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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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褒め方を考える。その3

前回の結論として「褒める」と言うのは「目的以外の細かい事を気にしなくて済むようにする事」であり、それは言い換えると「安心させる事」である。

そのための手段、一つのやり方として「相手を良い気分にさせる」と言うのがあると言うだけ。


ではさらに深堀りしてこの「安心させる」と言うのをさらに上下関係に落とし込んだ場合の言い換えは何かないだろうか?と考える。

「相手に目の前の事だけに集中させたい」

これはつまり「選択肢や情報が多すぎ迷っている状態」とも言える。

上の立場の人間が褒める事で下の人間を安心させ、目の前の事に集中させる。

その事から考えると相手を「褒める」と言うのは「優先順位をつけさせる」と言える。


勿論、最終的には「誰かに褒められなくても出来る様になる」と言うのが理想だ。

しかしそれはその人間が「独立」したり、「上の立場」になった時だ。

だからこそ「上の者」は「褒める責任」がある。

繰り返しになるが「相手の気分を良くさせるため」に褒めるのではない。

あくまで親、上司、指導者として「優先順位をつけさせるため」であり、将来的に「指示無しで自分で判断出来るようになるための土台」として必要な事である。


「褒める責任」とは結局「タスク管理」になるわけだがそう考えると日本の「褒めない文化」と「ブラックな職場」 が当たり前のようにある事が当たり前に感じられる。


結局コレも戦後の年代別の男女比のバランスの崩壊、そして本来戦後という「若い男」が減り、「一時的」 に「女が主導権」を握るという構図をズルズルと80年やってきている事が原因と思う。


勿論、実際には政治家にしても企業にしても「高齢の男」が大きなウェイトを占めている。

自分が主導権を握っているのは「陰陽道」に当てはめた「女」の性質である。


この「陰陽道」の性質から読み解く場合、「陰」に当てはまるのは「女」である。

つまりは自分のエッセイで何回も女と結びつけている「陽キャラ」とは本来の「陰陽道」では「陰」の人間なのである。

もっとも、その陰陽道にしても「 ニワカ知識」なので深く突っ込まれると困るが。


何故ニワカ知識の陰陽道の事を語ったのか。

先日、ある大物政治家が中学生ぐらいに対して講演している様子を撮影した切り抜き動画を見た。

中学生から質問があったらしく、将来「働く」という事についての先が見えない様々な不安がある中でどんな風に考えるべきか、という質問。


それに対して政治家は「日本と外国は違う」と語った。

外国、「西洋の宗教」では「労働は罰」であり、「苦しい物」と捉えられる。

しかし、日本の古来の宗教においては天照大御神や須佐之男といった八百万の神々は当たり前のように田畑を耕していた。

だから日本では神様が働いているのだから労働が罰であるわけがない。

そんな風に言って中学生への不安は西洋的な価値観に囚われて過ぎている、と指摘した。


確かに一理ある。

一理あるとはいえ、現実を見ればやはり「労働は罰」と言ってもおかしくない。

「現代日本」と「神話の神々」の違いは何なのか。

それは「属人化」と「標準化」が逆転している事である。


先に上げた天照大神、素戔嗚は確かに田畑を耕し、労働をしている。

しかし考えても見て欲しい。

「天照大神はどんな神様ですか?」と聞かれて「田畑を耕し神様」とは答える人はほぼいない。

「天照大神」とは「太陽を司る神様」というのが殆どだろう。

別に日本の天照大神でなくてもギリシャ神話のゼウスでもインド神話のシヴァでも何でも良いが、確かにそうした神々もそれぞれ労働をしている。

だが「なんの神様か?」と言えば間違いなくその神様が司っている自然や概念の神様だと答える人が大多数だ。

では「人間」はどうか、というのが問題になる。


人間なんて個人で出来ることはたかが知れている。

頭は1つ、手は2つ、足も2つ。大きな差はない。

身体が欠損したら再生しないし、手からビームや火も出せない。

だからこそ神様にとって「司っているもの」に相当する「役割」が重要である。


この人間にとっての「役割」=「仕事」となっているのが所謂「属人化」であり、ブラック企業の筆頭となっている。

しかし属人化にもメリットはある。

それは優秀な人間、企業の上層部の人間であれば「権限」は大きく、なおかつ「自由度」が高い。

まさに神様の「司っているもの」に相当する。


だからこそ、勘違いする。

「職場の権限」をその威光が届かない「家庭」に持ち込んで家庭内に不和を招いたり。

また散々その職場での威光を盾にしてやりたい放題をしていたら定年退職したらその威光が無くなって本格的にパートナーから馬鹿にされ肩身が狭くなったり。

一時期流行ったが「熟年離婚」などもつまるところ「属人化」の影響と言える。


先述した政治家の言う事が正しいのであれば「労働」とは「罰」ではないが、大前提として人間自身が「労働」から得た「立場」とは別に人間自身の「役割」が必要になる。

順番としては「仕事」をして地位や権力を得る→「属人化」ではない。

先に「属人化」してから生活のために「仕事」を得る。


とはいえ「役割」というのは神様ではない人間というのは最初から持っているものではなく、人から与えられるものだ。

SNSで自称成功者みたいな人間は多くいる。

その中で見た呟きで「頑張って努力した者は早くから『何者』になっている」という。


「自分は何者か」

「自分の価値とは」

仕事で成功して金稼いだぐらいでそれを理解したというなら貴方の価値は「金」以外の何者もでもない。


「何者か」を決めるのは他人であり、常に流動する。

どれだけ稼いでいて「成功者」を自称しても犯罪に手を染めていた事が発覚すれば「犯罪者」である。

「価値」なんてものも「人間」自身にはない。

「仕事」や「趣味」といったものに価値があるだけだ。


労働環境が「属人化」から「標準化」に向かうのは「労働」だけを見た場合、「八百万の神々」の理屈に沿った、「生きるために必要な事」としての「労働」に立ち返らせるために重要な事だ。

だがその一方で逆に「属人化」が無くなるという事は人間は「役割」を、神様にとっての「司るもの」を「仕事」によって手に入れる事が出来なくなる事を意味する。


「司るものを持たぬ神」

「標準化」によって仕事が効率化し、その仕事において人間は部品でしかなく、まさに「誰でも良い」のである。

「何者でもない神」

日本神話には「蛭子(ヒルコ)」という神様がいる。

天照大神を産んだ神、イザナギ、イザナミの夫婦神によって女であるイザナミが主導権を握った性行為にやって生まれた「奇形児」。

奇形児ゆえに船に乗せて流された。


だが様々な伝承で蛭子のその後が描かれている。

「海に流された事で海神」となった。

「漂着物を福をもたらすもの、とする地域で七福神のえびす神」となった。

「ヒルコ→日る子であり、偉大な太陽の子であるからこそ試練のために流された」

人間が「蛭子」であるならば海神にも、福の神にも、太陽の子にもなれる。

しかしそれは「漂着した場所」次第。

つまり「環境」次第。


「女」 主導の性行為で生まれた「蛭子」のままでは結局「奇形児」のままだ。

「女」が「女」有り続ける限り、「蛭子」は立ち上がる事も出来ない。

だから「女」は「母」にならなければならない。

「女」が「母」となるという事はつまり「受け身」 となるという事。

それは「母」が「蛭子」にとっての「環境」になるという事。

蛭子が主役の「貴種流離譚」

若い神、若い英雄となり、異郷へ漂着し試練を乗り越え「貴い存在」となる。

未熟な若い蛭子が「貴い存在」へ成るには試練を乗り越えるために助けが必要だ。


3分割で考えるなら、「主役」「試練」「環境」。

「蛭子」が「主役」。「母親」が「環境」。

しかし「女」が「女」のままではそれ自身が「試練」になる。

何故なら、「女」視点の物語では「女」自身が「主役」であるからだ。


「蛭子」が「試練」を経て「神」となるのと同じ。

「女」もまた「試練」を経て「母親」となる。

「女」という「役割」が持つ権限と自由。

「女」から「母親」になる「試練」。

「女」にとって漂着した「環境」とは「男」。

「属人化」が完了してから新たな「仕事」に取り込ませ、周囲の「環境」が手助けする。


だからこそ、最初の漂着場所となる「母親」が重要だ。

「司るものを持たぬ神」である「蛭子」。

漂着した先で「愛される」という「試練」を与えられ、1番最初の「属人化」を果たす。

それが「価値のある自分」という「確信」となる。

だからそこから先、さらに漂着する場所で与えられた「試練」と得られる「役割」は自分自身の力とは「別物」と割り切れる。

だが愛されないままでは最初に愛された役割こそが「価値ある自分」と考え、最初の「属人化」を果たす。


「若くて綺麗な女」として最初の「属人化」を果たされるとそれがその人にとっての「役割」。

その役割が神様にとっての「司るもの」。

「若くなくてはならない」「綺麗でなければならない」「女らしくなくてはならない」。

「たくさん稼ぎ、人より優れた男」として最初の「属人化」が果たされてしまうとそれもまたそれがその人の価値となる。

「稼がなければならない」「優れていなければならない」「男らしくなければならない」

そうでなければ「蛭子」になる。

愛されずに「無価値」の烙印を押されて海へ流された奇形児に戻る。


親、上司、先輩、教師、様々な「上」の立場の人間。

その「上の立場」というのも誰かが「標準化」した「仕事」であり、その仕事に備わっている「権限」だ。

その親、上司、先輩、教師の持つ権限がいくら強くてもその人個人に備わった権限ではない。

「未熟で低能な部下」の代わりがいくらでもいるように自由に権限を振るうだけなら誰でもいい。

「上の立場」とはすなわち、「下の立場」にとって「環境」そのもの。

「下の立場」の人間が、「蛭子」が「福の神」になるのも、「奇形児」のままでいるのも「上の立場」次第。

「上の立場」の役割は「タスク管理」。

「下の立場」の者が与えられた権限と自由を持て余して混乱している中で「褒める」事で「愛されている」という事と「目的」を示す。


漂着したばかりの未熟な蛭子に試練を与えたら「属人化」させてやる。

「自由」と「権限」を与えた上で「試練」に向き合わせる。

さながらゲームの「クエスト」だ。


しかし蛭子の独力では難しい試練。

だから「愛」を与える。

3分割された愛。


最初に与えるのは「過去」。

資金や物資、あるいは教訓という「過去」の力を与える。

「過去の力」を与える事により、「備える」事が出来る。


「過去」の力だけでは失敗するというのなら、次に与えるのは「未来」。

リトライ、時間的猶予、という「未来」の力を与える。

「未来の力」を与える事で「反省」する事が出来る。


「過去」と「未来」、それでもダメなら最後は「現在」。

「上の立場」である自分が手を貸す、という「現在」の力を与える。

この順番で愛を与え、試練をクリアさせる。


最初は「過去」「未来」「現在」の全ての愛が必要だろう。

しかしやがて「上の立場」の者の直接の手助けが必要なくなる。

やがて「リトライ」無しでもクリアできるようになる。

最後は「備え」ていなくてもその仕事をこなせるようになる。

「先入後出し」の愛によって反射で行う事が出来て「属人化」は完成する。


「仕事をするから価値がある」ではない。

「価値がある人がそれに見合う仕事に就き、新たな価値を付与されていく」。

だからこそ、最初の漂着場所となる「母親」が重要だ。

「先入後出し」で「価値」を付与された。

後に付与された価値は先に消えていく。


子どもが成長して大人になれば親としての権限はなくなり、束縛できなくなる。

部下が成長して独立すれば上司としての権限はなくなり、叱責したりできなくなる。

だが最初に与えられた「愛」は「最後」まで残る。

「選択肢」を与え、やがてそれは「捨てる」。

与えられ、そして残る物。

それが「価値観」。

褒めなければ、認めなければ「下の立場」の人間の中には残らない。


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