自信と目標 その1
暑い
「危機感の彼」にしても、世の中の所謂「成功者」にしてもまず口にする事は「行動しろ」「挑戦しろ」だ。
ネットなどを見ていると誰が言ったか知らないが名言のような物がそこら中に転がっている。
その中で一つ、有名なものとして
「第一歩目を踏み出した時点で物事の50%は終わっている」
正確な文言は忘れたがそんな感じの名言だ。
それだけ第一歩を踏み出す「勇気」や「始まる」という事の重要さを語っている。
さて、自分は物事をとにかく3分割で考えるようにしている。
だから上記の「物事を達成する」というのも3つに分けて考える。
その時に「行動」の前後には「自信」と「目標」があると考える。
時系列に分ければ
「自信」→「過去」
「行動」→「現在」
「目標」→「未来」
という風になる。
では先述した「第一歩が50%」とはどう言う状況だろうか。
3分割しているので「達成」までを100%とすればそれぞれ約33%ずつ。
「第一歩」が時系列の順に満たされていくとしたら
「自信」という器が33%分、全てが満たされた状態。
「行動」という器が17%分、半分程度な満たされた状態。
「目標」という器が0%。空の状態。
そんなわけがない。
「自信」があってたったの第一歩で「行動」の半分を終え、「目標」はない、というのはどういう状況だ?
そもそもこの時系列順に満たされていくのであれば「行動」を達成してから「目標」を作る事になる。
例えばそれは料理。
料理を作れる自信があり、具材を調理し終えた後に「今日は◯◯にしよう」ともはや後戻り出来なくなっている状況で目標を立てる、というような状態だ。
出来上がった後に小細工して「◯◯風」とアレンジする事くらいはできるかもしれないが「行動」は「目標」より先にあってはいけない。
第一歩はあくまで「行動」の器が0%じゃなくなった状態。
1% でも、あるいは0.1%でも良い。
オフからオンになった状態を言う。
だから物事全ての「達成」までの50%を第一歩が占めているというのであればそれはつまり「自信」と「目標」の2つの器で50%分、満たされているという事になる。
つまりざっくり言えば「自信」が33%、「目標」が17%。
「過去」は既に定まっているから33%。
「未来」は不確定であり、状況が変化する。だから17%。
「第一歩」が50%を占めているというのであれば「過去」と「未来」の合計で50%を満たす必要がある。
この過去が33%、未来が17%というのはあくまで理想だ。
実際には「自信満々」で物事に取り組む、という訳でもない。
数値が逆転し、「自信」が17%、「目標」が33%というパターンもある。
コチラは目標が定まっているため、「行動」というより「学習」という方が正確だ。
そして両方足しても50%に届かない場合もある。
そうした場合は時系列ではなく、「感情」の話になる。
ドンドン出来なかった事が出来るという「楽しさ」を自信にする。
達成すれば「喜び」がある筈、という事を目標にする。
それを信じて恐怖や不安、「怒り」を抑えこむ。
それを「勇気」と良い、自信と目標で50%に届かない不足分、その勇気を添えて行動する事を「挑戦」という。
いくら他人が「行動しろ」、「挑戦しろ」と言っても行動できないし、挑戦できない。
自信もなければ目標もない。
けど実際には「生きるため」に行動している。
食事はするし、排泄もする。仕事もする。
「やらなきゃいけない」
当然の事だが、「危機感」という物を由来にした行動ならばそれで充分だ。
けど「危機感の彼」や「成功者達」が言っている「行動」とは異なる。
「生きるため」ではなく、「モテるため」「稼ぐため」「贅沢するため」
つまりは「成功」するための「行動」。
じゃあ「成功」とは何のことか。
それはつまり「幸せ」になることだ。
ではどうなれば「幸せ」と言えるのか。
「仕事で出世すること」
「大きな家に住むこと」
「好きな人と結婚する事」
「子どもは女の子一人、男の子が2人」
「休みの日は友達を呼んで庭でBBQをし、長期休暇は毎回家族旅行に行く」
「ペットは犬か猫を」
「ゆくゆくは孫を」
それが「幸せ」の答えか?
「皆」がそれを目指せば良いという事か?
「皆」がそれを本当に心のそこから「幸せ」だと思うのか?
なら何故「自分の夢」のために「今ある幸せ」を捨てる人がいる?
単純な話だ。
それは「幸せの形」が人によって違うからだ。
「行動」というのは「最後」だ。
「自信」と「目標」で繋ぐ。
「過去」と「未来」の間にかかる橋を歩く。
「行動」するためには「目標」が必要であり、「目標」を立てるためには「自信」が必要である。
だから「行動」する事において一番重要なのは「自信」であり、次点で「目標」。
そして「危機感の彼」や「成功者達」が語る「幸せ」のために「行動しろ」というのは言ってしまえば「幸せの形」が決まっており、「個人の幸せ」は想定していない。
例えば「危機感の彼」の「男らしい男」「モテる男」
というのも結局は「彼の思う幸せの形」だ。
彼には「自信」があり、「目標」があり、「行動」した。
しかしながら彼の体型は筋トレをしている人間、特にボディビルなどをしている人間から言えばとてもじゃないが人に対してマウントを取れるほどの物ではない。
パワー競技の選手視点で見た場合も力不足だ。
恐らく格闘技者視点で見た場合も同じだろう。
だけど彼にはそれで充分な「自信」なのだ。
様々な競技の競技者視点で見た時に、あの程度の「自信」で「モテる男」「男らしい男」といった「目標」を作り上げ、それをゴールにして「行動」する分には。
彼の幸せを馬鹿にしているわけではない。
ただ他人に押し付けてくる幸せ、「自信」と「目標」の割には自信の裏付けが「正論」しかない事。
そしてその正論に従わない者達を「ダサい」と切り捨て、金を払えば自分が経験して手に入れた「教訓」を与える、という事にに嫌悪感を覚える。
「教訓」っていうのは凄く重要な事だ。
本来ならそれを伝えていれば自分も嫌悪感を感じていない。
何故教訓を動画で伝えないのか、といえば「ケチ」だから。教訓は金になる。
もしくは「大した経験をしていない」から。
だから少ない強みを小出しにしなければ儲ける事ができない。
だから「正論」で相手の意見や考えを封殺する。
「自分の経験」ではなく、「先人達が蓄積してきた経験」、つまり「他人の経験」。
「他人の価値観」を「他人の経験」で言い負かす。
それが「自分の教訓」ならしっかりとした「自信」があり、他人の考えを切り捨てるのであっても「受け止める」事ができる。
受け止めた上で正面から叩きのめす横綱相撲では相手にしても純粋な「力不足」を痛感させる。
しかし他人の褌で猫騙しを決めるような戦法では相手に「油断しなければ勝っていた」という「後悔」を覚えさせる。
どちらも同じ「敗北」であっても前者は「次」に進めるが後者は「過去」を振り返る。
「油断しなければ勝てた」という事は自分の力不足ではない、という思考に陥りやすい。
「卑怯な相手」は二度は通用しない手段が取れない以上、勝てる方法が見つかるまで再戦しない。
だから「卑怯者」なのだ。
そして足踏みを続ける相手を尻目に相手が自覚していない弱点を見つけ、二度と楯突かないように弱点を徹底的に攻めたてる。
そして「結果的」に「やっぱり自分の言った通りだろ」と告げる。
素直に地力をつける人間なら卑怯な真似をそもそもしない。
卑怯な真似をし、逃げ続け、相手の弱みを掴んでそこを攻める。
「生き死に」をかけた勝負ならそれも良いだろう。
しかし、それはやはり「獣」だ。
そして常に勝負は「過去」の話。
「未来」に備えて地力をつけていないから卑怯な真似をする事になる。
「相手に勝ちたい」という「自分の目標」ではない。
卑怯な真似をした「過去」を帳消しにするために勝利して「周りの人間」を黙らせる。
卑怯な真似をされなければ自分が勝っていた、という「相手」を黙らせるために弱点を突き、潰す。
「過去」と「他人」。
「自分の自信」も「自分の目標」もない。
「正論」と「他人から認められる」という他人任せの自信と目標に橋をかけて「行動」しなかったお前が悪い。
「自分」は「行動」したから勝った。
だから自分が「正義」。
それを自分は「結果論」としか思えない。
相手が自分より弱かったから勝てただけであり、
周りが自分を強く批難しなかったから勝者という立場にあるだけ。
それでどんな教訓を得た?
時間稼ぎとやったモン勝ちの哲学?
そんなものはクソ喰らえだ。
けど残念だが「危機感の彼」だけではない。
日本全体がそうだと言える。
高齢者も「逃げ切る」事で責任を放り投げようとしている。
成功者の中にも「バレなきゃ良い」という奴がいるから毎日のニュースのように様々な不祥事が露わになる。
自分もそれはあまり人の事は言えない。
全部放り投げて、自殺しようとしたから。
だからこそ「行動」について思う。
「自分の自信」を探し、「自分の目標」を作り、「自分の幸せ」にむかって行動するべきだ。
「自信」を「正論」にすり替え、「目標」を「誰かの為」にすり替えて「言われた通り」に行動するのは結局のところ何もしていないのと同じ。
「行動しろ」そんなふうに言ってくる人は多いだろう。
だからこそ過去に目を向け「正論」を跳ね返す「自信」を見つけ、そこから未来を見据え「誰かの為」に取って代わられる事のない「目標」を作る事から始める。
「物事の50%を占める第一歩」を作り出す、33%の自信と17%の目標は自分自身にしか探せないし作れない。
自信と目標のない行動は単なる「浪費」だ。
「行動しなくては」と焦った時にこそ、落ち着いて「浪費」にならないように気をつけないと自分を殺すハメになる。




