正論と金
話が長くなって後半別物になったのでぶつ切り
前回再びエッセイのネタにした「危機感の人」もそうなのだが「正論」を語る人は多い。
自分の場合は「正論有りき」で極力考えないようにしている。
正論からスタートすれば女嫌いの肯定、責任の分割、毒親や多数派に問題がある、といった自分の考え方は世間から見れば「悪者」でしかない。
しかし結局そうした正論有りきでないスタートでも結局のところ正論に辿り着く。
なら自分のような考え方も有りと言えば有りだ。
正論を口にする人は「危機感の人」のように「教訓」に乏しい。
正論字体は自分も否定していない。
単に「正論を言うだけなら誰でも出来る」という話だ。
教科書、マニュアルを見れば書いてある。
それを見れば良いというのであれば親も教師も上司も必要ない。
「正論」は言うなれば「様々な人間の過去の集大成」だ。
「統計」「データ」、そうした物と似ている。
そうしたものから「傾向」なども伺える。
だからある意味では「占い」などもそれと似たようなものだ。
「◯◯の場合、△△を選ぶ可能性が高く、その場合高確率で□□となる」
「過去」を見て「現在」に示し出された選択肢を導きだし、さらに「過去」と「現在」を照らし合わせて「未来」を予測する。
だからこそ、「正論」に反論すると言う事は「過去に集められたデータ」に対して批判すると言う事であり、生半可に覆せる事ではない。
だからこそ、「教訓」や「考え方」といった「現在」に相当する「選択肢の選び方」、つまり「その選択肢のメリット、デメリット」を提示出来ない者は信用ならない。
勿論、それすらも「知識」でガチガチに固めている人もいるがそれが所謂「オタク」だ。
ここまで色々語ってきたがつまり正論が「過去」を示すもの、と言うことを伝えたい。
そして「過去」とは「愛」における「金」でもある。
「正論」ばかりを語る者は「金」にガメつい。
逆に「金」にガメつい奴は「正論」ばかりを語る。
別に統計を取ったわけでもなく、自分の主観による感想だが多分、そこまで間違えてない。
まぁ、「金」にガメついのも「正論」しか言わないのも個人の自由なので勝手にすれば良い。
と言いたいところだが大抵の場合、こうした人間は周りに対して「金」で何でも解決しようとするから無礼であり、配慮がない。
「正論」ばかりだから他人の自由や趣味というものにケチをつける。
自分はどうなのか、と言えば別に他人の自由や趣味にはケチはつけない。
ただ「危機感の人」はそれで金を稼いでビジネスなわけだし、彼の動画で罪悪感を煽られている人もいる。
まぁ、個人的に気に入らない趣味とか性癖もある。NTRとか。
ただそれを押しつけてこない分にはこちらで見なければ良い話なのでどうでもいいとは思う。
話を戻して「正論」や「金」を重視する人間は「拘り」が感じられない。
つまり「何が好きなのか」が分からない。
テレビに映るような有名人や金持ち、ネットのインフルエンサーなどもそうだが自分は不思議でならない。
そんなに正論を語り、金を稼いで、結局のところ何がしたいのか。
良い女を侍らせたい、豪華な家を建てたい、おしゃれな服を着たい。
勿論、それが好きな人もいるだろう。
それで満たされているなら別に良い。
そしてそれで満たされいる人間は大抵「拘り」があり、「教訓」がある。
何故それで満たされず、もっと求めるのか。
「正論」ばかりの「正論オタク」でも良いだろう。
そこには「深い知識」と「知識の活用法」も備わる筈だ。
「金」を稼ぐ事自体が好きな者もいるだろう。
「金」を無駄遣いする事が好きな者もいるだろう。
ならそれで充分満たされる筈。
何故「他人」にケチをつけるのか。
結局それは「満たされていない」からに他ならない。
だから「たくさん稼いでないのに趣味などで満たされている人間」を見るとイライラする。
正論を口にする自分と「異なる価値観」を否定したくなる。
「金があれば何でも買える。」
漫画のヒーローなら「愛や友情は金では買えない!」なんて言うのかもしれない。
実際には金で大方買ってしまえるわけだし、ヒーローでもないからそんな強くは言えない。
けど「何でも買える金」で「貴方は何を買ってどうしたいの?」と言う話なのだ。
「正論」はいらない。「貴方が何をしたいのか」を聴きたい。
「愛」の中で唯一形のある「金」と言う物。
親が子どもに与える「最低限」必要な「金」とは「衣食住」である。
何故必要なのか、といえば子どもが「安心」して生きて成長するために必要不可欠なのだ。
「金」にガメつく、「正論」でねじ伏せる人は結局のところ「安心」が欲しいだけなのではないか。
愛を構成する「金」が「安心」を生むなら、「時間」は「自由」を生み、「労力」は「拘り」を生むと自分は考えている。
金にガメつい奴は「安心」を求める。
安心を得るためには時間も労力も厭わない。
時間に細かい奴は「自由」を求める。
自由を得るためには金も労力も惜しまない。
労力を削る奴は「拘り」を求める。
拘りを満たすためには金も時間もつぎ込む。
自分の経験側でしかないから根拠はない。
しかし「安心」は他人から「与えられるもの」だ。
「自由」は「手に入れるもの」である。
「拘り」は「見つけるもの」である。
安心だけ、「他人」に依存する。
加えて言えば愛の中で唯一「物質」として存在しているのが「金」である。
他の「時間」と「労力」は目に見えない「概念」的な物。
概念から生まれた自由と拘りと言う概念に対し、物質から生まれた安心という概念。
目に見える物質しか信じない人間は「安心」を求めつつも目に見えない「安心」を信じきれない。
満たされるわけがない。
だからこそ「安心」を得るためにとにかく金を集める。
そして自由に目を向けることがないから時間を失い、常に焦っている。
自分の拘りを知らないから不必要なものに金や時間を費やして満たされず、疲弊する。
焦った心と疲弊した身体を癒す為にさらに「安心」を求め、悪循環にハマる。
「安心」と「自由」と「拘り」。
全てが満たされていれば理想だ。
2つ満たされていれば充分。
しかし、1つだけでは悪循環にハマる。
一つも満たされなければ人は死ぬ。
今の日本は「安心」も無ければ「自由」を語れば自己責任、そして「拘り」も捨てろと言う。
いくら平和で安全で物に溢れていても「安心」ができない。
それは昔も同じだったのかもしれないが昔は「自由」があり、「拘り」をもっていても何も言われなかった。
だからこそ「安心」へ向けてエネルギーを向けられた。
自由と拘りを満たし、安心へ向けて努力する。
まさにそれは「子ども」の生き方に近い。
「日本はオワコン」とか以前から言われている話だが自分の理屈でも「死」に向かって当然。
大人が子どものように安心を求め、子どもが親を安心させる。
子どもが親を、下の人間が上の人間を安心させるには「媚び」を売るしかない。
媚びを売る事で子どもは心と身体をすり減らす。
そしてそこまでやっても大人には一時的な「安心感」しか得られない。
だからさらに安心を求める。
そして自分の安心を子どもに分け与える事にケチになっていく。
その賤しい心を隠す為、「正論」を子どもに叩きつけて奴隷のように扱い、子どもから自由と拘りを奪う。
だから子どもは自分の自由を取り戻すために時間にルーズになる。
自分の拘りを満たす為に飽きるまで延々と遊ぼうとする。
だから「安心」を得るための努力に集中できない。
自分の安心を守るため、自分が媚びてきた大人と同じように他人に対して正論を叩きつけていく。
その繰り返し。
次回に続く




