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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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親子間の罪悪感 

毒親というワード、過去に自分もエッセイで何度か語ってきた。

とはいえ親自身もまた「完成」していない。

だから親として子どもと一緒に成長する。

だから一概に「未熟」だからという理由で毒親認定するのは問題がある。


そこで自分は過去にいくつか「毒親の条件」というものを様々なエッセイのテーマから提示してきた。

まず1つ目は「女が母親になろうとしないこと」。

女嫌いのエッセイで語った話だが、女が精神的に「女」としてチヤホヤされる事を望むのを止め、子どものために「母親」になる覚悟を決める。

そのためには「女」を支えるパートナーの「男」の安心感は必要不可欠であり、「毒親」は「両親」の問題である。


2つ目は「愛情」を向けられない事。

愛と情。

自分のエッセイでは愛とは金、時間、労力。

金とは過去を示し、時間は未来を示し、労力は現在。

そして情とは若さ。受け身である事、時間がある事、体力がある事。

この愛と情でダブっていない「金」と「受け身」。

それをまず示さなければ子どもは何も出来ない。

また、「金」というのは「過去」の成果。

分かりやすく目に見える「金」として定義したが、「教訓」でも良い。

というより本来は「教訓」を教えるべきだ。

ただ時代の変化により、過去の常識が現在の非常識になり、過去にはなかったものが現在の当たり前になっていく。

その変化に親個人の教訓だけでは対応しきれない以上、学校などがある。

教訓の代替え品として金が手っ取り早いというだけだ。


3つ目が「普通」を盾にする事。

「女」や「陽キャラ」が多用し、罪悪感から逃れる事が容易となる。

「普通」と言う事を盾にすれば「普通とは異なる者」を叩く事が出来る。

「普通」ではない者の助けを求める声を「自己責任」と切り捨てる事に慣れてしまう。

だがその「普通」は「社会」が求めた基準であり、「親子」の間では意味がない。

肉体的にハンデがある子ども、精神的に拘りが強い子ども、知能の成長が遅い子ども。

そうした「普通」とは異なる子どもを前に親が「普通」を盾にするのは「見捨てる」という無責任な行為となる。

そして「普通じゃない子どもを授かって普通の私は不幸」という被害者意識が生まれる。

被害者意識が生まれればケチ臭くなる。

愛情を向ける事に対して出し惜しみして毒親になる。


今回書きたいのは「子どもと同レベル」の親となる。

人生100年時代、あるいは80年でも良いが結婚の平均年齢が男女でズレはあるにしても現在は30が1つのラインとなっている。

多くの場合親と子どもは「喜怒哀楽」の季節が1つズレている。

子どもが「喜び」の季節なら親は「怒り」。

だから同レベルにはならない。

その上でたまにネットで見かける親子の言い争いがある。

子ども「誰も産んでくれなんて頼んでいない」という訴え。

思春期、反抗期故の情緒の不安定さ。

あるいは学校などで現在に不満や問題を抱え込んでいて一人ではどうにもならないから当たり散らす。


傍目から見れば、特にまともな親に育てられた人間であればあるほど親に対して毒を吐くような行為は嫌悪感を持つだろう。

そうした「幸福」な人間の創作なのか、あるいは実際にあった事かは知らないがそんな「産んでくれと頼んでいない」という子どもの愚痴に対して正論で突き放すのが過去にバズった。

「自分は生みたくて生んだわけじゃない。お前が一等でゴールしたから生まれてきた」

パートナーとの性行為、そして受精の話を競争に例えて論破して子どもの反論を許さない母親。

そんな話が反響を呼んだ。


あくまで子どもの不幸は子どもの「自己責任」。

その不幸を人の所為にする、あまつさえ衣食住の費用などを負担してくれている親の所為にする不届き者に正論で論破する。

「情けがない」

子どもがじゃない。

ここに登場した正論パンチを得意気に語る母親とそれに賛同するように高評価を押した者が情けない。


20〜30、あるいはそれ以上年下の未成年の主張に対して論破する。

「争いは同レベルの者でしか発生しない」

論破した、という事は「勝負した」と言う事だ。

「勝負した」と言う事は「同じステージに立っている」と言う事。


子どもの試合に大人が出れば無双出来る。

だから年齢制限があるし、逆に子どもでありながら大人に混じって結果を出す選手には事更に賞賛の拍手が与えられる。

一方で「心は女」といって身体は男の選手がスポーツの大会の女の部門に出て無双した話もあった。

こうしたスポーツの大会で「精神的な性」を引き合いにして卑怯を押し通した選手が批難され、同時に「LGBT」や「多様性」そのものが叩かれがちだが「大会主催者」側で止めなかった以上、ルール上でそれは公正だ。

だから本来「外野」が叩くべきは「大会主催者」。

「大会主催者」は事前の選手の実績からこうなる事くらい予測できる筈だ。

だからそうなる前に毅然として跳ね除ける責任があった。

それが出来なかったのは主催者側もまた「多様性」を重んじるようにしていく社会の流れに対応しきれなかった未熟さ故。


スポーツの大会は「社会」の枠組みと「選手」の枠組み、最低限、2つ以上の枠の見方がある。

では先述した「親子」はどうか。

「1つ」しかない。

コレがもし、「老いた親」と「成人した子ども」であるならば「社会」の枠が入り込む余地はあるが「選挙権」も与えられず、親の保護下にある以上、社会の枠は通用しない。

シンプルに「家庭内」の枠の「親」と「子ども」なのだ。

本来ならスポーツ大会で言うならば親は主催者側であり、子どもは選手側。

子どもからの不満、抗議を受け止める責任があるのが主催者側。

子どもの反則や違反を正すのが主催者側。

では「産んでくれなんて頼んでいない」という主張は受け止めるべき「抗議」か?

それとも正すべき「反則」か?


反則はそれを行う事で一方的に有利になる「不正」だ。

子どもの主張は「不正」か?

勿論、主催者側にもどうにもならない「不満」かもしれないが「不正」ではない。

だから「注意」「警告」「指導」といった「勧告」がある。

では子どもに対して子どもの不幸は「自己責任」だと言うのは「勧告」なのか?

「大枠」で見た時、確かにそれは「勧告」である。

主催者と選手という構造の立場があれば。

しかし「論破」しようと主催者が選手として試合の舞台に上がってしまった。

それはもう「勧告」ではない。

「選手」でありながら「主催者」の力を発揮した「越権行為」である。


また、「主催者側」が「選手」の舞台に上がるように「選手」を強引に「主催者側」に上げるという考えも蔓延している。

「文句があるなら出ていけ」あるいは「不満があるなら自分でやってみれば良い」

これも「正論」で論破しているようだが「情けない」だけなのだ。

「受け止めて時代に合せて改革する」という気持ちがないから「お前がやってみろ」と言う。

金は出さない、時間もかけない、労力もかけない、受け止めない。

だから「情けない」。


「何も出来ないくせに不満だけは一丁前」

そうだよ。当たり前だ。

だって「出来ない」んだから。

子どもが課題を投げ出そうとしているのは何故か。

「出来ない」からだ。

セルフレジで当たり散らしてる老人は何故怒っている?「出来ない」から怒っている。

非モテがモテる人間に怒るのは?

恋人が「出来ない」からだ。

出来る人間は不満を出さない。当たり前だ。

だから「出来る人間」、「教える側」の基準に合わせればドンドン人は少なくなるし、不満は増える。

そしてその身近な例が「田舎」だ。


田舎にはその土地の文化、伝統がある。

だがそれは古臭い。時代にそぐわない事も多い。

それでも価値がある、とその土地に昔から住んでいる人は体感を持って理解している。

しかし若者は体感がない。

そして「時代」に沿うならば「時代」の流行を追いかける必要がある。

老いて身をその土地に埋める覚悟が出来ている者と先のある若者とでは同じ住民でありながら立場は別物だ。

そして「時代」を追うのが多数派である以上、それから距離を置く田舎の文化や伝統は少数派。


「新参の移住者から匿名で伝統の祭りに騒音の苦情があった」

最近ではよくある話だ。

これに対して昔から住む人間は「新参者の少数派の意見をいちいち聞いていたら伝統や文化は消えてしまう」と言って苦情があるなら匿名ではなく顔出しで話し合おうと言う。

しかしそれは出来ない、とその匿名の意見は取り下げられ、昔から住んでいる自分達「多数派」の勝利となる。


だか少し考えれば仮に話し合いに応じたとしてその「多数派」対「少数派」と言う構図でどうなる?

仮に正論で少数派がねじ伏せて伝統の祭りを正規の手段で中止させた所で顔出しした以上、その後の生活に支障があるのは予想がつく。

村八分になるだろう。そうでなくても新参は3代先まで余所者扱いとして低く見られる場所もあるという。

だから「話し合いには応じない」

やるだけ無駄であり、リターンに対してリスクが大きすぎる。

だから離れる。

匿名での意見に耳を傾けてくれないなら黙って消える。

そして古株が残り続け、新規が根付かない。

そのままいずれ伝統や文化を伝える「人間」が消える。


「少数派の所為で伝統が壊される」

確かにそうだ。

しかしこの場合、少数派は誰か。

「新参の移住者」か?

「日本」と言う枠で見れば「多数派」である。

その土地だけで行われている「騒音」を撒き散らす「祭り」は日本と言う枠で見た場合は少数派、と言う事になる。

田舎の人間は「新参者」を少数派として自分達が多数派であると主張する。

だが新参者は田舎の人間を日本の常識で考えた時に非常識だと主張する。

お互いが自分の立場を多数派と信じて疑わず、相手こそが少数派と思い込む。


「郷に入っては郷に従え」は確かに重要な考え方だ。

だが「田舎」は「日本」の一部であり、「独立」はしていない。

土台にあるのは「日本の法」である。

なら「田舎」はまず「日本の法」に従わなくちゃいけない。


過去のエッセイでも語ったが田舎は「女」だ。

それぞれの文化や伝統という「化粧」をして都会という「男」を誘い込む。

そして「責任」を取らせる。

身内に入ってしまえば「化粧」の下の「本性」が曝される。

昔はそれでも問題なかったがネットの普及である程度調べる事は可能だし、何より交通手段の発達で移動も簡単だ。

だから田舎の人口流出は「田舎自身」の問題である。


田舎について語ったが結局それは親子にも通じる。

子どもに対して親が正論で論破。

やればやるほど親の本性が曝け出される。

子どもと争う同レベルの情けない親。

「子どもの不幸は自己責任」であり、「産みたくて生んだわけではない。精子の中でお前が勝手に卵子に一番最初にくっついた」。

ブーメラン。

「親の不幸は子どもの責任ではなく自己責任」

「子どもは未熟で教育や衣食住の用意、保護等が必要なのは分かりきった事で予想が着いた話。」


何故「苦労する」という事が分かり切っているのに産むのか。 

「老後のために」「一人前の証が欲しくて」「後継者が必要で」

色々と「手に入るもの」を基準にした時に理由はあるだろう。

だがそれで考えて選択肢を選ぶのは「喜び」の季節の人間だけ。

25歳からの「怒り」の季節になれば「背負う物」を考えなければならない。

「罪悪感」も゙「後悔」も背負う。

それでもなお「子どもを産みたくて産んだ」。

自ずと子どもの「誰が産んでくれと頼んだ」という言葉に対して反応は違ってくる筈だ。


そうした子どもの情緒の不安定な時は「過去の自分」も同じだった筈だ。

その時、親に反発し、暴言を吐いて「卵子に一番早く着床したお前が早かったお前の責任」なんて言ってほしかったか?

明確に「欲しい言葉」は状況や時代、様々な違いがあるから「昔の自分が欲しかった言葉」が必ずしも子どもに当てはまるとは限らない。

だから「受け止める」。

「情け」をかける。

「謝罪」する。


「何故親である自分が子どもに暴言を吐かれても謝罪する必要がある?」

それは子どもに「罪の意識」を知ってもらうため。

「子ども」が「不幸」である事を「親」は「罪悪感」を感じている事を示す。

子どもはそれで暴言について反省する。

子どもに闇雲に「反省しろ」「謝罪しろ」と迫るより、

「喜び」の季節に子どもにとって大好きな親から向けられた真剣な「謝罪」ほど心に響く罪悪感はない。


子どもにとって親は「偉大」なのだ。

子ども自身の喜び、怒り。確かに子どもの感情を揺さぶる大きい衝撃ではある。

だが所詮は子どもは「幼体」である。

「成体」である親が衣食住を用意してくれるから成り立つ「平穏」。

その「成体」の親が自分の「不幸」に真剣に謝罪している。

「自分の不幸」が「偉大な親」にとっての一大事。

悪戯をして怒られて感じる罪悪感、約束を破って怒られた罪悪感、色んな罪悪感があるだろうが子どもにとって「親に謝罪させる」ほどの罪悪感はない。


勿論、これは「誰も産んでくれなんて頼んでいない」と言えるくらいに「信頼関係」がある親子関係だ。

自分の場合、心の中では何度も思ったが口にする事はなかった。

何故なら「言っても取り合ってもらえない」と経験上理解していたから。

親が自分の気持ちを受け止めてくれるという風に信じてなかったし、結局「自己責任」とか逆に「謝れ」とか、責められるのは解っていた。

そしてこんな事を思ってしまう自分の情けなさを感じたりして更に自分を責めていた。

だか裏を返せばそれだけ裏切られ、そしてそれだけ自分は親を見下してきた。

「親は偉大」と「思い込みたい自分」。

「何度も裏切り、謝罪もない親」という現実。

「裏切った」という「罪」の意識がない。

「間違えた」という「非」を認められない。

「謝罪」なんて受けたことがない。

だから自分も親の期待を裏切る事に謝罪しない。

別に人様に迷惑をかけようなんて思っちゃいない。

無敵の人になってまで成し遂げたいこともないし、今更新しい罪悪感を背負うのは面倒くさい。

許されない事が分かっているのに謝罪もしたくないし、許されたいとも思っていないだけなのだ。


「親の自分は正しい。言う事を聞かない子どもが悪い」

この考え方のどこに他人が、「社会」が入り込む余地がある?

「家庭」の中で完結している関係性。

スポーツ大会の主催者と選手。

田舎の古株と新参。

「小さいコミュニティ」だからこそ、前提としてその基盤となる「大きなコミュニティ」のルールを守らなければならない。

「子が親に従う」のはあくまで「特例」なのだ。

親も所詮は社会における「個人」であり、不完全な人間だ。

だからこそ子どもを成長させるために「善悪」を教え込みたいのであれば親自身が「善悪」を身を持って受け入れ、そして子どもに示す必要がある。

そしてそれが「喜び」から「怒り」の季節の区切り、「土用」となる。

そしてそれが「社会」に通用する「礼儀」であり、「躾」である。


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