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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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褒めちぎる

散々ここまで「褒めちぎる」という事を扱き下ろしてきた。

しかしこの「褒めちぎる」が無価値かと言うとそういうわけではない。

上下関係における「タスク管理」でも評価基準の「事実確認」でもない。

「褒めちぎる」というのは例えるなら「鎮痛剤」だ。


「豚もおだてりゃ木に登る」と言うが実際、そうした言葉に乗せられて実力以上の力を発揮する事もある、らしい。

自分はそんな風に褒めちぎられた事はないが逆に自分の力にブレーキをかけられた事ならいくらでもある。

他人の所為にするとかではなく良くも悪くも「他人の言葉」と言うものには力がある。

自信や信頼が揺らぐ事もあるし、逆に強固なものになる事もある。

自分は「プラス」の側面は知らないが「マイナス」の側面があるのだからそれは認めなければならない。

それは逆の立場の人間、「マイナス」は知らないが「プラス」の効果は知っている者も同じ。

「祝」 も「呪」も根本的には同じ物。


問題は「褒めちぎる」と言うのは本来なら「プラス」の作用が「マイナス」に転じる事もある。

そうした意味で「鎮痛剤」と例えた。

もっと薬品を限定すれば「モルヒネ」と言えば分かりやすいかもしれない。

「褒めちぎる」事で実力以上の結果を出せると言うのは「無理」をする事について歯止めがかからない、後先考えないから「現在」の事に集中できる。


「段取り8分」と言うがこの8分の内訳には「後始末の段取り」まで入っている。

つまりは「責任」の内訳もしっかり入っている必要がある。

だから「子ども」の頃から「段取り8分」を徹底させると何も挑戦できなくなる。

子どもには責任を取る能力が低いからだ。

親がそれをカバーし、子どもの成長とともに徐々にその責任感を持たせる必要がある。

子どもの頃には「責任」を取らせる事より、まずは「挑戦」をさせる事を優先させる。

そのためには「褒めちぎる」事で「段取り8分」を無視させる。

「失敗した時の責任の取り方」だとか「仕事が終わった後の後始末」などは子どもの成長の優先順位としては低い。


問題は「褒めちぎる」と言う事しかしていないとモルヒネの副作用となる「せん妄」や「依存性」、そして「耐性」が生まれる事と同じ事が起きる。

「褒めちぎる」と言う事によって子どもに挑戦させる事は良いがそれは「成功」を過剰に評価するという事だ。

クオリティの出来が60点を100点のように讃える。

所謂「全肯定」だ。

もし目的が例えば「引っ込み思案な大人しい子にとりあえず挑戦させる事」であるというのなら例え失敗しても「褒めちぎる」のも有りだ。

しかしコレが「一定のクオリティレベルが求められる」のであれば「褒めちぎる」ではなく「優先順位を決めてやる」事を目的とした褒めるでなくではならない。

そうしなければ「再挑戦」する事も「反省」する事もない。

クオリティは低い上、その低さを「褒めちぎる」ことで肯定してしまえば「それで良いんだ」と過剰な自信を身につける事になる。

そして「自分は出来る」と過剰な自信、これがモルヒネで例えた時の「せん妄」状態であり、この実力に見合わない過剰な自信を持ったまま「次」へ向かう。


「褒めちぎる」事で身につくものは「スピード」だ。

「時は金なり」、というほどに時間は重要だが「褒めちぎる」という事で誰の「時」が「儲け」となっているか、といえば「褒められている者」ではない。

「褒めちぎる者」の「時」である。


「スピード」が身につくといえば聞こえは良いがクオリティは最低限レベル、過剰な自信も身につけていったいどれほどの価値があるのか。

そもそも「何のスピード」がつくのか、といえば「諦め」のスピードしかないだろう。

「出来ない」ならやらない。

「出来る」からやる。

これほどつまらないことはない。

「褒められたい」から「仕事」をする。

クオリティの低さは「仕事」への「情熱」の低さであり、「粘り」の弱さでもある。

「飽き性」であり、それを肯定され、その特徴をより強くしていく。


飽きる、というのはそこからもう得るものがないと判断した場合に発生する感覚だ。

どんなに面白いゲームやアニメ、漫画でも飽きが来る。

自分のような「考察厨」であったりオタクと言うものは「飽きる」と言うこと、つまり「得るものがない」と言う事に辿り着くまでかなり距離がある。

何故なら「飢え」ているからだ。

その飢えを満たすために粘着質になるし、そこからあらたな解釈を考えたりもする。

そこから新たなものを「生み出す」事に繋がるきっかけも見つかる可能性もある。


「飽きる」と言うのは「満たされている」から飽きる。

「満たされている」という状態がニュートラルになっており、だけど「褒められたい」。

「刺激」が欲しい。

ある意味ではオタクと一緒だ。

「褒められたい」と言う感情に対するオタク。

だから飽きては別の事に取り掛かり、褒められようとする。

モルヒネの「依存性」に取り憑かれる。


しかし成長とともに言語力の発達、基準の上昇とともに「昔」と同じレベルの「褒められる」では物足りなくなる。

モルヒネも耐性がつけば以前と同量では足りなくなる。

もっと「強い刺激」を求める。

そのためには「責任のある立場」に立つ必要があるわけだがその立場に立つには「褒められたい」と言う今までの価値観、生き方を捨てる必要が出てくる。

なぜなら「責任ある立場」とは「人を育てる側」であり、今度は自分が「褒める側」に立つことを意味する。

そしてその「責任ある立場」の中でも秀でた存在になるには「褒めちぎる」だけではなく、「正当に評価して褒める」、「褒める事で優先順位をつける」という能力も必要になり「相手のこと」を考える必要がある。

「よりたくさん、より強く褒められたい」にも関わらず、それを手に入れるためには自分の欲求ばかりを求めていては手に入れられない。


男なら「選択肢」がある。

「自分」のためか「家族」のためか「仕事」のためか。

色んな事に情熱を注いできた。

だからどれかのレベルを「次のステージ」にあげる時、別のどれかを切り捨て、選択する。

そしてその頃には「女」としての要素がある程度備わっている。

「拘り」があるから、その「拘り」を優先させるために必要なくなったものを「捨てる理由」が生まれる。

だからオタク気質な素養を持つ男であっても「決断」できる。


しかし女は「捨てる」しかない。

子どもの頃は親に選択肢を与えられ、

大人になると男から選択肢を与えられる。

自分の欲求を満たすための趣味はあるが自分の情熱をかける趣味はない。

自分の情熱は常に自分に向いている。

「男」の要素を得て、自ら「自分以外」のものに価値を見いだせればそのために「情熱」を燃やす事ができ、結果的に「賞賛」される。

だがそれは難しい。

「自分以外」のもののために「情熱」を燃やす事はつまり「自己犠牲」だ。

「女」が「男」の要素を手に入れ、「自己犠牲」の精神を手に入れる、つまり「母」となる事。


それが如何に困難な事か、自分は男だから分からない。

だから「男」は「母」となろうとする「女」を支えなければならない。

「男」が自分を犠牲にする価値が「母」というものがある。

同時に「女」が「母」になるだけの価値が「子ども」にはある。

しかし、「子ども」を「未熟な人間」としてしか捉えていない場合、一生かけても「母」になどなれないし、「男」も「支える価値」を見いだせない。

そのためには「子どもの頃」に如何に「母親」を感じ取れるか。


自分のエッセイでは見飽きた考え方かもしれないから読者には目新しい結論ではないかもしれないが結局はどの方向から考えてもそこに辿り着く。

そして「褒めちぎる」という事の例えで以前のエッセイで出した「田舎のラジオリスナー」。

田舎というものはその「褒めちぎる」という「鎮痛剤」で多少強引にでも無理をさせてそれでも生き残った存在を選ぶ教育だ。

昔の田舎、1家庭に子どもが10人もいた昔から変わらない。

一家庭当たり、子どもが10人から5人程度に兄弟が減り、それでも「褒めちぎる」事をやめなかった。

そしてその5人から一家庭に子どもが1人か2人になっても止められない。

生存者バイアスによって「耐えられた存在」は強固な「自信」を持つ。

そして生存者バイアスがかかった者が結婚し、子どもを得て、同じようにその教育を施す。

現実には「出生率」も減り、人口の流動もほぼ「流出」と言って良い状況にも関わらず、だ。

その結果、少子高齢化しても過疎化しても変えないのだ。


「褒めちぎる」事しかしらない。

「褒める事は甘え」という事にしてしまいたい。

それは昔から時代とともに対象は変わっても親がやってきた事だ。

「小説を見ると馬鹿になる」

「テレビを見ると馬鹿になる」

「漫画を見ると馬鹿になる」

「ゲームをやると馬鹿になる」

「ネットをやると馬鹿になる」

今の時代なら何かな。

SNS?

とにかく「自分と異なる価値観」を許さない。

その一つの根拠が「地元から離れたからこそ分かる故郷の良さ」とかいう話である。


上記の理屈は「当たり前だと思っていた事が地元を離れてみたら当たり前ではなかった」と言うものだ。

似たものでは「一人暮らしをして親のありがたみを知った」などもある。

コレは結局のところ「当たり前」と思うくらい、その存在を「見下している」と言う事だ。


でも自分はそれで良いと思う。

「気づく」のは「怒り」の季節の間で良いと思う。

そして実際に「返したい」と実行するのは「哀しみ」の季節で良い。

何故なら人間には限界がある以上、「優先順位」が必要であり、先に成すべき事があるのは分かりきっている話だ。

しかし、褒めるというもののバリエーションが「褒めちぎる」だけと言う環境で育った人間はそれを理解できない。

クオリティが低くても反省しない。

飽きては次から次に物事を移り変わり「スピード」重視で生きてきた人間だ。

他人にも「スピード」を求める。


「捨てる力」、「決断力」は「女」の強さ。

けど「褒めちぎる」事で形成された「捨てる理由」というのは非常に危うい。

重要な事を見落とす。

大切な事を踏みつける。

「褒められる」という事に依存し、より強い刺激を求めていくのはいずれ取り返しのつかない事になる。

そして女が捨てたその取り返しのつかない「責任」は

男が尻拭いをする羽目になる。

親の責任を子どもが背負う羽目になる。


鎮痛剤を、モルヒネは理由なく打つものではない。

必要に応じ、慎重な判断のもと投与される。

せめて「褒めちぎる理由」を説明してほしいものだ。

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