喜怒る
前回の話、アレコレ語ったが一歩引いてみればなんて事はない「オタクが女の子に舞い上がっているだけ」なのだ。
とはいえ、自分は以前から「女嫌い」と主張している。
「結局女が好きなのかよ」
と思われても仕方ないがそりゃそうだ。
よく言われるもので「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心」という物。
これは「女嫌い」のエッセイでも語ったが結局男は女が好きなのは本能としてある。
そして男にとって「最初の女」となる「母親」が「10年」という親子の信頼関係を結ぶ期間を「愛」も「情」も充分に与えず過ごした事で男にとって女は「好き」だけど「信用できない」相手になる。
「信用」。
そのまま漢字を崩せば「人の言」「用いる」。
「用いる」には「使う」「役立てる」という意味がある。
「信」という道具を「用いる」。
道具、スマホでもなんでも良い。
お金をかけて、あるいは時間をかけて、労力をかけて手に入れた道具。
その道具が「信用」できない。
作りが雑、傷や汚れがある、注文していた基準を満たしていない。
嫌悪感を抱く。
男にとって「女」から認められる事は重要な事だ。
だが「子供」は「女」に相手にされない。
対等ではないからだ。
「子供」を相手にしてくれるのは「母親」しかいない。
さて今回のタイトルの「喜怒る」。
最後の「る」は誤字ではない。
「喜怒る」と書いて「きどる」、つまり「気取る」という話をしたい。
コレは自分が考えた当て字だ。
「喜んだり怒ったりする様を気取る」。
つまりは「ピエロ」だ。
前回の話で語った自分の考えの全てが「嘘」という訳ではない。
だが「嘘」もある。
「嘘」というより「誇張」がある。
例えば「ドラゴンボールには一巻400円程度の価値しかない」と書いた部分。
自分は「男」であり、「オタク」だ。
「陽」の下にある「価値がつけられたもの」ではなく、「陰」の中に「価値を見出す」事に喜びを覚える。
「400円の価値」というのは「数字」であり、「全日本人の共通認識の価値」である。
「自分の価値」ではない。だがあたかも「自分はドラゴンボールをその程度にしか思っていない」という風に捉えられてもおかしくない書き方をした。
「極論」ではある。
しかし、「一巻400円程度の価値」というのは紛れもなく事実であり、「正論」でもある。
つまり「陽キャラ」の価値観でエッセイを書いた。
陰キャラの自分に陽キャラの価値観で物を語るなど本来なら書ける道理がない。
だが書ける。それは陽キャラを「気取っている」からだ。
前回のラストを「恥はない」として締めたわけだが、「恥」がないわけがない。
自分の本心ではない。誇張して陽キャラぶって語ったのだから。
前回の話だけではなく、自分のエッセイは「気取る」事が多い。
何故なら基本的に自分のエッセイは「恥」から始まっている。
「他責思考」を肯定するエッセイ、「毒親」の概念を肯定するエッセイ、「女」について語るエッセイ。
どれもこれも「普通の社会」の価値観からすれば「負け組」を公言するだけの「恥晒し」である。
だからこそ「何者か」を気取らなければ表現できない。
だけど、「表現」しなくてはいけない。
「過去の自分」を供養するためにも。
結局、自分のような人間が「気取る」という事を挟まなければ自分の意志を伝えるのが困難な理由は過去において「喜び」と「怒り」を否定された事だ。
オタクが殊更に「ゲーム」や「アニメ」の素晴らしさを誇るのは「過去」においてそれらを「子供っぽい」、「気持ち悪い」「リアルじゃない」などと馬鹿にされた事があるからだ。
自分の「喜び」を否定されたと同時に、込み上げてくる「怒り」の感情もまた「正論」や「皆の意見」で否定された。
「お前の喜びは嘘っぱちであり、その嘘を否定されたからと怒るのは見当違いも甚だしい。」
「いつまでもそんな萌絵や社会に役に立たないゲームをやらないでいい加減、現実を見ろ」
そんな時、自分達は「笑う」。
「喜び」「怒り」を否定された事、心が傷つけられた事を「苦笑い」で躱す。
「大した事じゃない」と自分に言い聞かせるため、「そうですね」と相手と無駄な争いを避ける為に敵意を見せないように笑う。
この「気取る」、別に自分達、陰キャラだけがやるわけではない。
陽キャラもやる。
ただし、陰キャラの「気取る」という行為が「感情の動きを抑える」という被害を最小限に抑えるための処世術であるのに対して「感情を爆発させる」という演技をするのが陽キャラの「気取る」だ。
つまりは「威圧」。
大した事でもないのに大袈裟に「笑う」、あるいは「怒る」。
ただ、陰キャラ陽キャラのどちらにしても「気取る」というのは「疲れる」という事だ。
大人になる上でこの「気取る」という行為はそれが「自然」になる。
「楽」になる。つまり反射的に気取るようになる。
抑えるべきところでは抑え、爆発させるところで爆発させる。
そのバランスが取るのが大人の在り方だが、そう上手くいかない。
何故なら「喜怒哀楽」の「喜怒」は他人から与えられる物だから。
「喜怒」を否定される事を押さえ込むのに慣れればいずれ自分のように押さえ込めなくなれば自殺や無敵な人になる。
逆に爆発させる事を闇雲に肯定され続ければいずれ衝突を生む。爆発させる事を肯定され続けた人間は何人もいるが「陽の当たるスペース」は限られている。能力の強弱で蹴落とされ、支持数で蹴落とされ、最後は若さで落とされる。
他人から与えられるだけの「喜怒」だけしか知らないまま「気取って」いれば生きるも死ぬも「他人」次第。
例外は「過去」「未来」を「現在」と区切った「自分」。
そのためには明確に「時系列」における「違い」が必要だ。
そのためには「行動」が必要だ。
では「行動」とはなんだ?
最近は「行動」「挑戦」、そうしたものが賞賛されている。
何を持って「行動」を「時系列」毎の「自分」の違いを決定づける物とするのか。
たくさん行動している人が国や会社、あるいは土地において権力者となっている筈。
現実を見てほしい。
何故「高齢社会」となっている?
何故自分のような人間だけではなく、真面目な人間にも「生きづらさ」がある?
行動している人、優秀な人、「賢者」が上に立つなら上手く回らない道理がない。
「行動」ではなく、「流されている」だけ。
だから「責任」を取りたくない。
だから「教訓」がない。
だから「出し惜しむ」。
だから「喜怒」と「哀楽」で区切る必要がある。
他人から与えられる立場の「喜怒」と他人に与える立場の「哀楽」。
そのためには「喜怒哀楽」を備えるために「陰キャラ」は「陽」の気取り方が、「陽キャラ」は「陰」の気取り方が必要となる。
だけど「陰キャラ」は「陽」の気取り方、「感情の爆発のさせ方」は方法を変えて持っている。
「趣味」で感情を爆発させる。
感情をエネルギーへと転化する事に成功すれば芸術や教育、創造性のあるものとして表現できる。
とはいえそれも時間がかかる。
一朝一夕で出来るものではなく、大抵間違える。
だから「陰キャラ」が「陽」を気取る時、大抵「イタい」。
感情の表現が大袈裟になる。
自虐ネタなどが分かりやすい。自分を抑えつけるために「笑う」事で誤魔化していた「否定」された事を他者の「笑い」に変える。
勿論、それではただの自虐ネタだが「注目」される。
「恥」を晒せば注目される。
自分のエッセイでも「自殺未遂」を始めて書いた時、あとは「性的」な事を書いた時、PV数が上がった。
何をどう検索して辿りついたか知らないが「恥」はきっかけとなり、そしてその後に「感情」を爆発させた「作品」が見てもらえる。
一方、「陰」の要素を持たない限り、「陽キャラ」にはない。
あくまで「スポットライトの下」で輝く事が出来るから感情を爆発させてもそれが評価される。
「陰キャラ」にとっての「恥」。
「恥」の代わりに「若さ」で注目を集めていた。
若さがなくなった時、結局そこに「感情」を表現する作品が無ければ「中身」がない状態だ。
陽キャラの「気取る」というものは「小さな感情の揺らぎ」を「大きく見せる」。
こけおどしである。演技である。
肉体的、精神的な若さが暴力性を持ち、ファッションやメイクがそれを際立たせる。
けどそうした暴力だけで相手を威圧したり懐柔できるのは若い内だけだ。
「気取る」事で注目を集めるという事は大前提として誰かが「受け身」となって「情け」をかけてくれるから。
「陽キャラ」が「気取る」事を評価され、演技する事が「自然体」となってしまえば後はどれだけ「演技」を追求出来るか。
現代で持て囃される「若くある」という事を「維持」するために次から次へ「挑戦」「行動」と求められるが結局無理が来る。
「若くない」のに「若くあろうとする」のは楽ではない。
だから少しでも楽になるために「自分か若かった時代」を求める。
「自分の技術」「自分の価値観」「自分の役割」、それらを自らで決めなくても良い時代。
がむしゃらに動けば評価されていた若かった時代を求める。
その思考停止で動いた「行動」は果たして「自分」の「過去」と「現在」、あるいは「現在」と「未来」に区切りをつけてくれるだろうか。
何より、がむしゃらに動く時、気取りながら動く時、罪悪感を感じ、責任を背負う事を意識しながら「選択」しているだろうか。
自分はしていないと思う。
自分が陽キャラを気取って「ドラゴンボールは400円の価値しかない」と書いた時、自分の中の陰キャラは「あの作品がそれだけの価値しかないってそんな訳ないだろ。自分でも感動して感情を動かされ理解している筈だ。」と毒づいていた。
「恥はない」という時、「恥」を晒す事を覚悟していた。
陰キャラの自分が行動する時、「陽の当たる場所」に踏み出す時、恥に囚われていては踏み出せない。
だから区切りをつける。
「本当の自分」を「陰」に置き、「陽」の場所には恥を感じて足を止める事のない「気取った自分」を立たせる。
操り人形を操る、というよりゲームのキャラをコントローラで操作する。
「喜び」と「怒り」を気取る。
そしてそれに没入すれば「哀しみ」と「楽しさ」を得られる。
陰キャラは先に「没入」して「哀しみ」と「楽しむ」事を知った。
陽キャラは「喜び」と「怒り」を気取る事で評価される事を知った。
「喜怒」「哀楽」順序が逆転している。
逆転している事を悪い、と考えるなら「次世代」にそうならないように接しなければならない。
だがそれと同時に「逆転していても最終的に揃えば問題ない」と楽観的に見て「非正規ルートからの道筋」を「陰」の中に見出すのも「次世代」のためだと考える。
前回からの「哀楽」「喜怒る」で伝えたい事を出し切ったかと言えば微妙な作品。
ただ、それでも書いたのは「罪悪感」の話を語る上で必要だと思ったから。
まぁ、それにしたって時間かけ過ぎだが。




