「拘り」と「次の機会」
前回の続き
「正論」と「金」で「安心」を手にいれたらそれ以上の「安心」を求めるのではなく、「拘り」と「自由」をどう手に入れるかを考えるべきだ。
「自由」を手に入れるやり方は例えば「FIRE」というライフスタイル。
極端な話、「金」を溜め込んで「自由」を得るライフスタイル。
あのライフスタイルで「成功」する者、「失敗」する者の違いは溜め込んだ金と自由な時間をつぎ込む「拘り」が備わっているかどうか。
FIREという名前はここ数年、最近聞くようになった言葉だ。
しかし過去を振り返れば現在のFIREと同じように金と時間に余裕のある貴族や大商人などは科学や芸術に熱量を注いでいった。
だからFIREで失敗、というのは実はない。
今まで見てこなかった「拘り」、つまり「本当に自分が好きな物」をかつての貴族や大商人が行っていたように有り余る時間と金で探せば良い。
結局その「拘り」というのは誰にも理解されないかもしれない。
「恥ずかしい事」なのかもしれない。
それは個人の先天的な素質、後天的な影響からくるものであり、個人差がある。
だけど多分凄く「楽しい」筈だ。
金がかかるかもしれない。あまり金がかからないかもしれない。
時間ががかもしれない。あまり時間が必要ないかもしれない。
あれほど欲していた「安心」も「自由」も気づけば優先順位が下がっている。
逆の見方をすれば拘りが満たされてさえいればその程度の低い優先度の安心と自由で充分なのだ。
そして気づけば「危機感」由来の行動、挑戦、努力より数倍の行動と挑戦と努力をひとりでにしている。
そして「正論」を使わずとも「教訓」で人を動かしている。
何故なら過去の「自分自身」が言語化する以前の「教訓」によって動かされた。その実績がある。
そこには「楽しかった」「嬉しかった」という感情がある。
半笑いで人を馬鹿にしながら「やらない奴はダサい」と言うよりも真っ直ぐな笑顔で「自分は楽しかった。きっと君も楽しめると思う。やってみない?」と言われる方が安心できる。
それでもやらない奴もいるだろう。
しかしそこで「弱虫が」と吐き捨てるより、「やる気になったら声かけてよ」と言われた方が罪悪感を感じずに「次」の機会が来るかもしれない。
「人生は一度切り。次なんて期待するな」
と自分は何度言われた事か。
「次がないかもしれない」
そんな状態ではやりたいかどうかも分からないまま焦ってやる、疲れたままやる。
それでは体も動かず、頭も回らない。
そのままやっても心は踊らない。
そんな最低限の状態では拘れない。教訓も生まれない。
「コレは嫌だ」という苦手意識の感情が「次の機会」を消し去る。
「やらない奴はダサい」と煽られた。
「弱虫」と吐き捨てられた。
「次は無い」と選択肢を突きつけられた。
そうだ。選んだのは自分。
自己責任だ。
「やる事」を選択した。
それで嫌な思いをしようが全て自分が悪い。
煽った相手は遠回しに「やれ」と命令しているのに近いのに言質を取られないようにあくまで自分は無関係で当人が「自発的にやった」と言う体裁を取り繕う。
そこまで他人に行動を取らせた責任を取りたく無いのか?
そこまで他人に情けをかけたくないのか?
そこまで他人の面倒をみたくないのか?
それなのに「人の上」に立ちたいのか?
「危機感の彼」だけではないがそうした人間が自分達のコミュニティの「新参者」の「次の機会」を切り捨て、人を減らし、「衰退」へ向かわせる。
「次」がないなんて事はそうそうない。
勿論大人になってから「もう一度小学校に入りたい」なんてのは無理だが。
とはいえ「やるべきかやらないべきか」と悩むくらいの事ならまた「次」はくる。
それこそ「生涯現役」なのだろう?
その時までに「金」と「時間」を、「安心」と「自由」を備えておけば良い。
「金」と「時間」が余り、「やっても良いか」と言う気持ちになればその時はまた別の誰かが迎えてくれる。
「楽しかった。またやりたい」「アレができて嬉しかった。次はコレをクリアしたい」
その思いが「次の機会」を作る。
「次やりたい事」.「その次にやりたいこと」と知らず知らずに目標を作る。
喜びが努力を重ねさせ、重ねた努力が他人の怒りに共感し、。
そして哀しみを悔やむ事で今度は楽しさを他人に提供したくなる。
「新規」を増やし、増えた人を定着させるために「次の機会」を設ける。
そうして他人のために動き始めるから莫大な「金」と「時間」が必要になる。
他人に与える為の「安心」と「自由」を生み出すために。
自分の言葉を正当化させるための「正論」は軽い。
拘りがなく、ただ快楽のために消費する「金」の有り難みも軽い。
そんな軽さでは「安心」など簡単に吹き飛ぶ。
そんな軽さでは「人の上」になど立てない。
だからこそ他人に自分の拘り抜いた「楽しさ」を与えるための「正論」は重く、「金」の有り難みも重い。
それだけ他人を「安心」させる事とは重いのだ。
それだけ重さを持つ「拘り」があるから、「教訓」があるから「人の上」に立てる。その資格がある。
自殺未遂した弱者が何をそんな偉そうに、とそんな風に思う人もいるだろう。
確かにそれを言われちゃ敵わない。
けどだからこそそんな奴でもこうして「次の機会」を貰い、今生きている。
「死ぬ機会」を逃したがまたそのうち「次」はくる。
今は一度逃した「死ぬ機会」を挟んで2回目の「生きる機会」。
だから生きてる限り「次の機会がこない」なんてのはそうそうない。
勿論、明確に「今を逃せば機会を失う」と言うのが分かっている物もあるが、恐らくそれなら既に迷ってなんかない。
迷うだけの自由があると言うなら、備えておけば良い。
そして「次」の機会に前に迷った後悔を晴らせば良い。
後悔が晴らせなくてもその教訓を活かせば別の拘りに活かせば良い。
後悔だらけの人生でそれをネタにエッセイを書いている。
そしてもう既に「次」のネタを考えている。
いくつかのネタがあり、どれを書こうか「迷い」がある。
明日投稿しようか、一日おいて見ようか、と「迷い」がある。
「もう嫌だ」「やりたくない」そう思わない限り.いくらでも次の機会はある。
自分はそう思う。
脱線するくらいなら脱線する毎に話を分ける、と言うのも有りだけどエッセイって一話どのくらいがちょうどいいのかねぇ、と300話間近になって考え込む。




