褒める事と許す事。
褒める事と許す事は似ている。
許す事は罪を犯した事に対する謝罪を受け入れてそれ以前のフラットな関係へと戻す事。
「罪」といえば犯罪や法や契約の違反などが真っ先に思い浮かぶし、以前の罪悪感の話で謝罪について語った時は主にそのイメージで書いていた。
しかし、謝罪と許す関係については「加害者・被害者」と言う関係だけではなく、「親子」「上司・部下」と言う「上下関係」でも行われる。
その上下関係の前に考えるべきは「陰陽」の関係、つまり「男と女」、「陽キャラと陰キャラ」。
平等、と言う割にはこの許す事について「男」は甘く、「女」は厳しい。
男は女のミス、罪を許さなければ「狭量」とされる。
つまり男は女を許す事が大前提。
逆に女は男のミス、罪を許せば「懐が深い」とされる。
つまり、女は男を許さないのが根底にある。
その男女のそれと「陽キャラ・陰キャラ」の関係は似ている。
「陽キャラ」は「陰キャラ」のミスを責めたてる。
「陰キャラ」は「陽キャラ」がミスをしても責めない。
勿論、「内心」はどう思っているかは別である。
女が男を許さないように、男だって本当は責めて解決するどころか全てを把握した中立で公平な人間が間に入らなければ悪役にされてしまう。
それと陽キャラ、陰キャラも間に中立な人間が入らなければ悪役になる。
仮にその場では公平に裁かれても後から有る事無い事噂される場合やお礼参りとして何かあっても困る。
結果として責めるべきであっても「男」は「女」を、「陰キャラ」は「陽キャラ」を許さなければならない状況になる。
この事から「陽キャラと女」は「許す事」が苦手である。
では「後の事」を考えた上でなおかつ、「男」が「女」を許さない場合とはどんなときか。
それは「男」にとって「守りたいもの」を「女」が攻撃した時。
「男」は犠牲になる。
それは例えば「女」のためであるし、「子ども」のために犠牲となる事を厭わない。
だが「男」が「守りたい物」に「女」が手を出したらその限りではない。
オタクとツイフェミ、表現規制とそれへの反発は分かり安い。
勿論そうしたネット上の話だけではなく、昔からそれはある。
何故なら「女」よりも次世代を担う「子ども」の方が大事だから。
表現規制にしても「今の女」より「未来の子ども達」のために慎重にならなければならない。
「陰キャラ」にしても「陽キャラ」に歯向かう事はある。
暴力で敗北を喫するかもしれないが陰キャラ自身が馬鹿にされたり、不当に扱われても我慢できる。
しかし陰キャラが価値を見出した事をそんなふうにされては我慢できなくなる。
以前からエッセイで語ってきている事ではあるが「陽キャラと女」と言うのは「スポットライトの当たる場所」にのみ価値を見出す。
一方で「陰キャラと男」と言うのはオタクであり「スポットライトで照らされていない場所に価値を見出す」。
だからこそ、本来の「陰陽道」における「陽」とは「男」であり、「陰」は「女」。
例え社会的には無価値で社会からスポットライトが当たっていなくても、自分が価値を見出したものに自分だけの光を当てる事ができる。
それがオタクであり、「男」「陰キャラ」。
この「スポットライトの光」を「許す事」、そして「褒める事」に結びつけるとそれは「起きてしまった事」と言う話になる。
子どもが行った悪戯に対して謝罪してきたら「許す」。
部下の仕事を「褒める」。
いずれも「スポットライトの光」に当てられた、あるいは曝された行動、その結果に対してそれぞれ「許す」「褒める」。
「許す」という事は「悪戯」を許すのではない。
「罪」に対して向き合い、「謝った事」に対して「許す」のである。
それはつまり相手が子どもであれ、部下であれ、「悪いことをしたら謝罪する」という事に「正解」を示す事になる。
勿論、それは「言葉だけの謝罪」で良い軽いものもあるし、「代償」として何かを差し出さなければならない重い罪もある。
しかし、それによって「許される」という一つの「ゴール」を作る事になる。
あとはそのゴールを目指せば良いだけ。
自分はこうした理由から「許す」もまた「優先順位をつけてやる」、「タスク管理」と言える、と思ったために「褒める」と似ていると最初に述べた。
「優先順位をつける」「タスク管理」と言う共通点が「許す」と「褒める」にある。
では「違い」は何があるのか。
「許す」と言うのは「許される」と言う「ゴール」を作ってやる事。
一方で「褒める」と言うのは「次に進む」ための「自信」を作ってやる事。
「許す」と言うのは罪の「終わり」である。
「褒める」と言うのは悩みの「始まり」である。
では何故日本は「褒めない」のだろう。
それは「陽キャラ」、「女」が中心の社会だから。
「罪」を終わらせる、と言う事は自分達がいるスポットライトの光の下に汚らわしい前科持ちが入ってくる事を意味する。
だから「許さない」
一方で「褒める」と言うのはスポットライトの光の下にいた「仲間」が光の当たらない闇の中へ消えていく。
置いて行かれて心細い。だから「褒めない」
「仲間」は皆「光の中」で暮らし、「闇の奥」には「仲間以外」が行けば良い。
「安定」する事は確かに必要だが、「闇の奥」にしか食料はない。
「安全」な「光の下」に外敵はいないかもしれないがそこに「闇の奥」から食料をもたらされなければ緩やかに衰退し、そしていずれは僅かな食料を巡って仲間同士で争う事になる。
ではどうするべきか。
「始まり」は「女」が「台」になる。
「女」が「許す」、「女」が「褒める」。
この二つのタスク管理で女にとって難易度が低いのは「許す事」だ。
女は「スポットライトの外」には目を向けるのが困難だ。
「スポットライトの下にある事」に価値を見出す。
だから「女の本質」は変えなくても良いからまずは「許す」。
ここでの「許す」と言うのは「一度許した事は後から文句を言わない」と言う事。
つまり、「責任」を持つ事。
子ども、部下、後輩、そうした「下の人間」の謝罪を受け止め、蒸し返さない。
「貸し一つ」じゃない。
「自分が許した」以上、貸しも借りもない。
女が変われば次は男。
「褒める」。
「褒める」と言うのは女の本質とは異なる「スポットライトの光の外」に価値を見出す事になる。
男の本質に沿ってはいるがそのままでは「褒める事」は男には難しい。
何故なら子どもや部下の出した結果は男からすると満足のいくものではないから。
「スポットライトの外」に目を向ける男の性質から、提示してきた結果以外にも目を向けてしまう。
「アレが足りない」「コレはどうなってるの?」
そうやって細かく見てしまう。
その疑問、非常に分かるがまずは「結果」を見る。
そして細かいところは抜きして、目標をクリアしていたら「褒める」。
そして気になる「細かい部分」を次の目標にしてやる。
「女」が「許し」、「男」が「褒める」。
それを身につけた後、「女」は「褒める」ために「細かい事」に意識を向ける。
何故なら「責任」を既に身につけているから、「褒める責任」に向き合えるから。
「男」は「許す」ために「スポットライトの下」に価値を見出し、責任を背負う。
何故なら「結果」を肯定する事を学んだから。「許す意味」を認識できるから。
恐らくこの二つの順張りを逆転すると身勝手な「許し方」や「褒め方」になる。
「女」が許し方を学ばずに、自分の言葉に責任を持たないまま「褒める」。
それはまさに「田舎のラジオリスナー」のようにただただ「褒めちぎる」だけになる。
相手をただ気持ちよくさせるだけの言葉だがそこから先は何もない。
一方、「男」が褒め方を学ばずに、結果をまず判断する、と言う事を学ばないと「全て」が納得するまで「許せない」。
「謝罪」の言葉遣い、マナー、顔つき、今後同じ間違いをしたらどうするか。
相手の責める部分がいくらでも出てきて前に進まない。
お互いに無駄に時間を使うことになり、やがて被害者意識を持ちはじめたりもする。
一度整理する。
「陽キャラと女」は「スポットライトの下」に価値を見出し、「許す」のも「褒める」のも苦手。
そのため「スポットライトの下」に価値がある、と言う性質は変えないまま、「許す事」によって「責任」を持つ事を学ぶ。
「責任」を持つことで「褒める」事についてもただ褒めちぎって相手を気持ちよくさせるだけでなく相手のためになる「褒め方」が出来るようになる。
「陰キャラと男」は「スポットライトの光の外」に価値を見出し、「細かい事に気を向ける」のが得意。
そのため「細かい事に気を向ける」性質はそのままにしてとにかく「結果」を評価する。
気になる部分は「次の目標」として提示して区切る。
「1段飛ばし」、「2段飛ばし」で進ませない。
一段ずつ、一歩一歩丁寧に「結果」を受け止め、「目標」を提示する。
細かい部分を省きとりあえず「結果」を受け止める事が出来るようになる事で相手に「最低限の許す条件」を提示できるようになる。
「許す」と「褒める」。
一言でいえばそれは「甘さ」だ。
「男」は生まれながらに「甘さ」を持ち、「女」を無条件で「許す」、「褒める」。
それでは「女」は我儘放題になるし、そんな我儘放題の女に対して「男」も強くなれない。
だから「甘やかさないように」と「許さない」「褒めない」と言う「女的社会」になってきた。
この「甘い」から「厳しくする」と言う考えにより、「女のような厳しさを持つ男」と「男のような優しさを持つ女」を目指す事になるがスタート地点が異なる。
だから「序列」が発生する。
結果として限られた「スポットライトの光の下」には「陽キャラと女」を、それ以外は「陰キャラと男」を配置し、犠牲者とする。
だから犠牲になるのは嫌だと外に逃げる。
あるいは依存できる相手に逃げる。
「陽キャラと女」は「責任」を持ち、「陰キャラと男」は「結果」を重視しなければならない。
そして順番は「女が始まり」。
「スポットライトの光の中」で「仲間」で一緒に居るのは構わない。
しかしその光を生み出しているのは「闇の奥」にいる「陰キャラと男」。
「犠牲者」の上に自分達「陽キャラと女」は立っている事を認識しなければならない。
「人の上に立つ」とは「権力」や「報酬」が多くなるだけではなく、見えない刃で他人を殺す事でもある。
それを自覚し、殺してきたと言う罪悪感に向き合い、それを少しでも「次の世代」に活かそうとする「責任感」の確立。
そうして「犠牲」となった「陰キャラと男」は報われる。
「陰キャラと男」の犠牲を価値あるものにするのも無価値にするのも「陽キャラと女」次第。




