褒め方を考える。その1
自分は仕事の最中、BGM代わりのローカルのラジオ番組を聞いている。
個人的には好きで聞いているわけではない。
あくまでBGM代わりであり、ほぼ好きなローカル番組などない。
あくまで個人的な感想ではあるが毒にも薬にもならないものが殆ど。
そんな中で自分は嫌悪感を、というより羞恥心を覚えるコーナーがある。
ローカル番組の中には地元出身のタレント、歌手、ミュージシャンや俳優などがパーソナリティの番組があるわけだが、そのパーソナリティの個性が出るコーナーがある。
例えばミュージシャンなら生放送中に音源を流すのではなく、実際に生歌を行う。
俳優ならミニコントのような寸劇をする。
別にそのコーナーそのものは嫌悪感や羞恥心を覚える事はまずない。
問題はその後の「リスナーの感想」である。
全国ネットのラジオ番組と異なり、ローカル番組は基本的に地元の人間がリスナーだ。
ラジオアプリで全国の番組を聞けるようになったがメインはやはり地元の人間。
だから良くも悪くも「地元の人間」の「本質」が見えてくる。
基本的に日中の番組という事もあるが深夜番組の癖の強いもの、youtubeの配信者とリスナーとのコミュニケーションの延長のプロレスであったりという一見すると「言い過ぎでは?」と思われるような「刺激」の強いものはない。
そのためミュージシャンの生歌、俳優の寸劇のあとも基本的に「褒める」。
この「褒め方」の多くが極めて「雑」。
その癖「文字数」は無駄に多い。
文字数が無駄に多いのは自分のエッセイもそうなので感じている嫌悪感は「同族嫌悪」であり、感じている羞恥心は「共感性羞恥」であるかもしれない。
ただ自分とこうしたリスナーの境界線、「絶対に異なるもの」があるとしたらそれは「その言葉を自分で考えているかどうか」である。
生歌や寸劇への地元リスナーの感想は文字数はそこそこあるにも関わらずレスポンスが極めて早い。
そのコーナーを終えてジングルを挟み、すぐに感想が届く。
特にミュージシャンの生歌の方はミュージシャン自身がその感想の数に驚く事もある。
このスピード感はYouTubeなどのリアルタイムのコメントでは一言二言の会話のやり取りのような短文だから出来るものである。
・歌を聴く、寸劇を聴く。
・自分の気持ちを言語化する。
・言語化したものを感想に落とし込む。
という最低3工程ある。
まともにやればコーナーが終わって1分、2分とたたずに出来ない。
結局のところどこかの工程を省いている。
生歌の感想はどんな曲にも当てはまるようなテンプレ感想が多い。
バラードだろうがロックだろうが、なんだろうが何にでも当てはまるような感想。
「声がセクシーで良いですね、曲に合ってる感じがします」
「オリジナルの歌手とはまた違った味わいで良い感じです」
という何も言ってないに等しい感想。
寸劇の感想はもっと文字数が多く、あらすじをそのまま書き起こしたようなものが多い。
自分も子供の頃、嫌々やった読書感想文の宿題で文字数を稼ぐためにあらすじを書くという事をやった記憶がある。
勿論、ちゃんと聴き入ってその気持ちを感想を書いている人もいるが少数派である。
とはいえ自分が勝手にそうしたものに嫌悪感や羞恥心を感じているだけでラジオ番組としては盛り上がるならそれでも良いなら細かい事をイチイチ考える自分がおかしいだけ、で終わる話である。
しかし、ミュージシャンのラジオ番組で改編期で番組がリニューアルし、「生歌」のコーナーが「番組の中盤」から「ラスト」のコーナーに移行した。
コレによって「生歌の感想」の時間がなくなった。
しかし「感想」自体は募集されており、それは番組内でもちゃんと説明し、ちゃんと目を通している、とミュージシャンとアシスタントのアナウンサーも説明していた。
にも関わらず、感想は激減したという報告がされた。
その報告後も何度か「ちゃんと感想を見ている」と説明していたが感想が増える事がなく、結局生歌のコーナーを少し前倒しにして「生歌の感想」のコーナーをラストに持ってきて以降、また以前のように感想の数が戻ったとの事。
子どもの頃の嫌々書いた作文と違って自分のエッセイは好きで書いている。
「書きたい」と言う衝動が第一。
「見てほしい」と言う衝動も勿論ある。
このバランスを取るつもりがついつい自分の「書きたい」の方に釣られて無駄に長くなってしまうわけだ。
では「生歌の感想」を書いている人はどんな衝動だろうか。
感想なんてのは「書きたい」より、「見てほしい」と言う衝動が強いだろうと言うのは分かる。
しかしそれ以上に「感想を読まれる自分」と言う優越感に浸りたい衝動の方が強いのではないか、と思う。
だから当たり障りのない、どんなジャンルでも刺さる「テンプレ感想」。
そして読まれやすいように、少しでも心象を良くするためにやたら「過剰な褒め言葉」が使われる。
「とにかく褒めるだけのテンプレ感想」だから内容がない。
生歌のコーナーの前に予め用意しておき、感想の中に曲名が発表し、歌い終わればすぐにでもメッセージを送る。
寸劇の感想にしても寸劇を聴きながら寸劇の「一点」だけに集中し、その前後のあらすじをメッセージに記入する。
そんな風にメッセージを送っているのではないかと常々思っている。
その感想メッセージをパーソナリティーが読んで「ありがとうございました」と言う。
それを聞く度に「お礼の言葉」が欲しいから送っているのではないか、と思っている。
そしてエッセイを書き始めてからそんな感想を送る同じローカル番組を聞く、同じ県民として「情けない」と思う。
長くなったがここまではただのローカル番組のリスナーへの愚痴だ。
けどコレが「田舎の本質」ではないかと思う。
自分はこの「情けない」と感じる嫌悪感、羞恥心から思った事があった。
それは「褒める」と言う意味合いのある「方言」を聞いた記憶がないこと。
ネットで調べてみたが「馬鹿にする」「怒鳴りつける」「否定する」と言う事に繋がる方言はたくさんある。
しかし「褒める」方言は調べて見たが自分の地元の方言は勿論、他の地域の有名な方言でも殆ど見当たらない。
また一見、「褒めているように感じられる」物は「皮肉」だったりして純粋に「認める」「賞賛する」と言うものがない事はないが非常に少ない。
勿論ネットにはないだけで本来はたくさんあるのかもしれない。
しかしネットにない、という事は少なくとも「馬鹿にする」「怒鳴りつける」といった物と比べて日常的に用いられる頻度が少ない、だから方言といえばまずネガティブな方言が出てくる。
その一方で田舎といえば特産、名産、観光地。
「自分達の住む地方はこんな価値のあるものがたくさんある」とポジティブに売り出す。
自分は過去のエッセイで田舎を「女」と比喩した。
結局それは先述したラジオ番組のリスナーもまた「女」であり、「陽キャラ」。
ラジオ番組の中で自分のメッセージが紹介されてパーソナリティーからお礼を言われる。
「スポットライト」に当たるから自分の時間と労力を掛けるが感想を書いても読んでもらうのが番組の外、スポットライトが当たらないなら「情け」は向けない。
自己顕示欲が強い。
そして「文字数稼ぎ」。
何にでも当てはまるテンプレ感想。
わざわざ書く必要のないあらすじ書いてまで文章量を少しでもカサ増しする。
中身は「面白かった」「凄かった」と言う小学生レベルの感想だがその文字数や言葉遣いはそれなりに大人レベル
心象を良くしたいと言う承認欲求。
ラジオ番組をbgm代わりにして聞き流しメッセージを送らない自分より、ラジオ番組を盛り上げているだけ、ラジオ番組自体を基準にした場合はどんなに薄っぺらいメッセージでも彼らの方がリスナーとして有益だろう。
だがそれはラジオ番組を基準にした時でしかない。
「やらない善よりやる偽善」。
だけど「やる偽善」より「やる善」の方が良い。
その比較は「謝ったら許してくれるのか」と言うパワハラ芸人にギャルタレントが求めた「パフォーマンスではない本当の謝罪」と同じ事。
陽キャラ、女達は自分が得意な「行動」を選ぶ。
一方で「偽善」を「善」に変える努力をしない。
その一方で慎重な陰キャラ、男達には苦手な「行動」を望み、そして当然のように「善」も望む。
コレもまた「陰陽」の話となるが最終目的は「やる善」なのだ。
「やる偽善」ではない。
そして最下層は「やらない善」ではなく、「やらない偽善」だ。
善意を持つ者は何もできない自分、弱い自分に「罪悪感」がある。
その「善意」は中々捨てられない。「罪悪感」を中々捨てられないからこそ、「誰かの迷惑になるかもしれない」「自分なんかが出しゃばっていいのか」
と葛藤する。
だから「やらない善」の者が「やらない偽善」になるまでは「自分が考えてもしかたない」と理解する強烈なきっかけか、「忘却」するための時間を有する。
しかし「やる偽善」である者は唯一秀でた「行動」を止めればすぐにでも「やらない偽善」となる。
結局、田舎の問題は「やる偽善」を「全肯定」した事。
良いところを褒める、それは問題ない。
しかし悪いところもある。それは見直す必要がある。
それを分けないまま、全て「良いもの」とした。
「伝統」「文化」とし、「郷に入っては郷に従え」を盾にした。
全肯定するのは現代の推し活でもファン以外の人間からすれば良い顔をされない。
だからこそ「褒める教育」の本質を取り違える。
「放任主義」を「育児放棄」に変えてしまう。
「甘えさせる」を「甘やかす」にしてしまう。
「厳しさ」を「暴力性」にする。
「褒める方言」がない、少ないのはその必要性が無かったからだと自分は思う。
何故褒める必要性がないかといえば「褒める」と言うのは「立場が上」でなければならない。
立場が同等、あるいは下の者からされた所でイラつくだけだ。
それこそ「皮肉」にしか感じられない。
「褒める」とは「上位者」に与えられた権利であり、責任でもある。
仕事でも趣味でも下の人間から「凄いっすね」と言われるより、上の人間から「よくやった」と言われた方が良い。
にも関わらずその方言がない。
怒鳴りつけるような方言はあっても褒める方言をわざわざ作る必要が無いほど田舎には低脳、無能ばかりだったのか。
もしくは「上に立つ責任」を取りたく無かったか。
何回も褒めれば言葉の価値が軽くなる、と言うのであればそれは怒鳴りつけるのも同じ。
結局それで怒鳴りつける効果が薄まり、行き着く最後は暴力に出る。
褒めるもやがて金銭などの譲渡になる。
そして日本人は現在、その行き着く先もまた比率が方言のそれと同じ。
給料は昔と然程変わらない。
けれどドンドン出生率が減り、人が減る。
人手が足りない、時間が足りない。支払いは多くなる一方。
無駄な物を削ぎ落とし、不要な物を切り捨て、コンパクトに。
思考を最速、最短で間違う事なく正解へ。
「間違い」と言う光の当たらない無価値な物、「未熟」と言う捨てられる物に価値を見いだす。
それが「教育」、それが「選択肢」。
「こんな奴のどこに褒める所がある?」
と観察する。
「どう褒めればコイツは成長してくれるだろう」
と考える。
「こんな奴を褒めて自分にプラスになる事があるか?」
例え「褒める」事が偽善でも秀でた「行動する事」を捨てる理由を探し始めれば「やる偽善」から「やらない偽善」に真っ逆さま。
ある漫画で「努力が報われるとは限らないが成功する者はすべからく努力している」といった台詞がある。
それと同じ。
「褒める」事で絶対に人の上に立てるとは限らない。
だけど人に慕われる人は大体「褒め上手」。
「バカとハサミは使いよう」
褒めなくても自発的に動く優秀な人材は確かに理想的な部下だけど、そんな優秀な部下なら尚更「褒めない上司」より「褒める上司」を大抵望む。
「褒めない上司」のまま、優秀な部下も手放したくないなら、「褒める上司」が比較対象にすらならないように能力をつけなければならない。
それこそ「優秀な部下」が必要ないくらいに。
だからこそ褒めなくてもいい「高性能な道具」が開発されてきた。
「褒めない文化」が「高性能な道具」を産み、
「褒める文化」が「優秀な人材」を産む。
弱者を見下し距離をとれば取るほどその人のレベルは弱者に近づく。
弱者を受け止め、思い悩み、褒める事ができる人はその距離とは反対に弱者のレベルから遠ざかる。
「優秀な人材」は高性能な道具の使い方も備わっているが同時にハサミの使い方も熟知している。




