論の時に「目標」はいらない。

何故なら対話や議論で「目標」を作るからだ。

先に「目標」有りきで対話、議論をするから話にならない。

けどそうなりがちだ。

「陰キャラ」と「男」、「少数派」を排除し、「陽キャラ」と「女」、「多数派」が議論の席を埋める。

「スポットライトが当たる部分」にしか価値を見いだせない「女」と「陽キャラ」、「多数派」。

だから「スポットライトの当たる部分」がそれらをすっぽりと包み込むほど大きな光であったなら、話はスピーディに終わる。

しかし、小さな光でその光がどちらか一方にしか与えられない、となるとその光の恩恵の取り合いとなる。

一度決裂すればお互いに歩み寄らないから話は平行線。

「0か100」「生きるか死ぬか」

その獣のような二択の社会で生きる者は

「もっと光を広く当てるにはどうするべきか」

という「3択目」を、新しい選択肢、代替案を作れない。


獣は「生きるか死ぬか」の二択。

人間は「3択目」がある。

人間が行動する際に選択する最初の選択肢とは

「買って喜びを得る」

「勝ち負けを無視して楽しさを求める。」

「負けると分かっていながら、勝負をするための覚悟を決める」

この3つだと自分は思っている。

そしてこの選択肢の中には文字にしていない「陰」の要素がある。

それは「第三者」「部外者」の存在が常に意識されているという事だ。


獣的な見方で見た時に「勝つ」と言う事は「糧」を得られると言う事であり、そこには喜びはない。

「糧」を得る為に「必要」だから「勝つ」必要がある。

だけど人間だからこそ、「糧」を持って帰った先に待つ人が「喜び」を与えてくれる。

「他人」から与えられるもののために「行動」する。


同じように「楽しむ」と言う事自体は他人は無関係だ。

逆に言えば「他人の目があるから素直に楽しめない」と言う事。

「他人の目を気にしない」と暗示をかけなければ「カッコ良く見せよう」「恥をかかないようにしよう」と言った余計な事を考えてしまう。

だからこそ「楽しむ」ために「他人」を意識から外すと言う「行動」を取る。


そして「覚悟を決める」と言うのも「他人」が関係している。

「何か」のために自分を切り捨てる。

「負け」は恥であり、カッコ悪い。

獣的に見た場合でも奪われるという事である。

けれど「自分を捨てる」という「行動」をした事により、それによって「何か」、あるいは「誰か」が守られる。救われる。


常に人間はそうした第三者、部外者が意識にある。

それは「気遣い」などの言葉で一般的には使われる。

その「気遣い」が人間を獣から人間にすると同時に選択肢を「2択」から「3択」に増やす。

つまり「危機感」に由来する「やるかやらないか」という2択へ減らす事は「獣」になるための思想。

「獣」は「気遣い」をしないという事。


選択肢を増やす「陰キャラ」、「男」。

選択肢を捨てる「陽キャラ」、「女」。

自分の理屈でいえば間違いなく、獣に近いのは後者だ。

しかしながら獣に近くても人間だ。

気を使うのは両者とも使う。

だが気を使う対象が異なる。

前者は「目下」の人間、「弱者」や「子ども」に対して「配慮」する。

目下の人間が成長し、力をつけた時に尊敬され、感謝される。

しかしそれには時間が必要だし、相手は忘れてしまうかもしれない。

必ずしも自身が配慮した者全てから返ってくるとも限らない。

「恩返し」を求めた場合、弱者に対する「配慮」は無駄になる可能性は高いのは確かだ。

しかしそれを見ている「第三者」「部外者」は評価するだろう。


一方、後者は「目上」の人間、「強者」や「大人」に対して「媚び」を売る。

一方で後者は媚びれば目上の人間、既に力を持っている人間からすぐに返ってくる。

取りこぼしを抑える事ができるし、力が欲しい時に即座に支援してもらう事が出来る。

しかし、「媚びる」人間を「第三者」「部外者」は嫌う。


コレも結局は「陰陽」なのでどちらが正しい、どちらが優れているという話ではない。

人間は弱い。

「自分」が弱いから成長するために強者に媚びて庇護下に入り、守られなければ生きられない。

そして「他人」もまた弱い。だから自分より弱い者を守らなければ、その弱い者は育たない。

そして「老い」を迎えた「自分」を支えてくれるのは自分が育てた弱い者。

もし他人が育てた人間を「金」に物を言わせて自分を支えさせようとするなら相場より高い金を積まなくてはならない。

相場より「高い金」に文句をつけず、むしろ色を付けてさらに高い金を積むくらいの覚悟で「人を育てる事」を放棄しなければならない。

だから「配慮」も「媚びる」のも「両方」必要だ。


この気を使うという事、陰キャラと陽キャラ、男と女も対象の違いこそあれど両者がやっているわけだ。

にも関わらず、「選択肢」が「3択」のままの陰キャラと男に対し、「2択」となってしまう陽キャラと女。

それはつまり「第三者」、「部外者」を消すという事だ。


陽キャラの「部外者」を消すやり方はその「暴力性」だ。

イカつい見た目、大きな体格、荒い口調。

悪そうな空気。

そうした物で「部外者」に「干渉したら次はお前だ」と威嚇する。

実際にイジメを止めようとした「部外者」が「次のターゲット」となった事などはよく言われる話だ。


女の「部外者」を消すやり方は「被害者を装う」という事、つまり「弱者のフリ」をする。

男と女の間で争えば女は大声を上げて「部外者」を呼ぶ。

それが本当に「助けを求める声」ならばともかく、実際には本当に助けを求める時は恐怖で声が出なくなるのが殆どだ。

「媚びる」という事に慣れている女は目の前の敵対する男を自分と比較して権力、財力、立場など「上」なのか、あるいは「下」なのかを瞬時に判断する。

上だと判断すれば「緊張」状態から実際に暴力を振るわれて「恐怖」に変わり動けなくなる前に目の前の男に媚びる。

下だと判断すれば余裕が生まれ、「声」を上げる。

女の声に釣られてやってきた者は女にしろ、男にしろ自分の味方だ。

あとはその味方と一緒に起きた問題の責任の所在を有耶無耶にして一方的に相手の所為にする。


人間だからこそ、「部外者」の視線が気になる。

だからこそ自分の思い通りに動くためには「部外者」をどうやって排除するか。

理想的なのは勿論、「部外者」に文句をつけられないように、あるいは文句をつけられても跳ね返せるように「自信」をつける事だ。

けれどそれは一朝一夕で出来る事ではない。

「なろう系」でも「俺何かやっちゃいました?」みたいなのがあるが現実には「チュートリアル前」に「達人」になるのは無理がある。

何処かで区切りをつけて「部外者」の目に晒される必要性がある。


そしてそのために一番楽なのが先述した「陽キャラ」の「暴力性」。

そうすれば「強者」として舞台に上がれる。

もしくは「女」の「弱者のフリ」。

そうすれば「多数派」として議論の席に座れる。

そうすれば「安全性」を確立しながら「実践経験」を積み、「自信」を得られる。

もっともそれも真の意味では「実践」ではなく、安全性が確立されているため、「実践的」に留まり、そこから先に進むには「暴力性」と「弱者のフリ」を捨てる必要があるが。


この「暴力性」と「弱者のフリ」で「安全性」を確立した状態というのはまさに「親子関係」である。

「親」という力の象徴、「子ども」という未熟さ。

そして衣食住が整った「家庭」。

「自信」がない、「目標」がない。

それはつまり「家庭」において「生きる 自信」をつけさせて貰えなかったからだ。

その「生きる自信」とはつまりは「礼儀」である。

礼儀とは以前のエッセイでも述べたが「法」の真似。

罪と罰の紐づけ。

それを教えてもらえなかった。

それが「陰キャラ」と「男」。


本来なら自分を守ってくれるはずの力の象徴である「親」の暴力性は「躾」と称して自分に向かってくる。

本来なら守られて育てられる側の「子ども」である筈の自分が親の欲求に付き合わされて「お受験」や「習い事」をする。

全ては「貴方のため」という理由で自分の疑問にも答えて貰えず、我慢を強いられ、そして報酬は「将来のため」と言われて何も与えられない。


それで学力が上がる子ども、習い事で結果を出せる子どもも居るだろう、

しかし「1等賞」は10人の大会だろうが100人の大会だろうが常に「1人」。

「スポットライトの光」に当てられるのは限られている。

そして「1等賞」になれない「その他大勢」のほうが圧倒的に多く、そんな「その他大勢」が社会を構成していて、「法」の基準になる。


「普通に生きる」

そのための「普通の自信」。

そのためには親が子どもに「光」を当てなければならない。

1等賞にはなれずとも、以前より順位が上がった。

100点は取れなかったけど、前より点数が上がった。

嫌なことを言われても暴力に走らなかった。

嘘を言わず、正直に罪を認めた。

成長途中の子どもの褒める所なんて探せばいくらでもある。

それは確かに「大人」として見た時は出来て当たり前かもしれない。

だから「配慮」する。

弱者が強者に対して「媚びる」事をしなくて済むように。

「媚びる」事に慣れないように。

「暴力性」や「被害者のフリ」をあてにせずに堂々と「自信」をつけ、そこから自分の力で「目標」を見つけ、「行動」を取れるように。


「暴力性」や「被害者のフリ」を武器にしなければ他人とコミュニケーションを取れないというのであればやはりそれはまだ「大人」ではない。

「部外者」の目に晒されなければならない。

「暴力」はどんな理由があっても「法」に背く事であり、「被害者のフリ」ほど「卑怯な真似」はない。

「男らしさ」に「暴力性」を内包して正当化する事は男性というものを貶める事に繋がる。

「女の武器」の中に「被害者のフリ」を入れてしまえば女性は女子供と一緒くたに括られる。


そうすると「陰キャラ」や「男」がなすべき事が見えてくる。

「礼儀」を知らない男には臆さない。

「礼儀」を知らない女には屈しない。

最初は怖い。気が動転する。

そうしている間にいいようにされてきた。

それが「今まで」だ。

人間だから「獣」に恐れを感じるのは当たり前だ。

だからこそ獣には見えない、3択が見える筈。

まずは落ち着く。選択肢があっても見えていなければ意味がない。

冷静になる。選択肢を落ち着いて選ぶ。

そこから「自信」をつけていき、自信がついて完全に対処できるようになったら、それまでの「恐れ」を振り返る事で「次」になすべき事が見えてくる。


自信なんてのは行動をするからつく、なんてものではない。

行動して目標を達成し、それを振り返って反省するから身につく。

後悔するのは陰キャラも男も得意だ。

後悔の数だけ自信を積み上げる事ができる。

天才じゃない。凡才、もしかしたら才能がないかもしれない。

間違えるのも一度や二度ではないかもしれない。

だから後悔を重ねて何度も繰り返した行動は重く硬い自信となる。

自信を作るには時間はかかる。


ウスノロで鈍臭い亀がウサギに勝つために全力疾走しても結果は知れてる。

「やるしかない」

だからこそ「自分」を見失わない。

亀には亀のやり方がある。

だけど亀である事を忘れてしまえばそれすらも見えなくなる。

そして例え結果がどうあろうとそれが原因で「死ぬ」事はない。

「喜び」を探せ。

「楽しみ」を見つけろ。

「覚悟」を決めろ。

遅く、弱い人間だからこそ、速くなる方法を見つけ、

強くなる方法を模索できる。

「生きるため」に速くなるのではない。

「喜び」のために速くなる。だから生きる程度で満足しない。

「生きるため」に相手と戦うのではない。

「楽しみ」のために戦う。だから弱い相手で満足しない。

その「喜び」と「楽しみ」のために今を捨てる「覚悟」を決める。

「自信」と「目標」が次々と線で結ばれ、道が出来る。

居ても立ってもいられない。


最短最速、インパルスが伝わる。

反射的に動くのが楽しいのに間に暴力をしたり、被害者のフリなんて雑音、障害は置きたくない。

そんなのは綺麗じゃない。

「部外者」 の視線を感じている、だから綺麗に決めたい。

もっと楽しく、もっと喜びを。

そのために覚悟する。


書いている内に同じことを繰り返している。

だけどそれが自信となり、次の目標になる。

行動の動機付けはその繰り返しの中にある。

確信している。

人間が成長するのは、行動するのは危機感なんかじゃない。

喜びがあり、楽しいから。

そのためなら努力を厭わないだけ。

だからこそ「堕ちる所まで堕ちる」という手段をとってでも最後まで譲れない自分の好きな事、「拘り」を見つけ、始まりとなる「自信」を見つけなければならない。

そして「拘り」から出発して「部外者」に見せても文句をつけられないものにしていく。

獣にはない「気遣い」を武器にして。

話が長くなった

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