感謝と謝罪と罪悪感
罪悪感と謝罪に重点を置いてきたが罪悪感を考える場合、感謝するという事も切っては切れぬものだ。
「感じる」「謝る」。
「謝る」については以前のエッセイで語ったように自分としては「言葉」を「射出」する。
弓矢を引き絞り、離すだけの状態。
照準を合わせ、拳銃の引き金に指をかけた状態。
あとはワンアクションで完結する。
その「言葉の射出」を「感じる」。
自分は「感謝」における「感じる」とはこのワンアクションまでに至る「因果関係」を感じることだと考えている。
弓矢や銃は相手を攻撃する道具だ。
「何故攻撃するのか」
と考えた時、ざっと考えると
「狩猟のため」
「敵意から身を守るため」
「憎しみから」
細かく分ければもっとあるだろうが大まかに分ければこんなところだろうか。
ではさらに「何故この武器を使うのか」
武器なら弓矢や拳銃以外にナイフ、ハンマー、斧、棍棒、刀剣類といった物がある。
コレらを使って攻撃する際、「射出」という表現はあまり使われない。
「斬る」「叩く」「刺す」。
攻撃の多様性、あるいは道具としての凡庸性としてはこれらの道具のほうが取り回しに優れている。
それでも弓矢や銃を選ぶ。
それは「間合い」を取れるからだ。
剣道には「敵より遠く、我より近く」という言葉があるらしい。
剣道の経験はないため、体験ではなくネットで知った知識から自分が考えただけの浅いニワカ知識である事は前もっていっておく。
その上で「間合い」もまた3つの「間合い」がある。
一つは見た目で分かる「距離」の間合い。
相手よりリーチがあれば有利であるのが基本ではある。
だが「間合いを潰す」とリーチの長さが不利になる事も。
それが二つめの「動作」の間合い。
大柄な相手に小柄な者が入り込めば大柄な者は自分のリーチの長さ故に攻撃動作が遅れる。
「振りかぶる」→「振り下ろす」まで距離が長くなり、時間がかかる。
だがこの動作をしなければ十分な殺傷能力は得られず、道具は「武器」にならない。
「槍」の間合いでは「ナイフ」は勝てない。
だが槍の穂先より相手の内側に入ればナイフにも勝機はある。
そしてこの「距離」と「動作」を自分にとって有利にするには「予測」が重要だ。
剣道では武器が同じであるため、武器自体のリーチではなく、相手のリーチを見なければならない。
体格的なものは素人でも分かる。
相手の方が大柄なら距離を潰す必要があるし、相手が小柄ならこっちは距離を取る。
構えや立ち位置は剣道に通じている者ならそこからどんな挙動をするか考える事ができるだろう。
だがそれ以上に分かるのは相手の「感情」を読み取る事が出来ればそれに合わせて自分が備えれば迎撃できる。
逃げようとする相手を追いかけるよりも逃げ道を潰して袋小路に追い詰めた方が良い。
積極的に向かってくる相手はコチラから攻撃するより相手の攻撃を誘ってそれを捌いて攻撃に転じた方が労力やダメージを最小限に抑えられるだろう。
一方で慎重な相手に対してはコチラ側から仕掛けて反応を見る必要がある。
「カウンター」を狙っている相手ならそのカウンターがある事を踏まえて1撃目を放ち、離脱する。
あるいは狙っているカウンターにさらにカウンターで合わせる。
相手の「心」を感じる事が重要であり、それに対して自分の手札をどうすれば勝てるのか、と考える事が出来れば最小限の労力で効率良く倒す事ができる。
ただしこれらの「敵より遠く、我より近く」はあくまで剣道の話。
「同じ武器」、正確には「同じ間合いの武器」を使うのが前提だ。
「射出」する遠距離武器を使えば近接武器を使う相手には一方的に攻撃できる。
「下手な鉄砲、数打ちゃあたる」
という考えがある通り、一方的に有利な間合いであるなら後は間合いを測るよりもとにかく射出の回転数を上げれば良い。
当たらなければ当たるまで打ち込む。
当てても向かってくるなら止まるまで打ち込む。
そうすれば相手は死ぬ。
例え、大柄な相手、人間だけでなく獣であっても同じ。
あとは後始末だけだ。
簡単な話で誰でも出来る。
さて上記を踏まえて「感謝」に話を戻す。
何故「感謝」するのか?
理由は単純で「助けて貰ったから」
「何故助けて貰ったのか?」
それも単純明解。
「自分が未熟だったから」
「感謝」をする。
「遠距離武器」を用いて最後のワンアクション。
相手と対等な条件ではどうあっても勝てないから「武器」に助けて貰う。
「感謝」をする、というのはつまり「自分の弱さ」を恥じる事。
「自分の弱さ」とは「自分の能力の低さ」自体もある。
そしてその「能力の低さ」を無視して「分不相応」な報酬に釣られて手を出してしまった目算の甘さ。
後始末まで計算に入れてなかった計画性の甘さ。
それらを「助けて貰った」。
「助けて貰う」、という事は「愛」を貰うという事だ。
物資が足りなければその分物資を出してもらう。
物資には金がかかる。
自分の能力では時間内に目的が達成できない。
限られた時間で自分の目的を達成するため助けてくれた人の時間を奪う事になる。
勿論、相手の労力も奪う事になる。
表現を変えれば助けてくれた人にとって本来別の目的のため用意された金、時間、労力。
相手の「愛」が「犠牲」になった。
何故自分が「罪人」なのか。
それは闇雲に「感謝」する事を強制されてきたからだ。
「全ての事に感謝しなさい」
理想的な話だ。
自分にも感謝する事に費やせる「愛」が有ればしてやるが人間である以上、「愛」は有限だ。
「感謝」をしていれば動けなくなる。
だから「細かい事は気にするな」という事が重要であり、同時に「どこまで細かい事なのか」というのが重要なのだ。
そして「成長」するためには「動く」事が重要でありる。
その動くためには感謝しなくても良い「無償の愛」が必要なのだ。
その「無償の愛」を受ける、とは自分のためにその人を「犠牲」にするという事。
「有限」な人間にとって「全てに感謝」という事は不可能だ。
人間だけではない。
道具、動植物、環境、思想、概念、あるいは奇跡。
「犠牲」になったものを探すだけでも「愛」が浪費される。
環境に不満を漏らせば「日本は恵まれている」と不満を責めるように叱責する者がいる。
そんな事は誰でも分かっている。
だがそんな「恵まれた日本」を形作っているのは「日本人」そのものであり、犠牲になっているのもまた「日本人」。
「恵まれた日本」に感謝するという事は「日本という環境」に感謝する、つまりを作り出している「日本人」に感謝する。
ならば「不満を吐露する日本人」は「恵まれた日本」の犠牲者である。
グチグチと不満を漏らす者を責めたくなる気持ちは分かる。イラつくだろう。
何故イラつく?
それは「恵まれた日本で生活する気分の良い自分」の視界の中で「気分が悪くさせる存在」が「不満を漏らす人間」だからではないか?
「イラつく」のはお互い様だ。
気分が悪い時、幸せそうにニヤケながら「気分良さそうにしている人間」ほどイラつくものはない。
余裕がないから余裕がある奴を見ると惨めになってイラつく。
そんな「イラつく」状態に何故「余裕がある筈」の「気分が良い者」でもイラつくのか。
「罪悪感」を感じたくないから。「感謝」できないから。
「自分の幸せ」が「誰かの犠牲」の上で成り立っている事を認めたくないから。
だから満たされている筈なのに余裕がない。
後ろめたさを感じれば今までのように手放しで幸せを感じられない。
何故満たされているのに余裕がないのか。
分不相応な武器を持っているから。
刀剣の合戦で「弓矢」や「拳銃」を待たされて勝ち取った幸せ。
皆が刀剣で斬り合い、殴り合う中、外から一方的に遠距離武器を用いて「射出」して勝者となった。
それを「卑怯」とは言わない。
「殺し合い」とはそういうもの。自分の手札にある物を使って何が悪い。
「生きるため」には効率を追求するのは間違いではない。
だから「斬り合う者達」が手に入れた「敵より遠く、我より近く」という概念が喪失している。
「殺す」能力は手にいれても「活かす」能力は手に入れられない。
永遠に「下手な鉄砲」のまま。
無駄に矢や弾を浪費し、仕留めるまで時間がかかるし、例え刀剣を振り回すより労力が少なくても弓でも銃でも肉体的、精神的な疲労は溜まる。
刀剣から銃に代わっても戦うのは人間。
だから「技術」が生まれ「道」が枝分かれする
「下手な鉄砲」では10発撃たなくては相手を止められなかった相手を1発で仕留められるようになる。
「下手な鉄砲」では殺すかどうか運任せだったのがダメージの「塩梅」をつけられるようになり、「殺さずに無力化」を狙えるようになる。
そして「下手な鉄砲」のままでは「消耗品」でしかなかった「銃」に愛着が湧き、構造の知識を知り始め、メンテナンスのやり方を自ずと理解しようとする。
ただの「道具」が「地肉」となる。
なくてはならなくなる。
最近、他所のサイトで話が上がるが例えば「クレジットカード」。
その道具、システムに「感謝」して使っているか?
「現金を持たず」「手軽」にショッピングを楽しめる。
それは時代においては当たり前になってしまったけど、決して筋肉や髪の毛のように自分の肉体に備わって生まれた物ではなく当たり前じゃない。
そう全てが「細かい事」だ。
拳銃は人殺しの道具であり、何発撃とうが効率が悪かろうがコチラの安全を確保したまま相手を殺す事さえ出来れば良い、と割り切れば「技」など必要ない。
クレジットカードだって提供する企業と利用者、それぞれにメリットがあり、お互いにwin-win。
わざわざ感謝しなくても良い。
気にしていたら何も出来ない。
けど「感謝」をするというのはそうした「細かい事」に気づくという事。
「無償の愛」の裏にある「犠牲者」に気づく。
「今まで気づかなくてすまない」と謝罪する。
その罪に気づいてしまったからこそ続けて思わず「今までありがとう」と感謝の言葉を「射出」する。
「謝罪」というのは「罪を犯した時、罪悪感を感じた時に出てしまう反省の言葉」。
「感謝」とは「今まで感じなかった罪を認識した発見の言葉」
昔から思考停止で「謝れ」「感謝しろ」と闇雲に教え込む「躾」。
確かに「謝る」という動作自体が備わっていなければならないかは「反復練習」は必要。
だけどそれで「躾」は終わらない。
その反復練習では「感謝」と「謝罪」の違いが分からない。
そして「許す」のも重要だ。
日常生活で「なんでもすぐ謝る人」がいる。
卑屈な人間、と思われガチだが相手側が多少イラつく程度でそこまで大きな問題にならない。
「感謝」と「謝罪」の違いを教えて貰えないまま、とりあえず謝れば「許されてきた」という経験がある。
感謝しても謝罪してもその違いが分からない。
けどどっちにしても罪悪感がある。
「感謝」が「発見」、「謝罪」が「反省」。
つまり「感謝」をすれば自分の視野が広がり、成長するがそれは同時に罪悪感が「増える」事を意味する。
だから先に「謝罪」をし、更に相手から「許された状態」という精神的に安定した状態から「感謝」をして「新しい罪悪感」を迎える。
この当たり前の流れを反射的に「迷惑をかけたら謝罪、助けて貰ったら感謝」と単純なプログラミングの条件分岐を刷り込むことを「躾」としてきた。
だから「すぐ謝る人」というのは問題が発生した時だけではなくオドオドしがちだ。
自宅や自室、とにかく一人にならなければ気が休まらない。
人前では常に「条件分岐」の岐路に立たされており、心が休まらないからだ。
そして「感謝出来ない人間」。
コチラは「なんでもすぐ謝る人」が「感謝」と「謝罪」の違いを知らないけれど曲がりなりにも「謝れば許してくれた」という経験があるのに対して「謝っても許して貰えなかった」まま育ってきた。
「感謝」と「謝罪」、違いが分からないからどっちも罪悪感を感じる。
「謝ったら許してくれるのか?」のエッセイでも買いた。
あのエッセイでメインは「パワハラ芸人」だったが
過去の日本も慰安婦問題で同じ問いをしていて、そして「何度謝ってもトップが変わったり、時間が経てば忘れてまた謝罪を求めてくるようなら国交断絶しろ」という日本人は少なくなかった。
「感謝」しても「謝罪」しても「許されない」。現状が変わらない以上、やるだけ無駄なのだ。
スポーツで何のためにトレーニングをする?
RPGで何のためにレベル上げをする?
勉強も何のために予習復習をする?
嫌味な目上の人間になぜおべっかを使う?
何故女は化粧をして自分を良く見せようとする?
何故男は稼いだ金を女に貢ぐ?
「現状」から「変わる」かもしれないから「怒り」を「努力」に変えるのだ。
そして「努力すれば変わる」という確信があるのは「許された経験」があるから。
「喜び」が既に身に備わっている、与えられているからだ。
だからその「確信」がない人間は「迷惑をかけたら謝罪、助けて貰ったら感謝」という条件分岐にすら立たない。
その「感謝」も「謝罪」も「何も変わらない」という体験を刷り込まれている。
「喜びの確信」のある「普通の人間」はこうした者達を「愚かな人間」だと思うだろう。
ならやるべき事は分かっている筈だ。
「無視」すれば良い。お互いそれが楽だ。
「教訓」として次の世代がそうならないように「躾」を見直し、改善し、若者達に伝えれば良い。
「手助け」をすれば良い。彼等のような「愚かな人間」のために自分達が先に「感謝」し、「謝罪」し、「許す」。
上から順に「楽」「怒」「哀」の感情。
このどれか、自分の「年齢」や「好み」、「能力」で選べば良い。
「大人」なら。
だが現実としては普通の人間は「喜」の道を選ぶ。
「無視」は出来ない、「教訓」にも出来ない、「助け」もしない。
「自分達」のために「愚かな人間」に奉仕させるように仕向ける。
「数」の暴力で追い詰める。
「権力」をチラつかせる。
「被害者」のように振る舞う。
「人を変える事は出来ない、自分が変わるしかない」という誰が言い始めたか分からない名言がある。
そして「普通」の人間は「愚かな人間」に対して当てつけのようにこの言葉を提示する。
そうやって「正しい普通の自分」は動かずに「愚かな人間」を変えようとする。
「何も変わろうとしない者達」を目の当たりにすればするほど感謝が出来ない人間は「何も変わらない」という確信を深めていく。
そして「感謝出来ない人間」が離れ、その皺寄せで「すぐ謝る人間」が身体や精神を壊し、結局最後は「正しい普通の自分」が責任を取るハメになる。
人生100年の喜怒哀楽。
25までの若者なら「喜び」をとっても「若いから仕方ない」。それは許そう。
けどそれ以上の年齢で「喜び」を選べば相応の報いは受ける。
「許す側」の人間が「許す事を放棄したの責任」。
「感謝」と「謝罪」がただの「反復練習」だった「古い躾」の被害者に「謝罪」をし、それに気づかせてくれた犠牲者に「感謝」を。
それは自分にとって押し殺してきた「過去の自分」。「愚かな自分」。
とりあえず、「罪悪感」という話で書きたかった事は今回の話で書ききった。
本当はもったあった気もするが、体調不良で休んでた期間に頭から抜け落ちたと思う。
思い出したらまた罪悪感の話を書くかもしれないが今は別の事を書きたくなったのでとりあえず区切り。




