3種の「褒める」
褒めるには3種類ある。
そのうち2種類は語ってきた。
1つは以前のエッセイで語った「田舎のラジオリスナー」のように自分のために相手を褒めちぎるもの。
中身が薄く、相手を持ち上げ、気分をよくさせる。
もう一つは親子関係、上司と部下、教師と生徒といった「上下関係」において「下の者を安心させる」と言うもの、そしてそれは「タスク管理」と言い換える事も出来るもの。
この2つとは別に単に評価する意味合いの褒める。
コンテストなどで作品を褒められる。
これは審査員と作品を作った人間、といった直接的な上下関係は関係ない。
上下関係がないため、この場合の褒めると言う行為の価値はほとんど無い。
「煽てる」わけでもなく、「タスク管理」の意味もない。
単に事実確認に近いものである。
学校のテストなら問題毎に点数が割り振られているため、その問題を解けるかどうかが評価の対象だ。
そこには評価のためにアレコレと理由は必要ない。
解けるなら良し、解けなければ減点。
しかし芸術作品や演技などの明確に点数が割り振られていないものは審査員の主観が基準となる。
その場合の根拠。
「どうしてこのように点数をつけたのか」
と言うものの証明だ。
明確な根拠もなく審査員の好みで点数をつけられたらそうしたコンテストに真面目に望んだ人間が馬鹿らしくなる。
だから「事実」として「良かった部分」、「高評価を与えた理屈」を語るのが一つ目の「褒める」である。
事実を語るだけなので簡単だし、特に意味もない。
無駄な事だが「自分は公平にジャッジしている」と言う証明は必要な事だ。
物事をフラットに見る事は難しい。
「事実」を「事実」として証言するには自身の感情や欲を自制する精神力とそれによって後からアレコレ言われる可能性や場合によっては危害を加えられる可能性もある。
ネガティブな「事実」を突きつけるよりは直接的な恨みを買う可能性は低いが「お前がアイツを褒めなければ今頃、自分が」という逆恨みがなくもない。
その時に「事実」を告げた場合と感情と欲で「脚色」したものを告げるのとでは周りの反応がかわる。
たった1点でもそれによって覆る可能性がある。
特にコンテストなどの誰かと誰かを比べると言う際に脚色して褒めれば相対的に誰かを蔑める事になる。
「事実」を述べるだけの本来なら「無価値」な「褒める」。
この種類の「褒める」に「価値」を与えてはいけない。
「無価値」である事がこの場合の「褒める」の意義であり、「価値」である。
3種の「褒める」がある、としたが日本で「褒める」といえば必ず「甘え」に結びつけられる。
勿論、無関係とは言わない。
どの「褒める」であっても「基準」がある。
「プロ並み」と言うのはアマチュア競技では賞賛の言葉になるが、プロの選手となればそれは皮肉にしか聞こえない。
基準を超えるから褒める。
それなら基準を低くすれば褒める部分はいくらでも増やせる。
とはいえ「褒める」と言う事が「甘え」に繋がるのは主に「タスク管理」や「事実」を告げる類ではなく、「褒めちぎる」ものだ。
逆に言えば「褒める」=「甘え」と考えると言う事は「タスク管理」が甘く、結果として誰かに助けて貰う前提の人間といえる「かもしれない」
「事実」を「脚色」する事に罪悪感を覚えない人間と言える「かもしれない」
さて、この「褒める」=「甘え」の考えとなる「褒めちぎる」類の褒め方の例として以前のエッセイで
「田舎のラジオリスナー」とは言った。
このラジオリスナーは自分の地元に限ればこれは恐らく「農家」などが多い。
日中、仕事の最中にラジオを聴きながらあまつさえそのラジオにメッセージを投稿するなんてのは、恐らく田舎でも「会社勤め」の人間なら多分しない、というかまともな職場、そしてまともな感性なら出来ないだろう。
「農家」というそのへんは比較的自由な職場環境だからこそ作業しながらラジオを聴き、メッセージを送れる。
しかしそんな「農家」だからこそ「上下関係」に対する感覚が緩い。
勿論、人を雇っている農業法人もあるが日本の農業の主軸は個人農家であり、農繁期など人手が欲しい時に一時的に人を雇う事はあるが基本的には親族だけ。
だから本来なら秘匿しなければならない個人情報をポロッと漏らす事もある。
例えば新規のバイトに対して「この間バイトで来てくれた◯◯さんは△△って所から来てくれて〜」など。
大した情報じゃないから「話のネタ」にしても良いだろう、という風にでも思っているのだろう。
「自分のため」に他人の秘密をバラす。
ネットが一般的ではなかった昭和、平成前半はともかく、この令和の時代でもまだそういう農家はいる。
それを「おおらかさ」と取る事もできるが「雇い主」と「バイト」という上下関係において「上」の人間が「下」の人間をネタにしたら一般企業なら訴えられても仕方ない。
結局のところ「農家」はお互い同列の「仲間」の感覚があり、唯一の上下関係は「先輩、後輩」という「年齢」なのだ。
だからこそ「上司」として「下に対する褒め方」、「タスク管理」の感覚が薄い。
その一方で皆が「同列」であり、「仲間」と言う事は「ライバル」でもある。
「陰陽」における「スポットライトの光の下」には「陽キャラと女」がいる。
「陰キャラと男」を光の外に追い出し、最初は「仲間」でいられるが外から食料が持ち込まれ無ければやがて少ない食料を求めて「仲間」で争う。
「仲間」の中で「より優れた者」に少ない食料が与えられる。
「強い男」に「綺麗な女」。
それぞれリーダー格を決めて「派閥」を組んで争う。
結局、そうなればそのリーダー格に「いかに気に入られるか」と言う話になってくる。
そうなると3種の「褒める」は「褒めちぎる」に統合される。
「事実」は「脚色」され、「賞賛の言葉」は「過剰」になる。
「タスク管理」は自分より弱い者を「犠牲」にする事を厭わなくなる。
「媚び」を売り、「虚飾」を重ね、「支配」しようとする。
だから「褒める」=「甘やかす」という意識となりやすく、キャバクラなどで嬢を褒めちぎる事はあっても人間関係の土台となる親子関係で「褒めない文化」が根付いてしまった、と考える事が自然に出来る。
「褒めない」ならそれでも良い。
自分は生まれてこのかた褒められた事は殆どないが生きている。
「褒める」と言うのは「生きるため」には必ずしも必要ではない。
だがそれは自分の「生きる」の基準が低いからだ。
たまに「国ごとの幸福度ランキング」などがあり、毎度の事ながら「日本」の国民は不幸だと感じている。
そうなると「日本人は上を見過ぎ」と言う人が毎回いるわけだ。
「不幸を嘆く日本人」を表した数値やグラフに向けて「上を見過ぎ」と嗜めるのはもう何度も聞いた。
何故「上を見るのか」を考える。
自分は「褒められたい」からだと考えている。
昔の自分がそうだった、と言うのもあるが色んな理由を突き詰めていけば結局それ以外に見当たらない。
「成功者」という「少数派」に基準を合わせる。
それでは誰も褒められない。
褒められた経験がなければ「褒める」という価値が分からなくなる。
「褒め方」が分からなくなる。
「日本」に元からあった価値観が「褒めない文化」なら、その上に西洋から「褒める文化」が持ち込まれたわけだ。
今までは国単位で見れば何やかんやで両立する事ができた。
しかし地方と都会の分断、格差を生んだ。
結局のところ、本質的な所では「良いところ取り」は出来ていない。
一部の上澄みだけが美味い蜜を吸ってはいるがそんなのは「文化」ではない。
伝統工芸も機械も、全て起点となる発想は「弱者」だ。
「少ない体力」「小さいスペース」「少ない時間」で「大きなリターン」を。
「褒めない文化」と「褒める文化」の融合。
偉い学者が理屈を語っても文化は生まれない。
「始まり」は「許す」事。
けど次から次に「馬鹿にする言葉」「差別的な言葉」が出てきて定着するけど一向に「許す言葉」「褒める言葉」が見当たらない。
それだけ「スポットライトの光の外」に目を向けて価値を見出すのは難しいってことだ。
得意なのは「飾る事」。
「褒めちぎる」事が「陽キャラと女」の得意な事なら、「タスク管理」の前に「事実」を「脚色」無しで「褒める」事から始めよう。
それが「許す」事に繋がりそうだ。




